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2015年7月18日 (土) 02:51時点における版

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屋嶋城
(香川県)
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城門遺構復元状況(2015年6月27日 現地見学会)
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城郭構造 古代山城
築城主 大和朝廷
築城年 天智天皇6年(667年)
主な城主 不明
廃城年 不明
遺構 城門・ 石塁・土塁・水門跡・貯水池
指定文化財 国の史跡
再建造物 (城門部を復元中)
位置 北緯34度21分14.76秒 東経134度6分19.21秒 / 北緯34.3541000度 東経134.1053361度 / 34.3541000; 134.1053361 座標: 北緯34度21分14.76秒 東経134度6分19.21秒 / 北緯34.3541000度 東経134.1053361度 / 34.3541000; 134.1053361
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城門遺構(南から北を望む)
城門遺構城壁(正面)
城門遺構(西尾根からの遠景

屋嶋城(やしまのき・やしまじょう)は、香川県 高松市屋島に築かれた古代山城である。『日本書紀』に「讃吉國山田郡屋嶋城」と記述され、「さぬきのくにやまだのこほりのやしまのき」と読む。1934年(昭和9年)11月10日、国指定の史跡「屋島」[1] および天然記念物「屋島」[2] に包含された遺跡である[3]

概要

いにしえの屋島は南北5キロメートル・東西2キロメートルの島であり、海外交流・海外交易の主海路に面した要衝であった[4] 江戸時代塩田開発と後の埋立にともない、陸続きのようになる[5]

屋島は南嶺の標高292メートル[6] 、北嶺の標高282メートル、山頂部は平坦で広い台地であり、両者は細い尾根で接続されている。南北嶺の山上全域が城跡とされている[7] 。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている[8] 。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢を[9] 有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造[10] 城門の存在が判明したのは国内初のことであった[11] [12] 。この懸門の存在は、大野城・基肄城と同様に、屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える[13]

浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ石塁がある。この遺構大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは、屋嶋城の唯一の遺構であった[14] 。山上の城は、断崖を利用して城壁は築かれなかったとされていた。しかし、考古学の視点では未実証で、異論を唱える研究者も存在した。2009年度の調査で、7世紀後半代の遺構であることが判明した[15] 。浦生地区の遺構は、山上の城への進入路を遮断した城である。

山上の西方約28キロメートルに、香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた備讃瀬戸の海路が一望でき、讃岐城山城[16] と、鬼ノ城 [17] も視野に入る[18]

島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳[19] ・北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡[20] ・東岸の入江(屋島湾)の一帯は源平合戦の屋島古戦場・北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある[21]

屋嶋城跡は、瀬戸内海国立公園の指定地内に所在する[22]

歴史

調査研究

  • 浦生地区の城跡は、関野貞氏が1917年(大正6年)に発見した遺構である[24]
  • 山上の城門周辺の石塁が発見されるまでは、山上に遺構が無い状態で、詳細不明の幻の城の状況であった[8]
  • 1998年(平成10年)市内に住む平岡岩夫氏による南嶺山上の石塁の発見を契機に[25] 、城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の城の存在が明確になった[8]
  • 南嶺山上の北斜面土塁は、村田修三氏が1984年(昭和59年)に発見した遺構である[26]
  • 浦生地区の2009年度(平成21年度)の調査で、築城年代を示す土器が発掘され、城跡遺構であることが明確になった[15]
  • 屋嶋城は二重防御の城である。また、築城年が明確で、早々に廃城されたと推定され、築城時の遺構がそのまま残された貴重な城跡とされている[12]
  • 城門は懸門に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり[27] 、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で城内から城外に向かって排水路を設け、通路の両側で柱穴が検出され[28] 、建造物(門扉)の存在が実証された。その他、土塁・水門跡・貯水池などがある。
  • 城門遺構の復元工事が進み、全長45メートル・高さ6メートルの城壁が立ち上がり、2015年6月に現地説明会が開催された。城門は幅5.4メートル・奥行10メートル・入口の高さ2.5メートル(段差)、排水口が設置されている。城門の北側城壁は、長さ10メートル・高さ5メートル・幅10メートルである。今後の復元工事は、一般公開のための見学路の整備などが計画されている。

現地情報

  • 城門遺構は復元工事中のため見学できません。2016年(平成28年)3月に、史跡公園として一般公開される予定です。
  • 城門遺構以外の山上地区・浦生地区の遺構は未整備です。城門遺構の整備に並行して学術調査は継続されています。

その他

  • 高松市は屋嶋城跡調査整備検討委員会を設置する。大西秀人市長は「屋嶋城跡の発掘、復元整備を進め、観光屋島の復活を図る」と宣言、城門遺構の城壁・門道等の復元工事が進められている。また、地元のボランティア団体がPR活動を[1]展開している。
  • 2013年10月、古代山城サミット高松大会が[2]開催された。
  • 玉井清弘著 歌集「屋嶋」(第29回詩歌文学館賞および第48回迢空賞を受賞)より。角川書店、2013年。
 屋嶋城あたりに鳴きしほととぎすむこうの谷に声しぼり鳴く
 白村江に敗れしのちに築く城半ばくずれて石組みあらわ
  • 高松市には「市長への提言」制度がある。城門復元に関する提言が数件公開されている。市民からの提言、並びにそれに対する市長の回答事例は以下の通り。
  1. 今一度門扉の設置の検討を。2014年2月18日公開。[3]
  2. 屋嶋城の門扉復元要望の件。2014年4月24日公開。[4]
  • 高松市の2014年6月定例議会における城門遺構の門扉復元の質問に対し、大西秀人市長より「遺構が大きく損壊していることから、文化庁の基準に照らして復元は困難な状況」との答弁があった。(四国新聞2014年6月18日閲覧)

外部リンク

関連項目

脚注

  1. ^ 史跡「屋島」-高松市
  2. ^ 天然記念物「屋島」-高松市
  3. ^ 国指定文化財等データベースー文化庁
  4. ^ 史跡・天然記念物屋島指定80周年記念企画展 『屋島ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』高松市歴史資料館、2014年
  5. ^ 屋島風土記編纂委員会「屋島の風土と環境」 『屋島風土記』屋島文化協会、2010年
  6. ^ 国土地理院基準点成果等閲覧サービスー国土地理院
  7. ^ 南嶺城跡説の論者も存在する。向井一雄「外城ラインに関する一考察」 『戦乱の空間』第4号 戦乱の空間編集会、2005年
  8. ^ a b c 『高松市埋蔵文化財調査報告第62集 史跡天然記念物屋島 』高松市教育委員会、2003年
  9. ^ 讃岐ジオサイト(10)屋島-香川大学
  10. ^ 朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の入口に進入しにくい段差を設け、普段は梯子などで出入りし、戦闘時は撤去する防御性能を高めた構造の門。
  11. ^ 韓国、忠北大学のチャ ヨンゴル教授は「階段状の城門は懸門式だった可能性が高い」と評する。山陽新聞、2002年6月25日
  12. ^ a b 『高松市埋蔵文化財調査報告第113集 屋嶋城跡II 』高松市教育委員会、2008年
  13. ^ 渡邊誠「「日本書紀」に記載の残る屋嶋城」 『教育時報』通巻762号 岡山県教育委員会、2013年
  14. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会「屋島城跡」 『日本地名大辞典・香川県』角川書店、1985年
  15. ^ a b 『高松市埋蔵文化財調査報告第131集 高松市内遺跡発掘調査概報 』高松市教育委員会、2011年
  16. ^ 城山まで約21キロメートル。
  17. ^ 鬼ノ城山まで約52キロメートル。
  18. ^ 村上幸雄 乗岡 実 著 『鬼ノ城と大廻り小廻り』吉備人出版、1999年
  19. ^ 5世紀初頭の全長45メートルの前方後円墳で、石棺は阿蘇溶結凝灰岩製である。
  20. ^ 屋島寺の前身の仏堂跡(礎石建物)で、基壇から多口瓶が3個体出土している。
  21. ^ 香川県の歴史散歩編集委員会『香川県の歴史散歩』山川出版社、2013年
  22. ^ 瀬戸内海国立公園ー環境省
  23. ^ 「天智天皇 六年 十一月 是月、築倭國高安城、讃吉國山田郡屋嶋城、対馬國金田城」と記述。
  24. ^ 関野 貞 「天智天皇の屋島城」 『史学雑誌』第28編第6号 史学会、1917年
  25. ^ 平岡岩夫 「屋嶋城跡の新発見の石塁に関して」 『溝漊』第7号 古代山城研究会、1998年
  26. ^ 村田修三 「研究室旅行こぼれ話ー屋島城ー」 『寧楽史苑』第30号 奈良女子大学史学会、1985年
  27. ^ 朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の外側または内側に城壁を突出させ、直進できない袋小路状の空間を設け、防御性能を高めた構造の門。
  28. ^ "門柱跡新たに3基発見/屋嶋城城門、規模判明". 四国新聞. http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/culture/20131206000125 2013年12月6日閲覧。 

参考文献

  • 小島憲之 他 校注・訳 『日本書紀3』 小学館、1998年
  • 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』 東京堂出版、2007年
  • 史跡・天然記念物屋島指定80周年記念企画展 『屋島ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』高松市歴史資料館、2014年
ウィキメディア・コモンズには、屋嶋城 に関連するカテゴリがあります。

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