コンテンツにスキップ
Wikipedia

「大東亜共栄圏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
1行目: 1行目:
'''大東亜共栄圏'''('''だいとうあきょうえいけん''')とは、[[東アジア]]・[[東南アジア]]に日本を盟主とする欧米諸国に対抗するための共存共栄の新秩序(国際秩序)を建設し、欧米諸国(特にイギリス・アメリカ)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放するというスローガンである。[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]]・[[十五年戦争]])において[[日本]]が大義名分として掲げた。
'''大東亜共栄圏'''('''だいとうあきょうえいけん''')とは、[[東アジア]]・[[東南アジア]]に日本を盟主とする欧米諸国に対抗するための共存共栄の新秩序(国際秩序)を建設し、欧米諸国(特にイギリス・アメリカ)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放するというスローガンである。[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]]・[[十五年戦争]])において[[(追記) 大 (追記ここまで)日本(追記) 帝國 (追記ここまで)]]が大義名分として掲げた。


[[1940年]]7月に[[近衛文麿]]内閣が決定した「基本国策要綱」に対する[[松岡洋右]]外務大臣の談話に使われてから流行語化し、公式文書としては翌[[1941年]]1月31日の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされる。日本・満州・中国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置づけるものと考えられているが、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。
[[1940年]]7月に[[近衛文麿]]内閣が決定した「基本国策要綱」に対する[[松岡洋右]]外務大臣の談話に使われてから流行語化し、公式文書としては翌[[1941年]]1月31日の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされる。日本・満州・中国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置づけるものと考えられているが、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。


==大東亜会議==
==大東亜会議==
[[1943年]][[11月5日]]〜[[11月6日]]に[[東京]]で[[日本]]の影響下にある東[[アジア]]諸国の国政最高責任者を招請して行われた会議である。大東亜共栄圏の綱領ともいうべき[[大東亜宣言]]が採択された。
[[1943年]][[11月5日]]〜[[11月6日]]に[[東京]]で(追記) 現在の日本(以下、 (追記ここまで)[[日本]](追記) ) (追記ここまで)の影響下にある東[[アジア]]諸国の国政最高責任者を招請して行われた会議である。大東亜共栄圏の綱領ともいうべき[[大東亜宣言]]が採択された。


===参加した国政責任者===
===参加した国政責任者===

2006年3月12日 (日) 22:08時点における版

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、東アジア東南アジアに日本を盟主とする欧米諸国に対抗するための共存共栄の新秩序(国際秩序)を建設し、欧米諸国(特にイギリス・アメリカ)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放するというスローガンである。大東亜戦争(太平洋戦争十五年戦争)において大日本帝國が大義名分として掲げた。

1940年7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する松岡洋右外務大臣の談話に使われてから流行語化し、公式文書としては翌1941年1月31日の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされる。日本・満州・中国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置づけるものと考えられているが、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。

大東亜会議

1943年 11月5日11月6日東京で現在の日本(以下、日本)の影響下にある東アジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた会議である。大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜宣言が採択された。

参加した国政責任者

代理参加

  • タイの総理大臣ピブーンソンクラームは、戦前よりそもそも独立国であったタイが、日本の傀儡政権と見られがちな満州国、南京政府、また日本軍進攻によって初めて独立宣言をなし得たフィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を表明、日本側の度重なる慫慂にもかかわらずワンワイタヤーコーンを代理参加させるにとどまった。公式には、健康上の理由によるとされた。

陪席者(オブザーバー)としての参加

参加できなかった主要な地域

  • マライ 1943年の「大東亜政略指導大綱」は、同地域を「(大日本)帝国領土」と位置づけていたため、いかなる民族代表も参加を許されなかった。
  • インドネシア 1943年の「大東亜政略指導大綱」は、同地域を「(大日本)帝国領土」と位置づけていたため、スカルノハッタが参加を熱望するも容れられなかった。
  • 仏領インドシナ この時期日本はヴィシー政権を承認しており、同地域はヴィシー政権の植民地政庁の機構を維持したまま日本軍が駐留するという微妙な関係にあった。このため、いかなる民族代表も参加を許されなかった。
  • 朝鮮および台湾 日本の領土であることは所与の事実であるとされ、いかなる民族代表も参加を許されなかった。

会議の実際とその歴史的評価

この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われたことからそのこと自体への歴史的評価は高い。「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧もある一方で、タイ代表ワンワイタヤーコーンがその演説にあって、大東亜宣言案への修正提案が拒絶されたことへの婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、インドネシア代表が会議に参加できなかったことへの不満を述べるなど、それなりの緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。

戦後一般の認識として、「会議は東条首相による操り人形たちの集まり」とする揶揄もあるが、一方でその大東亜宣言は米英が提唱した大西洋憲章に対抗する形で、普遍的理想を高唱するものであったという評価もある。また、会議の内容について、大東亜宣言を日本が単独で作成し一切の変更を許さないという政治的狭量さ、「大東亜共栄圏」を謳いながら参加国の選別には日本のご都合主義が存在する点、また大西洋憲章を提唱した連合国側がその内容の具現化をダンバートン=オークス会議などを通じて着々と進めていったのに対して、自国の防衛に汲々とするばかりの日本は大東亜宣言の高邁な理想を現実化する能力に全く欠けていた点を問題点とする見方もある。

日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、1945年5月には代替として駐日代表による「大使会議」が開催されたが、その3か月後に日本は敗戦を迎え、大東亜共栄圏は崩壊した。

大東亜共栄圏の実態と評価

上記の大東亜宣言を善解すれば、大東亜共栄圏の目的は、アジアの植民地群を列強の支配から解放、独立させ、EUのような対等な国家連合を実現させることであったとも理解できる。もしこれが本当に実現していれば、大東亜共栄圏への今日的評価は大きく異なっていたであろう。一方で、日本軍占領下で独立を果たした国々(フィリピンベトナムラオスビルマカンボジア満州国)の政府と汪兆銘政権(中華民国)は、いずれも日本政府や日本軍現地部隊の絶対的指導権の下に置かれており、ソ連に対する東欧諸国、アメリカ合衆国に対する中南米諸国のような、事実上の植民地(衛星国)化を目指したに過ぎないという見方もある。特にフィリピンとビルマには既に民選による自治政府が存在しており、日本軍の占領下に置かれたことで実質的な独立からはむしろ遠ざかったという見方もある。また、1943年5月31日に決定された*大東亜政略指導大綱ではイギリス領マラヤオランダ領東インドは日本領に編入することとなっていた(ただし、蘭領東インドについては、戦争末期にジャワ島のみ独立を認める方針に転じた)。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦では、日本軍占領下における植民地支配をフランス本国でヴィシー政権が崩壊したのちの1945年3月9日まで承認していた。

大東亜共栄圏の真意がどこにあったにせよ、日本軍は占領者、植民地的支配者として敗北し撤退した。その結果として日本もまた、かつての宗主国と同じ穴の狢の侵略者に過ぎなかったという見方もある。しかしながら、日本軍が宗主国勢力を排除したことが結果として独立に繋がったという評価や、日本軍統治下で様々な近代化が行われたため、旧宗主国に比すれば日本はよりましな統治者であったという評価もあり、今なお議論が続いている。

関連

Wikipedia:ウィキポータル 大東亜共栄圏 - 本項目に関連したリンク集

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /