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'''閔妃'''(びんひ、びんぴ、ミンビ、<font lang="ko">민비</font>。[[1851年]] - [[1895年]][[10月8日]])は、[[李氏朝鮮]]の第26代王・[[高宗]] 李煕の妃。
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katakana=ミョンソンファンフ/ミンビ|
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'''閔妃'''('''ミンビ'''、[[1851年]][[10月19日]] - [[1895年]][[10月8日]])は、[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]の第26代王・[[高宗 (朝鮮王)|高宗皇帝]] 李煕の妃。日本語読みでは「'''びんひ'''」若しくは「'''びんぴ'''」。[[諡]]は孝慈元聖正化合天明成太皇后。韓国ではこれを略して明成皇后とも言う。[[本貫]]は、驪興(驪州)、[[姓]]は閔、[[諱]]は慈英。


高宗の父で摂政を務めていた[[興宣大院君]]を排して政治の実権を握った。
閔致禄の娘(8歳の時に養女に入ったという)で、15歳の時に[[興宣大院君]](以下大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入った。閔妃が王妃に選ばれた理由は、それ以前の60年間に及ぶ[[外戚]]安東金氏による勢道政治による政治の壟断からの脱却を逃れる為に、外戚としての影響力の少ない人物を選んだからだと言われている。


[[日清戦争]]後、[[ロシア]]との協調姿勢を見せたことから、[[日本]]公使・[[三浦梧楼]]の陰謀により暗殺された(乙未事変)。
しかしながら、その方策は裏目に出た。


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閔妃は聡明で、政治的手腕を持っていた為に王室に嫁いでから数年もしないうちに王朝の政治に関与するようになった。そして、大院君と王太子冊立に絡む対立が深まると[[1873年]]大院君追放の指揮を裏で執り行い、高宗の父で摂政を務めていた大院君を王宮から追い出し、政治の実権を握った。大院君はその後[[京畿道]]楊州に隠居した。しかしながら、この追放謀議に対して閔妃に敵愾心を感じた大院君は政局復帰、閔妃追放の為の運動を始め、それが李氏朝鮮末期の政局混乱の一因にも成った。


[[Category:朝鮮|(追記) ひ (追記ここまで)んひ]]
大院君が失脚すると、閔妃は彼女の一族を積極的に登用し、閔氏による勢道政治を行った。当初閔妃は開国政策をとり、[[日本]]と[[江華島条約]]を締結するなど積極的な開化政策を実施した。日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化も始まったが、従来の軍隊(旧式軍隊)は放置され、賃金未払いなどが発生し、旧式軍隊に対する不満が重なっていた。それと開化政策に不満を持つ勢力が合わさり朝鮮の旧式軍隊が[[1882年]]閔妃暗殺をもくろんだ([[壬午事変|壬午軍乱]])。 その際、多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館が焼き討ちにされたが、事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた[[清]]の[[袁世凱]]の力を借りて窮地を脱した。

そのとき、大院君は清に連行され幽閉されたという。大院君は3年後、朝鮮の通商事務担当になった袁世凱と共に帰国した。

これ以降、閔妃は開化政策から親清政策へと方向転換し、そのために今度は開化派(従来の[[両班]]政治から朝鮮の自主独立近代化を目指す勢力)の不満を呼びこんだ。

[[1884年]]の開化派の[[金玉均]]を中心にした[[甲申政変]]により一時期政権を奪われるが、これも清軍の力を使って政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した。

[[1885年]]になると、[[ロシア]]の南下政策を警戒しだした[[イギリス]]などを牽制するために親露政策もとりはじめる。[[1894年]]に[[東学党の乱]](甲午農民戦争)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、[[日清戦争]]の原因と戦場の一つになった。日清戦争後、日清戦争の勝者である日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は力を失っていく。そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進めていき、[[7月6日]]にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功する。

これらの動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、[[1895年]][[10月8日]]大院君を担ぎ出そうとした勢力により[[景福宮]]にて暗殺され、問題にならないよう遺体もその場で焼却、遺骨も処分された(乙未事変)。

一般には朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った[[日本]]公使・[[三浦梧楼]]が暗殺を首謀したとされる。外交官が王族を殺害するという蛮行に、国際的な非難を恐れた日本は三浦を含む容疑者を逮捕し、形式的な裁判を行った。しかし証拠不十分で無罪とされ、曖昧な決着により真実は闇に葬られた。また、[[与謝野晶子]]の夫である[[与謝野鉄幹]]も加わっていたとされるが、広島[[地裁]][[検事局]]は起訴猶予とした。

閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、これらの政策が逆に仇となり反対派勢力による暗殺を呼び込むことになった。閔妃暗殺後、日本は朝鮮の[[保護国化政策]]を進めていくようになる。

なお、閔妃はその死後、[[大院君]]によって王族としての称号を剥奪され、平民に降格された。[[大韓帝国]]成立後の[[1897年]]、[[井上馨]]ら日本側からの働きかけによって[[明成皇后]]の諡号を贈られた。

[[2003年]]、従来は彼女のものとされていた肖像写真について、朝鮮王宮の女官を写したものではないかとする論説が発表され、話題となった。

== リンク先 ==
*[http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dairokujuuhachidai 閔妃の写真は無かった]

[[Category:朝鮮(削除) 史の人物 (削除ここまで)|(削除) み (削除ここまで)んひ]]
{{生没年|みんひ|1851年|1895年}}
[[en:Empress Myeongseong of Korea]]
[[es:Emperatriz Myeonseong de Joseon]]
[[ko:명성황후]]
[[zh-cn:明成皇后]]

2006年1月17日 (火) 05:51時点における版

閔妃(びんひ、びんぴ、ミンビ、민비。1851年 - 1895年 10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗 李煕の妃。

高宗の父で摂政を務めていた興宣大院君を排して政治の実権を握った。

日清戦争後、ロシアとの協調姿勢を見せたことから、日本公使・三浦梧楼の陰謀により暗殺された(乙未事変)。

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