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'''韓医学'''(かんいがく)とは、[[伝統中国医学]]の系譜で、朝鮮半島で発展した医術・薬学。'''韓方'''(かんぽう)・'''韓方医学'''(かんぽういがく)・'''韓医方'''(かんいほう)ともいう。古くは'''東医学'''(とういがく)・'''東方医学'''(とうほういがく)と呼ばれ、[[北朝鮮]]では1993年に東医学から高麗医学に名称が変更された。<br>また、広義においては古代以来[[中国]]より導入されて用いられていた[[漢方医学]]も含めて朝鮮半島で行われた医学全体を指す場合もある。ただし、[[朝鮮民俗医療|民俗医療]]はこれに含まない。[[李氏朝鮮]]時代に於いては一般的に韓医学の恩恵に浴する事ができたのは王族・[[両班]]と中人階級だけであり、一般庶民はもちろん一部の両班(王族も含む)の間でも鬼神信仰にもとづく朝鮮独自の民俗医療が行われていた(削除) 。韓と漢は同音であるため、ハングルしか読めない韓国の愚民が気づかない間に、支那の医学を自国起源とする歴史の書き換えが進行している (削除ここまで)
'''韓医学'''(かんいがく)とは、[[伝統中国医学]]の系譜で、朝鮮半島で発展した医術・薬学。'''韓方'''(かんぽう)・'''韓方医学'''(かんぽういがく)・'''韓医方'''(かんいほう)ともいう。古くは'''東医学'''(とういがく)・'''東方医学'''(とうほういがく)と呼ばれ、[[北朝鮮]]では1993年に東医学から高麗医学に名称が変更された。<br>また、広義においては古代以来[[中国]]より導入されて用いられていた[[漢方医学]]も含めて朝鮮半島で行われた医学全体を指す場合もある。ただし、[[朝鮮民俗医療|民俗医療]]はこれに含まない。[[李氏朝鮮]]時代に於いては一般的に韓医学の恩恵に浴する事ができたのは王族・[[両班]]と中人階級だけであり、一般庶民はもちろん一部の両班(王族も含む)の間でも鬼神信仰にもとづく朝鮮独自の民俗医療が行われていた。


韓医学は中国からの影響を受け、朝鮮半島独自の疾病・薬物などを取り入れ発展していったと思われるが、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]、統一[[新羅]]時代において、朝鮮に於いて実存する書籍は皆無である。ただ、地理的関係からして日本に最初に入ってきた外来の医学は韓医学であった可能性が高く、唯一百済・新羅の医方を伝えていると思われる書に[[円融天皇]]時の[[永観]]2年(984年)に[[丹波康頼]]によって書かれた『[[医心方]]』があるのみである。医心方は、『百済新集方』と『新羅新集方』により構成されており、日本に残存している[[百済]]及び新羅の医学をまとめたものと言われているが真偽については不明である。
韓医学は中国からの影響を受け、朝鮮半島独自の疾病・薬物などを取り入れ発展していったと思われるが、[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]、統一[[新羅]]時代において、朝鮮に於いて実存する書籍は皆無である。ただ、地理的関係からして日本に最初に入ってきた外来の医学は韓医学であった可能性が高く、唯一百済・新羅の医方を伝えていると思われる書に[[円融天皇]]時の[[永観]]2年(984年)に[[丹波康頼]]によって書かれた『[[医心方]]』があるのみである。医心方は、『百済新集方』と『新羅新集方』により構成されており、日本に残存している[[百済]]及び新羅の医学をまとめたものと言われているが真偽については不明である。

2006年1月2日 (月) 00:49時点における版

韓医学(かんいがく)とは、伝統中国医学の系譜で、朝鮮半島で発展した医術・薬学。韓方(かんぽう)・韓方医学(かんぽういがく)・韓医方(かんいほう)ともいう。古くは東医学(とういがく)・東方医学(とうほういがく)と呼ばれ、北朝鮮では1993年に東医学から高麗医学に名称が変更された。
また、広義においては古代以来中国より導入されて用いられていた漢方医学も含めて朝鮮半島で行われた医学全体を指す場合もある。ただし、民俗医療はこれに含まない。李氏朝鮮時代に於いては一般的に韓医学の恩恵に浴する事ができたのは王族・両班と中人階級だけであり、一般庶民はもちろん一部の両班(王族も含む)の間でも鬼神信仰にもとづく朝鮮独自の民俗医療が行われていた。

韓医学は中国からの影響を受け、朝鮮半島独自の疾病・薬物などを取り入れ発展していったと思われるが、三国時代、統一新羅時代において、朝鮮に於いて実存する書籍は皆無である。ただ、地理的関係からして日本に最初に入ってきた外来の医学は韓医学であった可能性が高く、唯一百済・新羅の医方を伝えていると思われる書に円融天皇時の永観2年(984年)に丹波康頼によって書かれた『医心方』があるのみである。医心方は、『百済新集方』と『新羅新集方』により構成されており、日本に残存している百済及び新羅の医学をまとめたものと言われているが真偽については不明である。

から中国の医学を導入しつつ高麗時代後期ごろから独自の医学として成立したと考えられる。特に庶民救済のため、済危宝・東西大悲院・恵民局が置かれ、現存する朝鮮最古の医学書『郷薬救急方』(高宗時代 13世紀後半)が編まれた。

李氏朝鮮時代では、太宗の時に医女制度が創始され、世宗の時には『郷薬集成方』と『医方類聚』が編集されたが、燕山君時代に入ると衰退し、中宗時代に入ると医学そのものに取って代わられ韓医学は完全に廃れてしまう。女真族の侵入や日本との軋轢などにより、明薬の輸入が不安定な時代が続くと明医学の持続が困難になり、韓医学が再び復活するが明医学の強い影響を受けている。宣祖の時代になると、許浚によって評価の高い『東医宝鑑』が編纂され、許任の鍼灸法や舎巖道人の新しい鍼灸補瀉法が創始された。19世紀になると、より実証的で科学的な医学が生まれ、李済馬の『東医寿世保元』からは四象医学が創始された。許浚・舎巖道人・李済馬は朝鮮時代の三大医生として挙げられている。

李氏朝鮮後期から末期に入ると韓医学は衰退の一途をたどり、開国後は西洋医学の流入により完全に衰退したが、大韓民国の時代に至り、再び脚光を浴び、多くの韓方医院などが作られ復権している。韓医学の衰退により朝鮮半島に於いては韓医学(特に李氏朝鮮前期)の多くの古医書が逸失していたが、日本に伝来書が数多く残っており、これらの研究が進んだのも影響している。

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