「富士氏」の版間の差分
2011年9月10日 (土) 14:44時点における版
富士氏 | |
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棕櫚団扇 | |
本姓 | 和邇部氏 |
家祖 | 和邇部豊磨 |
種別 |
社家 武家 |
出身地 | 駿河国 富士郡 大宮 |
主な根拠地 | 駿河国 |
著名な人物 |
富士信忠 富士信通 |
支流、分家 | 米津氏(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
富士氏(ふじし)は、日本の氏族。駿河国 富士郡地方の領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を司った家柄でもある。
概要
始祖は孝昭天皇の後裔であり豪族の和邇部氏からなり、代々浅間大社の大宮司を務めていた家系である[1] 。そのため富士大宮司家とも呼ばれる。土豪和邇部一族の17代目にあたる和邇部豊麿が富士郡に移り富士郡の大領となったことを機に、浅間神社の神主となったという[2] 。それによって和邇部姓を富士姓に変えたことが富士氏の発祥とされ、平安時代初期に駿河富士郡で誕生した氏族である。
浅間大社の神職は最高位である「富士大宮司」を筆頭に以下「公文」・「案主」などで構成される。その他多くの神職があるが、その中でも以上の3つの神職のみが富士氏を称した[3] 。慣例として富士大宮司が富士氏の当主となり、「案主」・「公文」は庶子衆ともよばれ[4] 、政治的な部分は富士大宮司が執り行なった。家紋は「棕櫚(しゅろ)」であり、『長倉追罰記』に「しゆろの丸は富士大宮司」とある。
南北朝時代以降
南北朝時代には既に武人としての面が確立されており、南北朝期は富士氏は南朝側に属した[5] 。今川氏の今川範政亡き後の千代秋丸と今川範忠両氏での家督争いの際は、義教の裁定によって範忠の家督相続が決まったものの、在地の領内(駿河国)では争いが続いていた。その際富士氏は、範忠の入国に反対する立場を取っている[6] 。
戦国時代
戦国時代の富士信忠の代に入ると、国人として今川氏に属している。今川氏により大宮城の城代に任命され[7] 、信忠は大宮城の城主となり、武田氏との戦いを繰り広げる。しかし駿河侵攻における大宮城での戦いにて降伏することとなり、武田氏に属する。その後武田勝頼が富士信通に大宮司職を任命した後は、国人としての立場から離れていくことになり、神職としての活動が主となっている。
歴代富士氏当主
- 富士豊麿
- 富士池守
- 富士國雄
- 富士淵魚
- 富士良淸
- 富士淸名
- 富士淸嗣
- 富士淸身
- 富士公淸
- 富士利生
- 富士道時
- 富士信淸
- 富士信時
- 富士時棟(富士氏初代大宮司)
- 富士直世
- 富士直信
- 富士信親
- 富士信直
- 富士直則
- 富士則時
- 富士直時
- 富士資時
- 富士成時
- 富士氏時
- 富士直氏
- 富士政時
- 富士忠時
- 富士親時
- 富士信盛
- 富士信忠
- 富士信通
- 富士信家
- 富士信公
- 富士信元
- 富士信時
- 富士信安
- 富士信章
- 富士信治
- 富士信榮
- 富士茂濟
- 富士民濟
- 富士茂矩
- 富士茂珍
- 富士重本
脚注
- ^ 富士山本宮浅間大社HP
- ^ [1] (PDF) - 講演「浅間大社と富士宮の歴史」富士宮まちづくり講演会にて
- ^ 『日本史小百科 神社』近藤出版社
- ^ 『浅間神社の歴史』名著出版
- ^ 『日本史小百科 神社』近藤出版社
- ^ 小和田哲男著『日本を変えたしずおかの合戦』50頁
- ^ 『今川氏真判物』(『浅間文書纂』所蔵)
参考文献
- 宮地直一著、『浅間神社の歴史』(名著出版、1973年)