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1945年4月20日すでに絶望的な戦局を前にしてゲーリングはヒトラーに指導権を要求する。ヒトラーは激怒しゲーリングの逮捕・ナチ党除名を命じるがゲーリングは自分の正統性を信じ込んでおり、後継総統[[カール・デーニッツ]]海軍元帥に、アイゼンハワーとの直接交渉によって有利な講和と撤兵を実現するという幻想を語った。しかし1945年5月7日米軍に投降しようとしていたゲーリングはラートシュタット近郊でアメリカ軍に逮捕されフィッシュホルン城に拘禁される。この時のゲーリングはぶくぶくとだらしなく太り、際限なく薬を欲しがるモルヒネ中毒の男に過ぎなかったと米軍側には記録されている。
1945年4月20日すでに絶望的な戦局を前にしてゲーリングはヒトラーに指導権を要求する。ヒトラーは激怒しゲーリングの逮捕・ナチ党除名を命じるがゲーリングは自分の正統性を信じ込んでおり、後継総統[[カール・デーニッツ]]海軍元帥に、アイゼンハワーとの直接交渉によって有利な講和と撤兵を実現するという幻想を語った。しかし1945年5月7日米軍に投降しようとしていたゲーリングはラートシュタット近郊でアメリカ軍に逮捕されフィッシュホルン城に拘禁される。この時のゲーリングはぶくぶくとだらしなく太り、際限なく薬を欲しがるモルヒネ中毒の男に過ぎなかったと米軍側には記録されている。


ゲーリングは[[ニュルンベルク国際軍事裁判]]で一貫して無罪を主張し、[[ホロコースト]]など他民族に対する弾圧には責任がなかったと主張した。この裁判中にゲーリングのモルヒネ中毒は治癒し病的な肥満も解消、戦時中の無気力から一転して自身満々で勝利者のように堂々と陳述している。しかし判決は死刑に決まり、ゲーリングは絶望した。軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたためだった。執行の当日1946年10月15日ゲーリングは、どこから手に入れたかはいまだに謎に包まれているが、[[青酸カリ]]のカプセルを飲み込んで自殺した。「諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石の棺に納めるだろう」と生前のゲーリングは語っていたが、遺灰は川に捨てられた。
ゲーリングは[[ニュルンベルク国際軍事裁判]]で一貫して無罪を主張し、[[ホロコースト]]など他民族に対する弾圧には責任がなかったと主張した。この裁判中にゲーリングのモルヒネ中毒は治癒し病的な肥満も解消、戦時中の無気力から一転して自身満々で勝利者のように堂々と陳述している。しかし判決は死刑に決まり、ゲーリングは絶望した。軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたためだった。執行の当日1946年10月15日ゲーリングは、どこから手に入れたかはいまだに謎に包まれているが、[[(追記) シアン化カリウム| (追記ここまで)青酸カリ]]のカプセルを飲み込んで自殺した。「諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石の棺に納めるだろう」と生前のゲーリングは語っていたが、遺灰は川に捨てられた。


==豪華な生活==
==豪華な生活==

2004年4月12日 (月) 15:18時点における版


ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring 1893年1月12日‐1946年10月15日)はドイツの政治家、軍人。ナチ党政権下のドイツにおける第二の実力者。

ヘルマン・ゲーリングは1893年1月12日バイエルン州マリエンバートで南西アフリカ植民地関係の顧問官の子として生まれた。ゲーリングは少年時代を家族と共に名付け親エーペンシュタイン伯爵の城で過ごし、そこで後の華美な装飾への嗜好をつちかわれた。1901年リヒターフェルト陸軍士官学校に入学し1911年優秀な成績で卒業、その後ベルリン社交界で上流階級との交際を経験する。第一次世界大戦が勃発するとミュールハイムの歩兵部隊から航空隊に志願し、戦闘機パイロットになる。1916年に初出撃し、技量・戦意ともに認められて間もなく第27飛行中隊長となった。1918年6月2日には18機撃墜の功により皇帝ヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を授与されている。

第一次世界大戦の敗戦後は民間飛行士としてスウェーデンで曲芸飛行ショーを興行したり旅客機パイロットを務めたりして生計を立てるが、反ワイマール的な国粋感情は保ち続けた。このスウェーデン時代にゲーリングは貴族の人妻カリン・フォン・カンツォフと恋に落ち、ドイツに帰国した後1922年に結婚している。帰国後ゲーリングはミュンヒェン大学で経済学と歴史学を学びながら国粋主義に傾倒していき、1922年の秋には始めてアドルフ・ヒトラーに会っている。初対面でヒトラーに魅了されたゲーリングは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し、突撃隊を軍事的に再編成する仕事を任される。

1923年のミュンヒェン一揆ではヒトラーと行動を共にしており、警官隊の銃撃で重傷を負う。一揆の失敗後はオーストリアに逃亡しインスブルックの病院で治療を受けるが、このとき麻酔のために用いられたモルヒネを常用するようになり、傷の治癒した後も長く依存症に苦しむ。夫人の実家のあるスウェーデンで療養した後、ヒンデンブルク大統領の政治犯に対する恩赦により1927年ドイツに帰国、政治活動を再開する。ゲーリングは社交界で活発に運動し、下層階級出身者の多いナチ党幹部には近づき難かった上流社会・財界人とのコネ構築に尽力した。このゲーリングの働きによってクルップやメッサーシュミットのような大企業が党に献金するようになり、ヒンデンブルク大統領とヒトラーの初会談が実現した。また1928年国会議員に初当選を果たし、1930年ヒトラーの公式な相談役になるなど、ナチ党最重要人物の一人となった。1931年10月17日カリン夫人を亡くすが悲しみながらもますます活動を活発にする。

1933年1月30日ヒトラー内閣成立にともないゲーリングは無任所相に就任し、プロイセン州内相も兼ねた。この内相職を得たことによってゲーリングは全国のほとんどの警察権を手中に収め、親衛隊(SS)や民間軍事組織「鉄兜団」のメンバーを補助警察として採用、警察のナチ化に努めた。また同年2月27日の国会議事堂放火事件では迅速に事態を収拾し、共産党員ルッベを犯人と断定して左翼勢力弾圧のきっかけを作った。事件自体がナチ党の自作自演だともされ、もしそうならばその演出にも深く関わっている可能性は大きい。この時発令された戒厳令に便乗して捕らえられた人々は新設の強制収容所に送られたが、その設立にもゲーリングは指導的な役割を果たしている。

1933年4月10日プロイセン州首相に任命され、5月には航空相、林野・狩猟庁長官となり、さらに大きな権力を握った。ゲーリングは称号を非常に好んだため年を経るごとに称号は増え続け、生涯に数十の役職を兼務している。1935年3月ゲーリングはドイツ再軍備にともなって新設された空軍の最高司令官に任命され、四カ年計画を立案して自らも巨大鉄鋼財閥の総帥となり軍備拡張を急速に進めた。また同年4月10日女優エミー・ゾンネマンと再婚した。エミーとの間に生まれた娘はムッソリーニの娘にちなんでエッダと名づけられている。

1938年のオーストリア併合ではヒトラーさえだしぬいて指導的な役割を演じてシュシニク首相を脅迫、進駐を決定した。しかし続くミュンヒェン会談の頃からは政策決定に対するゲーリングの影響力は次第に薄れていった。ますます称号にこだわるようになったゲーリングは国防相の座を狙って策動し、ハインリヒ・ヒムラーやハイドリヒらの協力を得て国防相ブロンベルク元帥とフリッチュ上級大将を失脚させる。しかし新国防相となったのはヒトラー自身だった。ヒトラーはゲーリングをなだめるためか1939年9月1日の国会演説でゲーリングを第一後継者に指名している。

後継者に指名されると同時に始まった第二次世界大戦でゲーリングは空軍総司令官として電撃戦の一端を担い、ワルシャワ爆撃などで大戦果を上げた。さらに占領したポーランドの経済をドイツの軍需システムに組み込み、労働者を徴集するなどして軍備拡張に拍車をかけた。これらの功績により翌1940年7月19日の叙勲でゲーリングは元帥よりも上の階級「国家元帥」に昇進する。しかし続く「バトル・オブ・ブリテン」では大損害をこうむりイギリス爆撃に失敗、政権の中枢からは外されることになった。ゲーリングの権威はスターリングラード攻防戦における無謀な空輸作戦の失敗によってさらに傷つき、以後ゲーリングは公の場に姿を見せず美術品収拾などの趣味に没頭する。

1945年4月20日すでに絶望的な戦局を前にしてゲーリングはヒトラーに指導権を要求する。ヒトラーは激怒しゲーリングの逮捕・ナチ党除名を命じるがゲーリングは自分の正統性を信じ込んでおり、後継総統カール・デーニッツ海軍元帥に、アイゼンハワーとの直接交渉によって有利な講和と撤兵を実現するという幻想を語った。しかし1945年5月7日米軍に投降しようとしていたゲーリングはラートシュタット近郊でアメリカ軍に逮捕されフィッシュホルン城に拘禁される。この時のゲーリングはぶくぶくとだらしなく太り、際限なく薬を欲しがるモルヒネ中毒の男に過ぎなかったと米軍側には記録されている。

ゲーリングはニュルンベルク国際軍事裁判で一貫して無罪を主張し、ホロコーストなど他民族に対する弾圧には責任がなかったと主張した。この裁判中にゲーリングのモルヒネ中毒は治癒し病的な肥満も解消、戦時中の無気力から一転して自身満々で勝利者のように堂々と陳述している。しかし判決は死刑に決まり、ゲーリングは絶望した。軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたためだった。執行の当日1946年10月15日ゲーリングは、どこから手に入れたかはいまだに謎に包まれているが、青酸カリのカプセルを飲み込んで自殺した。「諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石の棺に納めるだろう」と生前のゲーリングは語っていたが、遺灰は川に捨てられた。

豪華な生活

ヒトラーとは対照的に、ゲーリングは貴族的で豪華な生活を好んだ。その派手好きな性向は時に幼児的なほど大胆で単純なものであったが、ドイツ国民にはしばしば「憎めない奴」という一種の好印象さえ与えた。 亡き妻カリンを偲んで建てたベルリン郊外の豪邸「カリンハル」はサウナ・映画館・トレーニングジム・迎賓ホールなどを備えた宮殿のような館だった。ペットのライオン「ツェーザー」や巨大鉄道模型もまたゲーリングの幼児性をさらけだすおもちゃのひとつだった。 また服飾に対する執着も非常に強く、何種類もの制服や前近代的に華美な服装はしばしば周囲の物笑いとなった。ゲーリング自身「私はルネサンスの人間なのだ」と語っている。1935年4月10日のエミー・ゾンネマンとの結婚式は国を挙げた盛大なもので、ゲーリングは3万の空軍将兵・最新鋭の戦闘機隊を動員して一大スペクタクルを演出し、私事では質素なヒトラーに代わって国民の虚栄心を満足させただろう。戦時中も華美な生活は止まず、権力の中枢から排除されるとそれだけ一層奢侈への嗜好を強めていった。パリに出かけては親衛隊がユダヤ人から没収した美術品をかき集め、「国家社会主義の使命」として最良の美術工芸品の私物化に励んだ。中にはいわゆる退廃芸術とされる作品もあったが、そのような美術品も密かにムッソリーニと交換したりしている。

映画『魔王』(フォルカー・シュレンドルフ監督 ジョン・マルコビッチ主演 1996年独仏英)に登場するゲーリング(フォルカー・シュペングラー)には、彼のバロック的な奢侈を好む側面がよく再現されている。

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