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「佐川幸義」の版間の差分

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==伝承==
==伝承==
佐川の名乗った〝宗範〟は、直弟子には継承させていない(皆伝や十元の術理を授けたものは数人確認できる)。また佐川の古い直弟子(北海道北見市(まるこめ米屋)での指導時)の中には、「合気の技は自分(佐川幸義本人)限りだ」との発言を聞いている者(東京都小平市に於ける伝承時でも)も複数いる。これらの事から、技として合気の伝承は途絶えたとみる向きもある。((注記)例外として昭和30年代の中島という弟子にのみ、奥伝四段、門人帖を渡し、独立を促したという事はあった)
佐川の名乗った〝宗範〟は、直弟子には継承させていない(皆伝や十元の術理を授けたものは数人確認できる)。また佐川の古い直弟子(北海道北見市(まるこめ米屋)での指導時)の中には、「合気の技は自分(佐川幸義本人)限りだ」との発言を聞いている者(東京都小平市に於ける伝承時でも)も複数いる。これらの事から、技として合気の伝承は途絶えたとみる向きもある。((注記)例外として昭和30年代の中島という弟子にのみ、奥伝四段、門人帖を渡し、独立を促したという事はあった(追記) が、中島の伝承は現在不明。 (追記ここまで))


==人として==
==人として==

2010年5月12日 (水) 07:36時点における版

佐川 幸義(さがわゆきよし、1902年 7月3日 - 1998年 3月24日)は武道家。大東流合気柔術中興の祖である武田惣角の直弟子のひとり。163cm57kg。

経歴

  • 1902年7月3日、北海道 紋別郡 湧別町に生まれる。
  • 幼少期より甲源一刀流、小野派一刀流剣術、関口流柔術などを習う。
  • 9歳のころ、武田惣角と出会う。
  • 11歳 武田惣角に正式に入門
  • 16歳のころ、「合気之術」の秘訣を会得する。
  • 1932年、武田惣角より代理教授を許される。
  • 惣角とともに全国を回りながら大東流合気柔術を教授する。
  • 老齢になってからも「合気之術」は衰えるどころかますます磨きがかかった。70歳を超えてから新しい「合気の原理」を発見し、武田惣角の合気をさらに進歩させた。95歳で逝去するまで「合気之術」を巧みに使った。
  • 92歳の時に心臓の検査を受けるために医師に何か運動をしてほしいと頼まれたところ、その場で腕立て伏せを150回やってみせた。
  • 1998年3月24日 逝去。

逸話

  • 合気は敵の力を抜いてしまう「技術」であると定義づけた。
  • 70代で開発したという体の合気は、体の作用のみで相手を投げ倒すもので濡れ雑巾を床に叩きつけるかのようなスピードがあり、高速度カメラで撮影された写真が残されている。
  • 空手、ボクシングなど徒手空拳も研究し、それまでの大東流になかった合気拳法を創作した。
  • 佐川の拳は衝撃波を生み出し、その拳風は眼前で爆発したような迫力があったという。また武器術にも長け、剣術、棒術、槍術においても風を巻き起こし唸りを上げるものであったといわれる。
  • 最晩年は腰を痛め、歩くのも困難であったが門人を投げ飛ばす迫力は衰えなかったという。
  • 漫画『拳児』にて佐上幸義の実在のモデルとなった。

評価

  • 佐川幸義は武田惣角の合気を継承し、独自に研究・工夫を凝らしながら厳しい修業を半世紀以上にわたって積み重ねて惣角を超えたとも言われる。佐川は「合気之術」は武田惣角が編み出したものだと語っていたことを考慮すると、惣角も日本武術史における名人列伝に加えるべき逸材と言える。
  • 昭和10年12月、惣角が佐川に「諸手捕りの合気」をかけようとしたが、効かなかったことがある。この出来事をきっかけに、佐川は「惣角の合気」をさらに発展させる必要性を痛感したと考えられる。
  • 佐川は、日本の武術史上において稀代の武術家であると評価する人がいる。中国武術研究家の松田隆智は「昔の剣豪だって佐川先生ほどの人はいない」「3次元と4次元の違い」(注記)1、作家の津本陽は「魔法のような合気技をあらわす日本唯一の武道家」(注記)2、運科学研究者の高岡英夫は「近現代武術史上最高の天才」(注記)3、であるとしている。(しかし一方で高岡の直弟子達には、北海道北見市まるこめ米屋における佐川幸義敗走の事実も話していて、この事実だけは、残るものには著さないとの方針を貫いている)
  • 佐川は、自分の技が表に出るのを警戒した。映像に残す事も許可せず、本を書くのを許した際も、技術の僅かな記述にも神経質だった。「天才が見れば解かってしまう」とは、佐川の有名な言葉である。

伝承

佐川の名乗った〝宗範〟は、直弟子には継承させていない(皆伝や十元の術理を授けたものは数人確認できる)。また佐川の古い直弟子(北海道北見市(まるこめ米屋)での指導時)の中には、「合気の技は自分(佐川幸義本人)限りだ」との発言を聞いている者(東京都小平市に於ける伝承時でも)も複数いる。これらの事から、技として合気の伝承は途絶えたとみる向きもある。((注記)例外として昭和30年代の中島という弟子にのみ、奥伝四段、門人帖を渡し、独立を促したという事はあったが、中島の伝承は現在不明。)

人として

  • 弟子をとる時は、礼儀が出来ているか、きちんとした人生を歩んでいるかを見たと言う。
  • 佐川が武術をどのように捉えていたかは、次の晩年の言葉に表れている。

「技は私の命だ」

関連項目

  • 合気
  • 木村達雄 『透明な力』の著者 奥伝四段。
  • 高橋賢 『大東流合気の真実』の著者 奥伝四段。
  • 松田隆智 『謎の拳法を求めて』『秘伝・日本柔術』で佐川幸義を世に紹介した。
  • 吉丸慶雪 佐川道場に16年在籍。奥伝四段。
  • 拳児

参考文献

  • 『透明な力』木村達雄著 講談社 (注記)1,(注記)2
  • 『大東流合気の真実』高橋賢著 福晶堂
  • 『孤塁の名人―合気を極めた男・佐川幸義』津本陽著 文藝春秋社
  • 『秘伝・日本柔術』松田隆智著 新人物往来社
  • 『合気・奇跡の解読』高岡英夫著 ベースボールマガジン社 (注記)3

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