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2005年8月28日 (日) 05:44時点における版

伊良部 秀輝(いらぶ ひでき1969年 5月5日 - )は沖縄県 平良市生まれ、兵庫県 尼崎市出身の元プロ野球選手(投手)。常光寺小、若草中学を卒業後香川県に引越し、尽誠学園高等学校甲子園に出場した。身長189cm、体重108kg。右投げ右打ち。

来歴

横浜ベイスターズマーク・クルーン2005年 5月11日に最速159km/h(この年の7月19日には、やはりクルーンが161km/hを記録)の日本記録を出すまで、オリックス・バファローズ山口和男ヤクルトスワローズ五十嵐亮太らとともに、最速158km/hをマークした日本記録保持者だった。
千葉ロッテ在籍時には、小宮山、ヒルマンとともに先発投手陣三本柱として、特に1995年秋、グリーンスタジアム神戸での三連戦で三タテし、オリックスの地元胴上げを阻止した。
千葉ロッテ時代のニックネーム、「伊良部クラゲ」とは、日本ハム大沢啓二監督(当時)がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、イテテテ...」と言ったことに始まる。
その後の1996年野茂英雄の活躍に触発され、ロッテ球団にメジャーヤンキースへの移籍を直訴するも、当時伊良部はFAの権利を有していなかったため、球団側が保有権を盾に拒否。そのため、伊良部の代理人団野村と共に、日本球界全体、メジャー球団をも巻き込んで、大騒動を巻き起こす。このことが、悪名高い「ポスティングシステム」の確立に繋がった。
当初、球団側はパドレス球団にトレード、という形で決着を図ったが、伊良部側が拒否し、あくまでもヤンキース移籍に拘った。最終的に、一度パドレスにトレード後、更にヤンキースにトレード、という三角トレードで解決を見た。
結局、この騒動が、「伊良部=ダーティ」なイメージを根付かせる結果となった。
メジャー移籍1年目こそ期待通りの活躍をし、オーナーから「和製ノーラン・ライアン」と称されたが、次第に成績が下降線になると、いつの間にか「太ったヒキガエル」と罵倒される始末であった。
結局、エクスポズレンジャーズへとトレードされるが、レンジャーズではクローザーとして活路を見出す。シーズン途中までは大車輪として活躍するも、肺血栓を患いリタイア。オフにレンジャーズを解雇される。
そのオフ、「日本球界に復帰してもいい」という情報を掴んでいた阪神が獲得する。星野監督(当時)はクローザーを任せたかったようだが、本人が先発を希望したため、先発要員となる。
2003年はチームの勢いもあり、13勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。
だが、伊良部本人は妻子をアメリカに残しての単身赴任状態であり、本人のメジャー復帰希望の意思もあり、再びFAを宣言する。結局獲得球団が現れないまま、前所属の阪神とバイアウト(複数年契約だが2年目の契約については球団に選択権があり、球団側が契約を締結しない場合は違約金を支払って解雇できるシステム)による変則複数年契約を結び、阪神に残留する。
ところが、2004年は沖縄キャンプ中にトラブルを起こし、その影響もあって出遅れ、登板数は3試合のみ、防御率は13.11という不調もあって、2004年シーズンオフに解雇された。
現在はアメリカの永住権を取得し、実業家に転身する予定(本人談)。
マスコミ嫌いであり、一匹狼な性格であるが、阪神在籍時には若手投手を積極的に指導するなど、結構親身になってくれる人のようである。
また、無骨に見えて結構理論派であり、その投球理論には球界を代表する技巧派投手、小宮山悟も舌を巻くほどであるとか。

略歴

関連項目

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