コンテンツにスキップ
Wikipedia

「文室綿麻呂」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
59行目: 59行目:
[[ca:Fun'ya no Watamaro]]
[[ca:Fun'ya no Watamaro]]
[[es:Fun'ya no Watamaro]]
[[es:Fun'ya no Watamaro]]
[[eu:Fun'ya no Watamaro]]
[[it:Fun'ya no Watamaro]]
[[it:Fun'ya no Watamaro]]

2009年4月16日 (木) 18:32時点における版

文屋綿麻呂・『前賢故実』より

文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ、天平神護元年(765年) - 弘仁14年4月24日(823年 6月6日))は、平安時代前期の征夷大将軍公卿三諸大原の長男。

略歴

歴戦の将軍であったことから平城上皇の信任を得ていた。そのため薬子の変では囚われの身となるが、鎮圧軍の坂上田村麻呂の助命嘆願もあり命を救われている。その後、田村麻呂とともに平城上皇の東国での再起計画を阻止した。乱後、その功績を認められ参議に任ぜられる。高位高官でありながら、田村麻呂に随行し、蝦夷征討に従う。田村麻呂の死後、その遺志を奉じて蝦夷征討の任にあたる。東北経営の礎を築いた名将といえる。

年表

  • 天平神護元年(765) - 三諸大原の長男として誕生。
  • 大同4年(809年) - 三山朝臣と改姓、ついで文室真人の姓を賜る。
  • 弘仁元年(810年) - 薬子の変。平城上皇に従い捕縛され左衛士府に禁固されるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により一命を助けられる。
  • その後、田村麻呂とともに上皇の東国再起計画を阻止する。その功績により参議大蔵卿、陸奥出羽按察使に任ぜられる。
  • 弘仁2年(811年) - 陸奥出羽按察使征夷将軍に任ぜられ、爾薩体(「にさったい」あるいは「にさて」)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を平定。
  • 弘仁3年(812年) - 徳丹城を築城。
  • 弘仁4年(813年) - 征夷大将軍に任ぜられる。
  • 弘仁7年(816年) - 右近衛大将兵部卿に任ぜられ、中納言に進んだ。

家族・一族

系譜

天武天皇 - 長親王 - 智努王 - 三諸大原 - 文室綿麻呂 - 巻雄 - 茂典 - (以後定かならず)

関連人物

関連項目


先代
坂上田村麻呂
征夷大将軍
第3代:813 - 816
次代
(藤原忠文)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /