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2008年2月22日 (金) 15:50時点における版
トニー・カナーン(Antoine Rizkallah "Tony" Kanaan Filho, 1974年 12月31日 - )は、ブラジル・バイーア州 サルヴァドール出身のカーレースドライバーである。
アメリカ合衆国のオープンホイールレースで活躍しており、2004年のインディ・レーシング・リーグ(IRL)チャンピオンである。CART、IRLというアメリカの二つのオープンホイール選手権の双方でレース優勝の経験がある数少ないドライバーの一人でもある。
2006年現在、ブラジルではサンパウロ、アメリカではマイアミに居住している。既婚。
経歴
初期の経歴
8歳の時にカートを始め、1985年に最初の選手権に参加し、1990年にカートを卒業するまでサンパウロ州選手権で各クラス合わせて8回に渡りチャンピオンを獲得し、ブラジル全国選手権でもチャンピオンに輝くという実績を残した。この間、13歳の時に父親を亡くし、以後、母親がレース活動を支えた。
1992年まで、ブラジル国内でフォーミュラ・フォード、フォーミュラ・シボレーといったジュニアフォーミュラレースに参戦した。
1993年にヨーロッパに渡り、1994年にはアルファ・ボクサー選手権でチャンピオンタイトルを獲った後、イタリアF3に参戦、初年度にも関わらず表彰台を9回獲得し、ランキング4位を記録。
そうした活躍がアメリカのタスマンレーシングチームの目に留まり、1996年には同チームよりインディ・ライツへの参戦を開始した。
初年度からランキング2位、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、翌年にはチャンピオンとなった。
折りしもこの時期は1996年に従来のインディカーレースと呼ばれていたシリーズであるCARTからインディ・レーシング・リーグ(IRL)が分裂し、北米ではCARTとIRLの2リーグが対立している状況だった。
この時期に有力だったのはCARTであり、1998年に上位カテゴリにステップアップすることとなったカナーンもCARTを選んだ。この年は前年以前と同じくタスマンチームから参戦し、表彰台も2度獲得するなど健闘した上、ウォーカーレーシングのジル・ド・フェラン、ニューマンハースのクリスチャン・フィッティパルディ、パックウェストのマウリシオ・グージェルミンといった実力者を抑え、ブラジル人ドライバーの中で同年最高位となるランキング9位を記録するという見事なデビュー年となり、初年度からルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。
翌年はタスマンチームから衣替えしたフォーサイスに残留し、この年はミシガン・スピードウェイで開催された第12戦US500で初優勝を飾った。CARTにはこの後3年に渡って参戦したが、優勝はこの1勝にとどまった。
2000年はモーナンレーシングに移籍したが、この年はシーズン中盤のデトロイトにおけるクラッシュにより負傷し、4戦を欠場したためランキングとしては19位に沈む結果となった。
翌2001年はCARTに復帰したアレックス・ザナルディとのコンビとなったが、9月にドイツ・ラウジッツリンクで開催された第16戦の事故で重傷を負ったザナルディが離脱を余儀なくされたため、第18戦からはケイシー・メアーズを同僚とした。カナーン自身はこの第16戦を含め第12戦から第19戦まで8戦連続入賞を続けるなどした結果、最終的にランキング9位に着けた。
この時期からCARTとIRLの力関係には変化が生じ、2002年途中でモーナンレーシングがIRLへ移る決断をしたため、この年、カナーンはインディ500に初めて参加した(インディ500の開催権はIRLが持つためCART所属のカナーンはそれまでこのレースに参戦したことがなかった)。
2003年にアンドレッティ・グリーン・レーシングに移籍し、IRLフル参戦初年度を迎えた。この年はオーナー兼ドライバーのマイケル・アンドレッティ、チームグリーン時代からの古参ダリオ・フランキッティ、カナーンと同年に移籍してきたブライアン・ハータのチームメイトとなったが、強力なチームのバックアップを得たことで一気にスターダムに伸し上がり、1勝、ランキング4位という、チーム内ではトップの成績で終えた。
翌2004年は優勝こそ3勝にとどまるが8位でフィニッシュした開幕戦以外全てのレースを上位5位以内で終えるという安定感で、前年限りでドライバーから引退したアンドレッティに代わりチームメイトとなりこの年のランキング2位を記録したダン・ウェルドンにも80ポイント以上の大差をつけて、チャンピオンを獲得した。
連覇に挑んだ2005年はウェルドンとの間で立場が逆となり、独走したウェルドンに対して80ポイント差をつけられてランキング2位となった。チャンピオンこそ逃したものの、この年はインディ500でポールポジションを獲得するというハイライトもあった。
2006年は先行するチップ・ガナッシ、ペンスキー勢に付け入ることはできず、ランキング6位に終わった。表彰台に上がることすら困難であったが、7月にウィスコンシン州で開催された第10戦A・J・フォイト225レースでは終始レースをリードし、アンドレッティ・グリーンチームとしてもシーズン初となる優勝を挙げ、一矢報いた。カナーンにとっては、前年8月にカリフォルニアで勝って以来、実に11ヶ月振りの優勝でもあった。
2007年にはゲストドライバーとしてフォーミュラ・ニッポン最終戦鈴鹿サーキットに参戦した。
交友関係
その気さくな性格からたいていのブラジル人ドライバーと交流があり、公式サイトには友人らからのコメント欄すら設けられている[1]。中でも、F1ドライバーのルーベンス・バリチェロとは「兄弟のようなもの」というほど仲が良い。
2006年、F1のモナコGPでバリチェロがカナーンのカラーリングのヘルメットを、同GPと決勝日が同日5月28日のインディ500ではカナーンがバリチェロのカラーリングのヘルメットを被るという出来事があり、両シリーズのファンを驚かせた。これはこの年の1月にバリチェロが思いついたお遊びがきっかけで、元々はバリチェロが「カナーンがF1で一番走ってみたいレース」をカナーンのヘルメットカラーで走って友人を驚かせるために考えたものであったが(カナーンは「モナコ」と答えた)、バリチェロの企みを知ったカナーンは、ならば自分はインディ500をバリチェロのヘルメットカラーで走る、と、提案して実現したものであった。両レースが開催される5月までこの企みは2人だけの秘密だった。
ブラジル人の友人、特にバリチェロからはカナーン(Kanaan)をもじって「アナォン(anão)」の愛称で呼ばれている(「ビッグイヤー」という意味の他、「能無し」という意味もある)。
ブラジル人以外で特別な関係にあると言えそうなのは2005年までアンドレッティ・グリーン・レーシングのチームメイトだったイギリス人ダン・ウェルドンで、ウェルドンはブラジルで毎年年末に行われているカートレース、グランジャ・ヴィアナ500マイルレースにて、2004年、2005年、さらにはウェルドン自身がチップ・ガナッシへ移籍しカナーンとのチームメイト関係がなくなった2006年も、カナーンチームの一員として参戦するためにブラジルを訪れている。この大会はもっぱらブラジル人ドライバーによる祭典であるため、外国人プロドライバーが参加すること自体が珍しいことである。近年のこの大会においてカナーンは、バリチェロ、ウェルドン、同じくIRLに参戦しているブラジル人フェリペ・ジアフォーネとの4人組で参戦している。
外部リンク
- トニー・カナーン公式サイト - ポルトガル語、英語。