「小橋建太」の版間の差分
2007年12月29日 (土) 10:04時点における版
小橋 建太 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
小橋 建太 小橋 健太 BLAZE 剛腕大魔王 |
本名 | 小橋 健太 |
ニックネーム |
ミスタープロレス 絶対王者 伝説の男 鉄人 オレンジ・クラッシュ バーニング |
身長 | 186cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | (1967年03月27日) 1967年 3月27日(57歳) |
出身地 | 京都府 福知山市 |
所属 | プロレスリング・ノア |
スポーツ歴 |
柔道 ラグビー |
トレーナー |
ジャイアント馬場 ハル薗田 |
デビュー | 1988年 2月26日 |
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小橋 建太(こばし けんた、本名:小橋 健太、1967年 3月27日 - )は、プロレスリング・ノア所属のプロレスラー兼取締役。京都府 福知山市出身、血液型B型。
人物
1990年代後半から2000年代を代表するプロレスラーの1人。鍛え上げられた肉体と、感情を前面に出したファイトスタイルで、相手選手・試合順・会場を問わず、観客を沸かせる。その試合センスから、東京スポーツ主催のプロレス大賞、MVP、日刊スポーツの読者が選ぶMVPなど、多くの受賞経験を持ち、ファンだけでなく識者からも幅広い支持を得ている。プロレス以前のスポーツ歴において著名な実績は残していないが、並外れた努力を重ね、現在では実力、人気共に国内トップクラスの選手の1人である。
デビュー時のリングネームは本名の「小橋健太」だったが、2000年にノアが創設されたのを機に新しい自分を建てるという意味を込めて「小橋建太」に改名した。
2006年7月18日の高山善廣復帰戦に際し、小橋と高山がタッグを組むことで話題を集めたが、2006年6月29日、精密検査で腎腫瘍が見つかり、手術・治療のため、無期欠場となることがノアから発表されて、7月に腎臓癌に対して腹腔鏡下手術を行い、無事成功。189日後の12月10日の日本武道館大会に姿を見せ近況を報告、2007年10月27日の日本武道館大会に姿を見せて、復帰戦の対戦カードを自ら発表。そして12月2日の日本武道館大会で、546日ぶりのリング復帰を遂げた。
略歴
- 1967年3月27日...京都府福知山で生まれる。
- 1973年4月1日...惇明小学校入学。
- 1979年4月1日...桃映中学校入学。
- 1982年4月1日...京都府立福知山高等学校入学。
- 1985年4月1日...京セラに入社。
- 1987年2月14日...プロレスラーになるため京セラを退職。
- 1987年6月某日...一度書類審査で落ちるも、通っていたジム会長の紹介で全日本プロレスリングへ入団。
- 1988年2月26日...滋賀・栗東町(現・栗東市)民体育館にて大熊元司戦でデビュー。
- 1990年4月9日...二代目タイガーマスクと組んで初のベルトであるアジアタッグ王座を獲得。
- 1993年8月31日...豊橋大会にて、三冠挑戦者決定戦でスティーブ・ウィリアムスに敗退。
- 1993年12月3日...三沢光晴と組んで世界最強タッグ決定リーグ戦初優勝、第24代世界タッグ王座に就く(初戴冠)。
- 1996年7月24日...田上明を破って第16代三冠ヘビー級王者に就く(初戴冠)。
- 1998年6月12日...川田利明を破って第19代三冠ヘビー級王者に君臨、勝利インタビューで「新時代宣言」を提唱。
- 1998年9月11日...秋山準らと共にチーム「バーニング」を結成。
- 2000年2月27日...ベイダーを破り第25代三冠ヘビー級王者に就く。
- 2000年4月15日...チャンピオン・カーニバル(この年はトーナメントだった)で念願の初優勝。
- 2000年6月15日...内部分裂により全日本プロレスリング退団(三冠王座返上)。
- 2000年6月16日...三沢光晴率いる新団体、プロレスリング・ノアへ移籍を発表、同時に膝の手術で入院。
- 2000年8月5日...ノア旗揚げ戦に参加。オレンジに紺の模様が入ったタイツ、シューズで登場。翌日、秋山準にシングルで初めて敗れる。
- 2000年10月7日...この日から黒にグレーの模様を入れたタイツに変更。ジャンパーではなくフード付きガウンで入場するようになる。
- 2001年1月18日...この日を最後に膝の手術とリハビリのため欠場。
- 2002年2月17日...三沢・小橋vs秋山・永田で大々的に復帰戦を行うが、再び左膝を痛め以降欠場。黒に紫紺の模様が入ったフード付きガウン、タイツで登場。
- 2002年7月5日...本人の意向により後楽園ホール第一試合にて再復帰戦を行う。
- 2002年7月26日...浅子覚の引退試合。一夜限りの超世代軍復活により、オレンジタイツを使用。
- 2003年3月1日...選手権試合では三沢光晴を初めて破り、第6代GHCヘビー級王者に就く(初戴冠)。
- 2003年6月6日...本田多聞と組み第6代GHCタッグ王者に就く(初戴冠)。
- 2004年7月10日...自身初の東京ドームメインで秋山準を破りGHCヘビー級王者を防衛。
- 2005年9月20日...初のアメリカ遠征に出発(10月4日帰国)、サモア・ジョーらと対戦する。
- 2006年6月4日...本田多聞と組み第12代GHCタッグ王者に就く(2度目の戴冠)。
- 2006年6月29日...右腎臓に4〜5cmの腫瘍が見つかり、治療のため無期限欠場となる。
- 2006年7月6日...5時間半に渡る腹腔鏡(ふくくうきょう)による右腎臓摘出手術は無事成功、他の臓器への転移もなし(ちなみに手術に5時間半もかかったのは筋肉が一般人の3倍あったためである)。
- 2006年7月27日...退院。病院には10万羽の千羽鶴と1000通の激励のメールが届いていた。なお、腎臓の腫瘍は悪性(腎臓癌)であった。
- 2006年9月26日...前日にタッグパートナーである本田多聞と話し合った結果、GHCタッグ王者を返上。
- 2006年12月10日...日本武道館大会にて約半年ぶりにファンの前に姿を現し、挨拶で「必ず、このリングに、帰ってきます!」と宣言。
- 2007年10月7日...後楽園大会の休憩中に、12.2日本武道館大会で1年5ヶ月ぶりに正式復帰が決定。
- 2007年10月27日...日本武道館大会に再度姿を見せ、「レスラー小橋建太として戻ってきます!」と宣言し小橋自身の口から復帰戦のカードを発表。その直後復帰戦でタッグを組む高山善廣、対戦相手となる三沢光晴、秋山準が登場しがっちり握手を交わす。
- 2007年12月2日...日本武道館大会のメインイベント、三沢光晴、秋山準組戦(パートナーは高山善廣)で546日ぶりのリング復帰を果たした。
- 2007年12月12日...プロレス大賞のカムバック賞、および自身の復帰戦で年間最高試合賞を受賞。
入場テーマ曲
- 初代:「SNIPER」(作曲:松原正樹)
- 当初は原曲をそのまま使用。その後、原曲に効果音がついた入場バージョンが作られて、現在はプロレスリング・ノア中継内でのプロレスリング・セム興行の模様で使用されている。
- 二代目:「GRAND SWORD」(作曲:鈴木修)
- 1998年 6月12日、2度目の三冠王者になり新時代宣言をした日から使用。前奏部分に「バーニング」のテーマ曲を合体させた「Version III」と、「GRAND SWORD」のスローバージョンを合体させた「Big Match Version」と2種類あった。ノア旗揚げ後は「Big Match Version」に効果音を加えた「NOAH Version」が使われたが、旗揚げ戦の翌日に行なわれた秋山準とのシングルマッチには「Version III」を使用した。2002年に復帰してからは「Full Size Version」と、前奏部分が移り変わっている。2003年 3月1日のGHC選手権三沢戦まで使われたが、2005年 7月18日の佐々木健介戦から、また一から出直すという意味を込めてテーマ曲を戻している。
- 三代目:「BLAZIN」(作曲:ジェイ・グレイドンと日本人ギタリスト「K-A-Z」の演奏・アレンジとジェイ・グレイドンのオリジナル)
- 絶対王者と言われたGHCヘビー級王者時代から2005年7月まで使用。
「GRAND SWORD」は小橋が自身の原点とし、ファンに最も愛された曲である。GHC挑戦の区切り、けじめとして2003年の三沢戦で勝っても負けてもこれを最後とするとした。その時の矢島学アナウンサーによる「小橋建太は今日この試合で入場曲『GRAND SWORD』を卒業します。しかし、この曲を最後にしない方法が一つだけあります、それはこの試合に勝つこと!!」という実況は名実況として語り草になっている(試合終了後に勝利者のテーマソングが流されるため)。同アナは2005年7月18日東京ドーム大会の佐々木健介戦で実況を担当していたが、小橋入場時に「BLAZIN」ではなく「GRAND SWORD」のイントロだと気付き興奮して「あっ!変えた!! 小橋がテーマを変えました!!」と叫び、事前に考えてきた言葉を忘れてしまった。
主な得意技
小細工を使わずにひたすら技を受け、チョップとラリアット、そしてスープレックスで試合を作る。これは受けの天才である三沢光晴を倒す為に自らを洗練し、若い頃から沢山の技を試してきた結果である。
打撃技
- 逆水平チョップ
- 小橋の代名詞ともいえる技。思いっきり踏ん張り腰の回転を用いて太い右腕で相手の胸板へ叩きつける。コンクリートを相手に練習して習得した威力は強烈で、2,3発も食らえば相手の胸は内出血で真っ赤に腫れ上がる。
- 2005年7月18日に行われた東京ドームの佐々木健介戦では5分以上チョップのみ打ち合い、試合中両者合わせて218発(小橋は112発)という異常なチョップ合戦が行われた。試合後右胸をどす黒く腫らせた健介は「(逆水平をやられる人間の気持ちが)やっと分かったよ...」と述べている。多くのレスラーが受けたくないと口にしている。本田多聞によると、喰らった瞬間に脳が若干揺れ、連続で喰らうと脳震盪に近くなるという。
- 大根斬りチョップ
- バックブリーカーの状態で捕らえた相手の頭を左手で固定し、喉元・胸に手刀を叩き落す豪快な技。初出は2004年の東京ドーム大会のメイン、秋山準とのGHC選手権。出してみると、そのあまりのエグさに客がどよめいたので、その後2回3回と出したと発言している。現在ではエルボー式、膝で相手の首を固定、ギロチン式、リングからエプロンに相手の首を出し断崖式で叩き込む等のより凶悪なバリエーションが出てきている。潮崎がロメロスペシャルで相手を捕らえている時、がら空きの首に向けて叩き落としたこともある。首、喉元と言うよりは胸に当たる大根斬りチョップが多い。
- 初出時の導入が「バーニングソード」の膝打ちからだった為か、ファンの間では「バーニングソード改」と呼ばれていた。2005年5月の雑誌インタビューにて本人がこれを「大根斬りチョップ」と称し、正式名称となる。
- 剛腕ラリアット
- 小橋の剛腕から繰り出されるラリアット。ショートレンジ式と走りこみ式、カウンター式がある。倒れた相手を無理やり起こし、十分にためを作って右ひざを落とし肩を入れて叩き込む場合は「居合い抜きラリアット」と称される。
- スタン・ハンセンとの対戦を経て極めていったものではあるが、ただ真似るのではなく、ハンセンより体が小さい小橋は突進力ではなく自分の方に引き付けながら打ち込むスタイルを確立させた。当時はチョップと同様コンクリートの壁に打ち込んでタイミングを掴んでいったこともあったそうで、今では鉄柱に打ち込んでいる。
- 1996年7月5日、大阪府立体育会館第二競技場にてパトリオットからこの技で初フォールを奪ってからラリアットに覚醒し、2ヵ月後の9月5日の日本武道館を舞台とした三冠戦でラリアットの始祖であるハンセンもこの技でフォールした。三沢光晴曰く、ハンセンは当たった後にマットへ叩き付けられた時が効き、小橋のは当たった瞬間のダメージが大きいとのこと。最近は大一番でカウンター式や走りこみ式を相手の攻撃の流れを止めるために繰り出すことが多い。
- 青春の一撃
- 両腕を揃えて、腕だけでなく上半身の体重を活かすような形で相手の右肩口へ斜めに叩きつける豪快な技。出す前に2,3回力強く手を叩き合わせてから構えるのが特徴。
- 2005年9月に放送されたテレビ番組「NANDA!?」のチョップ特集の際、競演した天山広吉のモンゴリアンチョップに影響された技である。同時にこれまた競演していた天龍源一郎には前々から「小橋のチョップは効かない」「小橋は衰えたんじゃない?」と煽られており、天龍も天山に影響され「モンゴリアングーパンチを出すよ」と宣言していたことから、小橋も大人気なく「新技のチョップで制裁する!」と呼応し開発・使用を宣言した。天龍相手に繰り出されたのは9月18日の武道館だが、初出は9月11日の愛知県体育館である。
- 当初はそのまま「ダブルの袈裟斬りチョップ」等と称されていたが、10月下旬に矢島学アナが自身の番組「ズームイン!!サタデー」と番組HPを利用してこの技の名称を募集。80人から72通りの技名を厳選し、小橋に選んでもらった結果「この技を出す方も、受ける方も青春時代に戻れるから」という理由で11月5日の放送日を以ってこの名前となった。
- マシンガンチョップ
- 相手をコーナーに押し込み、段々とスピードを上げながら重い逆水平チョップを5〜6発叩き込む。そして拳を握り、「行くぞ!」と観客にアピールをしてからスピード重視の逆水平チョップを速射砲で打ち続ける技。この時会場に響く音を指して、打ち疲れ遅くなったと思ったら再び早くなり、長いと20秒間は打ち続けることがある。なお、打っている間空いた左手がくるくる回っているが、これは体のバランスをとるためである。近年はコーナーに押し込んだ後、相手を指差してからチョップ連打を開始。散々打った後に「行くぞーオラーっ!」と気合を入れて、更にハイスピードのチョップを打ち込む。チョップが終了すると、顔の前でファイティングポーズのような独特の構えをしてから雄叫びを上げ、ローリング袈裟切りチョップ→崩れた所に青春の一撃というパターンが多い。
- 佐々木健介等、相手が小橋と同じくチョップを得意とする選手と対戦すると、相手も小橋に向けマシンガンチョップを繰り出してくる。そして、「行くぞ!」とアピールするところで体が入れ替わり、反対にマシンガンチョップを打ち始め、再び「行くぞ!」で入れ替わるといった現象が起こる。また、タッグマッチではこの技をかけている際にカットに入られた場合、カットに入った選手もまとめてコーナーに押し込み、改めてこの技を開始することもある。
- ローリング袈裟斬りチョップ
- 回転して相手の首筋にチョップを叩きつける技。当てる部位が急所な上に通常のチョップに回転による力を加わるので非常に強力。どんなレスラーでも当たればもれなくふらつき動きが止まる。マシンガンチョップの後2回3回と繰り出すことが多く、試合終盤のフィニッシュに至る途中で相手を指差し、何かを叫んでから叩き込む事もまた多い。かつてはこの技を駆使して、小川良成を大流血に追い込んでいる。
- 大森隆男への遺恨マッチにおいては、普通胸元や喉元に放たれるこのローリング袈裟斬りチョップを側頭部に目掛けて連発して放った事もある。他の選手達からは「裏ラリアット」と呼ばれ恐れられている。
- 延髄ギロチンドロップ
- 若手時代からよく見せていた技である。1996年の三冠初戴冠時には、王者田上明に対しトップロープからのダイビング式を決めて勝利を収めた。最近はチョップのイメージが強くなったためか、ほとんど使わない。
- ジャンピングショルダーアタック
- 相手をロープへ振った後自らも反対側に走り、対峙する瞬間に飛び上がり肩から全体重を乗せて相手へ突き当たる技。体をコンパクトにまとめて当たりに行くのが特徴。小橋の技の中では地味な印象が強いが、小橋自身が「この技で自分の調子が分かる」と証言するように試合の前半でよく使われる重要な技の一つである。
投げ技
- 超滞空式ブレーンバスター
- ブレーンバスターを抱え上げた状態で静止して、長時間溜めてから叩きつける。膝に古傷を抱える小橋には非常に辛い筈だが、それでも使い続けるところに小橋の人柄を感じられる。一時期は一試合に一度は出していたが、斎藤彰俊を始め使用する選手が増えてきた為、使用を控えている。なおブレーンバスターの体勢から前方に落として顔面を打ち付けるバリエーションもある。
- リアル・ブレーンバスター
- 小橋が大一番で繰り出す垂直落下式ブレーンバスター。落とす時に首を支えている左腕を離さず、そのまま首に巻きつけ落とすという危険な技。リアルの由来は、彼がブレーンバスターの考案者の一人であるキラー・カール・コックスのブレーンバスターをビデオを見て研究し、コックスそっくりのフォームに仕上げた為。バイソン・スミス戦で初披露。
- ライスシャワー
- 「どんたく固め」同様、2006年4月放送の『探偵!ナイトスクープ』内で披露。しかし、余りに危険な為か実戦での使用はない。ブレーンバスターの体勢から相手の首を左肩に乗せ、その体勢から尻餅を突くように後方に倒れ込む。一回目の試技で練習台の谷口周平はうつ伏せのまま悶絶した。しかし小橋曰く「まだ相手に力の加わる位置が悪い」と二回目の試技に突入。二回目終了後は「左腕が痛くなるね」と腕をさすりながら更なる練習を公言した。この後、レポーターの石田靖が試技の実験台であった谷口に(小橋に聞こえない様に)「練習、まだしたいか?」と聞くと、谷口は「...もうしたくないです...」と答えた。しかし小橋の方を振り向いた石田は開口一番「練習したいって」と告げ谷口が無言のまま泣きそうな目で否定感情を顕にした。
- ダイヤモンドヘッド
- 2002年の新春に行われたハワイ合宿にて編み出した技。右肩に仰向けになるよう相手を担ぎ上げるカナディアンバックブリーカーの体勢に持ってきた後、自らも右へと上半身を捻りながら真横へ叩き落とす(一説には、サイドバスターのような形で落とすはずだったが相手の体が回りきらず、真横に落ちてしまったとも言われる)。由来は、この技の開発場所がハワイであることから、ハワイの代名詞であるこの活火山からとった。復帰後使用することを宣言していたが、2002年10月17日金丸義信に対して初使用した際に、予期しない形で落とされた金丸が失神してしまい担架で運ばれてしまった。そのためか、それ以降使用されていない。
- ジャックナイフ式パワーボム(パワー・ジャック、パワーボム・ジャックナイフ)
- パワーボムで叩きつけた後、ジャックナイフ固めの体勢になってフォールにいく。若手時代に多様していたが、最近ではハーフネルソンスープレックスを代わりに使うようになった。
- オレンジクラッシュ
- ブレーンバスターの体勢で抱え上げ、前に放り投げて開脚しながら尻餅をつくジャンピングボムで叩きつける技。オレンジタイツ時代によく使われていた。
- 爆弾を抱える自らの膝に相手の体が当たりやすく、自滅する可能性も高いため、最近では大舞台でたまに出す程度である。なお、ジュニア相手では相手が軽いためか使用頻度が高い。
- ケンタッキー・ボム(ストレッチ・ボム)
- 前屈みにした相手の左手を相手の股下に通して右手で掴み、左手はコブラツイストの要領で上半身を絞り上げた状態で、強引に上方へ持ち上げ、開脚しながらパワーボムの形で叩き落すオリジナル技。相手は右手が掴まれたままなので受身が取りにくい。
- 初めてこの技を食らったのは秋山準(秋山のデビュー戦において)で、受身を取る事が出来なかった秋山は半失神してしまった。かなりの大技だが週刊プロレスの「健太ッキー・ボム」というセンスの無い命名に対し「技が殺された」とコメントし、以後使用回数が減った。日本テレビは「ストレッチ・ボム」と呼んでいた。後に「建太」へ改名したため「ケンタッキー・ボム」とも表記するようになった。
- 2006年度後半より、志賀賢太郎が頻繁に使用している。
- ターンバックル・パワーボム
- コーナーのターンバックルにパワーボムの体勢で持ち上げた相手を後頭部から叩きつける危険技。受身がとれないだけでなく、ぶつかる瞬間が分かりにくいため覚悟がし辛い。最近では殆ど出さず、弟子である力皇猛に譲っている。なお、最初に仕掛けた相手は三沢光晴。
- バーニング・ハンマー
- コーナートップにリングに向かって背を向くように相手を置き、アルゼンチン・バックブリーカーの体勢に抱え上げてから垂直落下にはならない程度に相手の首を傾け座るようにして頭頂部から叩き落す技。垂直落下ではないのは、その方が危険だからである。首へのダメージは勿論、上半身をも破壊する威力を誇る。その危険度の高さから四天王クラスの相手、かつ壮絶な試合の終盤でないとまず仕掛けない。阻止された回数含めても今までに数えるほどしか使用していない為に、まさしく奥の手、禁断の技と言える。
- 2003年3月1日の三沢光晴戦ではコーナーを利用せず、「自分の足で持ち上げたかった。怪我が治ったんだよ、と証明して見せたかった」という思いからリング中央で担ぎ上げ、2004年の田上明とのGHCヘビー戦ではリストクラッチ式のバーニング・ハンマー、別名「眠々打破」を使い3カウントを奪った。2006年3月の武道館大会ではKENTAも犠牲となっている。この技の初公開は1998年10月24日後楽園ホールのメイン、三沢・大森vs小橋・人生戦であり、三沢光晴が初の犠牲者となってフォール勝ちを奪っている。なお、初出が1996年12月8日と早い井上京子の使うビクトリアドライバーと同型と思われるが、ビクトリアの方は後頭部から落とす為、厳密に言えば違う技となる。
- 眠々打破(リストクラッチ式バーニング・ハンマー)
- 相手の片手首を相手の股下を通した上で掴んで仕掛けるバーニング・ハンマー。頭の抱え方が通常版のバーニングハンマーと異なるため、アルゼンチンバックブリーカー返しとして使われる「スリーパーで絞める」が使えず、しかもリストクラッチの影響で片手片足を封じられるため、担がれた後の回避方法は無いに等しい。過去の使用実績は2004年 9月10日の田上戦、2006年 3月5日のKENTA戦の2回のみ。なお、「担いだ時の形が悪く、角度が甘い」と、一部ファンからは評判が悪い。
- ブラッククラッシュ
- ブレーンバスターの体勢で抱え上げ、エースクラッシャーと同じように自分の右肩口に相手の顔を添えながら体をひねりつつ仰向けに倒れ込み顔面を強打させる技。
- タイツがオレンジから黒に変わった直後の新技であり、オレンジクラッシュと導入が似ていることから雑誌でブラッククラッシュと名づけられた。初出がノア初のビッグマッチ、2000年 12月23日有明コロシアムのメイン「小橋対秋山」だった為認知度はそれなりに高いが、実はそれ含めても2回程度しか使われていない。
- 河津落とし
- 小橋の場合、相手の腕を引っ張って背中からロープに倒れ掛かり、反動と相手の勢いを利用してのキチンシンクから間を置かず仕掛けていくことが殆どである。全日本時代は一試合に一度は必ず使っていた。ノア以後は頻繁に使われることは無くなったものの、ショルダーアタックと並んで序盤に於ける定番技である。
- バーニング・ソード
- リバースDDTのように相手をとらえ、相手の背中を自分のヒザに落とし、そこから自分の体を投げ出しつつ、体を相手方向に捻って、相手をとらえた腕とは逆の腕で相手の首を刈り取るように後頭部を叩きつける。TV中継でのファンからの公募で名前が決定。
スープレックス系投げ技
- ハーフネルソン・スープレックス
- ハーフネルソンの体勢から左手で相手の前タイツ部分を掴み、そのまま後方に投げる。受ける側は脳天からまっさかさまに投げ飛ばされる為、非常に危険である。本田多聞は、受身を取りそこない脳天からマットへ落下し、しばらく失神してしまった。中盤から終盤にかけて2発3発と連続して繰り出されることが多い。
- 何度か断崖式で繰り出そうとしているが、危険すぎる為に相手は全力でこれを阻止し全て失敗に終わっている。このためかスクウェア・エニックスのゲーム「オールスタープロレスリングII」では、絶対に失敗する技「ハーフネルソンスープレックス?」として収められている。また、2006年 4月23日の丸藤戦で、雪崩式を繰り出している。
- 2003年に行われた蝶野正洋との一騎打ちでは、何度も起き上がってくる蝶野に対して、計6発を叩き込んだ。
- スリーパー・スープレックス
- スリーパーで絞った後、右手を補助していた左手を相手の左脇に差し込み、投げやすく持ち替えてから後方に投げ捨てる。ハーフネルソン同様急角度で落ちる投げ技であり、首が完全に固定されている為ハーフネルソンよりも危険度が高い。
- 元々小橋はジョニー・エースのコブラクラッチ・スープレックスを使用していたが、現在の形に改良した。基本的にビッグマッチ限定で、ハーフネルソン・スープレックスの後に用いられる事が多い。
絞め技
- テキサスクローバーホールド(テキサス式四つ葉固め、荒馬固め)
- テリー・ファンクが日本に持ち込んだ技。足を裏四の字の形に変則的に交差させての逆エビ固めで、サソリ固めにおいて自分の足を差し込むのを、代わりに両腕を差し込んだかたちと見ることも出来る。小橋の若手時代からの得意技である。
- どんたく固め
- 2006年4月放送の『探偵!ナイトスクープ』にて、「自分が考えたプロレス技をプロレスラーにやって欲しい」という依頼が採用される。その役に小橋が選ばれ、その際に披露された技の一つである。原型は「手でサソリ固めをかける」という物だったが、小橋はその形では決まる前に逃げることが出来ると指摘。その場でテキサスクローバーホールドのように相手の足をロックし、そのまま釣り上げるという形に改良した。改良型が放送直後の2006年4月16日博多スターレーン大会にて金丸義信を相手に披露されている。
- カナディアンバックブリーカー
- 若手時代の得意技。トップ戦線に加わってからはほとんど使っていないが、この技を基にしてダイヤモンドヘッド(前述)を開発している。
フォール技
- ムーンサルトプレス
- 別名月面水爆。握り拳を作りながら観客にアピールした後、トップロープから高く飛び上がって体重を効かす形のムーンサルトプレスを放つ。小橋にとって最初の必殺技であり、スタン・ハンセンからの初勝利もこの技で奪った。
- 全日本プロレス時代に乱発し、膝を痛める。ムーンサルトの先輩である武藤敬司の「余り使いすぎるな、俺みたいにボロボロになる」というメッセージを伝え聞いた小橋は、「ありがとうございます。でも、僕の膝ももうボロボロですよ」と返した。結局、手術・長期離脱の原因を作ったことから膝への負担が大きすぎるこの技はノア旗揚げ以降使用が控えられる。しかし2004年の高山善廣とのGHC選手権でバーニング・ハンマーを防がれた小橋は鬼の形相で「行くぞ!」と叫び、かつて評された「青春の握り拳」を作り、コーナーを駆け上り高山の顔面を強打する完璧なムーンサルトを繰り出した。なお、「何故やる前に握り拳を作るのか?」という質問に対し、「威力が倍増するから」と答えている。
- ローリング・クレイドル(回転揺り椅子固め)
- テリー・ファンクが使用していた技で、若手時代に得意としていた。コブラツイストのような体勢から倒れこみ、マットに円を描くような感じで転がった後フォールに行く。返されたら再び円を描くように転がる。現在は元付き人の潮崎豪がこの技を使っている。
獲得タイトル
プロレスリング・ノア
全日本プロレス
- 三冠ヘビー級王座(3回/第16代・第19代・第25代)
- 世界タッグ王座(6回/第24代・第25代・第32代・第34代・第36代・第40代)
- パートナーは三沢光晴→ジョニー・エース→秋山準で各2回ずつ。
- 第24代の時に世界最強タッグ決定リーグ戦に専念するために一度王座返上。同トーナメントは世界タッグのベルトがかけられることとなり、三沢・小橋組が優勝、再び世界タッグ王者となった(1993年までは世界最強タッグリーグシリーズ時に王位を返上し、その年の最強タッグの優勝チームへベルトが与えられる決まりだった)。
- アジアタッグ王座(3回/第51代・第53代・第59代)
- パートナーは三沢光晴→ジョニー・エース→菊地毅。
- チャンピオン・カーニバル優勝(1回/2000年)
- 世界最強タッグ決定リーグ戦(優勝5回/1993年・1994年・1995年・1998年・1999年)
- パートナーは93年〜95年まで三沢光晴→98年〜99年が秋山準。
人柄
プロレス界における小橋の絶対的な人気は、激しい試合内容だけでなくその人柄に拠る所が大きい。以下、小橋の人柄を表すエピソードを記す。
練習内容、試合態度
- 特別なスキルもなく、トップレスラーとなりえたのは、誰よりも練習に励んでいたからだとも言われている。全日本プロレス時代、ジャイアント馬場の付き人としてハワイに行った際に、ひたすらトレーニングをしていた為、見かねた馬場が「休むのも練習の内だから休め」と命令したほどである。また、全日本プロレス時代には、TV放送で試合を解説していた馬場に「小橋は、趣味が練習、職業はプロレスラー」と言わしめたこともある。当時全盛だったロード・ウォリアーズの両者に片言の英語でトレーニング方法を教わったとも語った事がある。トップとなった今でもそれは変わらず、道場には若手の誰よりも早く来て(一説によると朝5時半)汗を流している。なお、厳しいプロレスの練習を乗り切った秋山準やKENTAでさえ、小橋の練習に付き合いオーバーワークで病院に運ばれたという逸話がある。同じく、2002年の復帰直前、KENTAとともにハワイ合宿を敢行していたが、遊びにも行かず本当に一日中ジムへ篭っていたためKENTAが驚愕し、「最後の日に土産を買う時間だけは下さい」と懇願したという話もある。全日本プロレス時代、小橋の試合を解説していた川田利明が発した「あいつを殺すには刃物は要らない。ダンベルを取り上げればいい」は彼の練習好きを端的に表す名言。また全日若手時代に、異常とも思える練習熱心さをある中堅選手が嘲笑したところ、当時既にトップレスラーだった天龍源一郎が「おまえら笑ってるけど、今にこいつに食わせてもらう日が必ず来るぞ」と言ったことも有名である。
- 1997年1月20日、大阪府立体育館での三沢を挑戦者として迎える三冠戦前日のことである。小橋は母親に電話をかけ、「俺が死んでも三沢さんを恨まないでくれ」と伝えた。その日スポーツ番組に2人とも生出演する予定があったのだが、小橋は病院へ直行した。結局、テレビは三沢のみの出演となったのだが、その現場ではキャスターの中畑清がプロレスの真似事として女子アナの首をしめるなどしてふざけていた。しかし、実際に映像を見ると余りの激しさにショックを受け、三沢に謝罪したという。
- 試合中に小橋は「カモン!」や「ファックユー!」等と突然英語を発し始めることがあるが、これは秋山曰く「小橋さんが英語を使うのは調子が上がってきた証拠」とのことである。また、全日本プロレス時代、西前頭四枚目の地位まで昇り詰めた大相撲からプロレスに転向してきた力皇の練習初日、「ほら、チェンジ・ザ・ボディ、チェンジ・ザ・ボディ!」と力皇猛に檄を飛ばしていた。相撲とプロレスでは必要な筋肉が違うため、一応この言葉には意味があると思われる。デビュー前の井上猛(後の力皇)のリング名として「エドモンド井上(エドモンド本田?)」を提案するが、丁重に断られている。
- 観客やマスコミの前で弱みをみせる事が殆ど無い。膝の怪我が悪化しても、試合ではそれをみせず、若手に両肩を支えてもらいながらバスを降りる小橋の姿が目撃されている。また、唯一長期離脱に入る直前の2001年1月18日を除いては、テーピングした膝を絶対にマスコミに撮らせなかった。また、2006年2月11日の「佐々木健介デビュー20周年記念イベント」にて、天龍の椅子攻撃により唇から歯が突き抜け大量の血が流れたが、試合途中に焦って駆けつけ治療しようとするトレーナーの浅子覚を笑顔で制し、触らせなかった。試合後も用具を持ってリング上までやって来た浅子を止め、勝ち名乗りとほぼ全選手による記念撮影が終わってから観客の見えない所で治療を受けた。
- 2004年、2005年の東京ドーム大会ではどちらも壮絶な試合を繰り広げたものの、翌日から元気にトレーニングを開始している。2004年から2005年にかけて東京スポーツ新聞の一面企画として特訓シリーズを開始。ゲーセン特訓、北海道蟹特訓など常軌を逸したトレーニングを行なった、2005年の佐々木健介戦では「肉体的にはやっぱりキツイけど、翌日にフリーの佐々木選手は試合があるとレフェリーの西永秀一に聞いたので負けられないと思って道場に来た。でも、練習を始めた頃に西永が走ってきて『佐々木選手は試合がありませんでした』と言うもんだから、仕方がないから練習して帰った」そうである。ついでに、一方の佐々木健介は小橋との試合で興奮した為か、試合後の控え室で早速チューブトレーニングや腕立てに励んでいた。
- 若手時代に全日本のお家騒動で海外修行へ行けなかったため、海外での試合に強く憧れていた。2005年、GHCを失った事から身軽になった小橋は海外での試合を訴えるようになる。同年9月20日、遂に会社へ認められ、アメリカに渡った。アトランタからセントルイスに向かう飛行機内では(許可を得た後)上半身裸でトレーニングを開始し女性乗務員に「グレートマッスル!!」と驚かれていたが、同性愛者と思われる男に股間を触られ、流石の小橋もこれには堪えかねたか「アメリカは怖い」と呟いた。しかし、目的地につくと午後11時にも関わらず、開口一番「ジム開いてないの?」と言ってのけた。
- 2006年、腹腔鏡下手術からしばらくした後、8月に医師から許可が出てリハビリを開始したが、そのリハビリとはウェイトトレーニングのことであった。一般にウェイトトレーニングはプロレスの練習の一つとして捉えられているが、小橋本人にとっては、受身やスパーリングができるようになった段階でプロレスの練習を再開できたという認識のようである。手術後100kg近くまで落ちた体重は、リハビリと術後経過による食事制限の緩和によって徐々に元の体重(115kg前後)に戻ってきている。
性格
- とにかく裏表のない人柄でファンのハートをしっかりつかんでいる。負け惜しみ、悪口やデカい口を叩くなど普通プロレスラーなら誰でもするような事は一切無縁な男である。我慢強く、一途なところも人気の秘密であり、どんなカードでもファンに喜ばれる試合をする。但し、2000年 10月11日名古屋大会での大森隆男戦では試合開始当初よりほぼ一方的に大森を攻撃、終盤は戦意喪失・失神状態にある大森に止めのラリアートを叩き込む等制裁マッチの様相を呈し、小橋にしては冷静さを欠いた試合となったことがある。
- GHC王者だった時には、ベルトを綺麗に磨き、会話するのが日課であり、ベルトを持参したファンとの撮影会の翌日にも関わらず、ピカピカに輝くベルトを見て付き人だったKENTAや潮崎豪は大変驚いていた。
- ファンサービスが丁寧であることも知られている。どんな状況でも必ず笑顔でサインをし、断ることはほとんど無い。小橋自身が幼少期、プロレス観戦に行き新日本プロレス所属(当時)の藤波辰巳にサインを求め、快くサインをしてもらったという思い出があり、デビュー時からファンを非常に大切にしている。また、幼少の頃、ダイナマイト・キッドにサインを求めるも、キッドに色紙を投げつけられる行為を受けたことがあり、これが反面教師になった面もある。ちなみに普段のインタビューではほとんどないが、プライベートやトークショーなどのリラックスできる場では京都出身ということで関西訛りが出る。
- 2006年6月24日に小橋は右腎臓に腫瘍があると告知をされていたが、翌日福島で行われたファンクラブイベントのバーニング杯ボウリング大会に参加した。いつもと変わらぬ様子で、後に欠場が発表される7月の高山復帰戦への応援に対しても「おう、ありがとう!」と応えていたという。担当医師からは試合への出場は絶対不可、一日でも早い入院を、と厳しく言われていたため、覚悟はあったと思われる。後に同じくイベントに出ていた菊地毅は心中の動揺を全く感じさせなかった小橋の様子を振り返り「小橋選手の生き様ってものを見せられた」と語っている。
- かなりの汗っかきであり、バラエティ番組等に出演した際、周りは汗一つかいてないにも拘らず小橋だけが滝の様な汗を流している事が多い。トークショー等では黒い扇子を持参し、汗をかき始めるとその扇子で自分の顔を扇いでいる。また、全日本時代のファンクラブ主催のハワイ旅行では、当時、入門二年目の新人だった秋山準とホテルで同室になり、小橋が一晩中14度に設定したクーラーを入れっ放しにしていた為、秋山は「先輩だから文句は言えないし、毛布をかぶっていても、耐えきれなかった。冷凍庫の地獄のようだった」と証言している。
- 「プロレスリング・ノア中継」番組最後に行われたDVDのプレゼント告知を一度担当した事があったが、数秒の告知でNGを10回以上も出したほどのアガリ性であり、結局オンエアされたものも棒読みであった。全日本時代はファッションに無頓着であり、Tシャツにダボダボのスウェット姿やジャージ姿でいる事が殆どであった。ノアに移籍して以降、テレビへの露出が増加した事もあり、服装にも気を使っているようであるが、その殆どがグレーのポロシャツもしくはTシャツである。「他に洋服を持っているのか?」との疑問も聞かれる。なお、全ての全日本所属選手がTシャツを必ずズボンに入れていたのは馬場の教えである。
- 2003年に「プロレス大賞でMVPをとった時の為に」と白い和服を仕立ててもらっていたが、結局MVPをとることは出来なく袖を通していない。
プライベート
- 未だに結婚をせずに、2006年の誕生日では「ベルトが恋人だから結婚の予定はない。今後するつもりもない」と生涯独身を断言したが、2006年5月にKENTAが入籍を発表してから、「最近のKENTAの調子のよさは内助の功もあるのかな」と、結婚に対しての興味が湧いてきている。雑誌等で必ず小橋をネタにする秋山準は小橋の奥さんになる条件として「小橋さんが4時半に起きると言うことは、カミさんは3時半に起きて飯の準備しなくちゃいけない。また、エアコンの温度は16度」と語っている。
- 同期の田上明とは仲が良く、公の場では彼のことを「AT」と呼ぶ(5つ年上の為、プライベートでは「田上さん」と呼んでいる)。大舞台で田上とタッグを組むことになる度に小橋は数日間通しての泊りこみ特訓を提案するが、田上の趣味である釣りで海上に逃げられたりしている。
- 無類の競馬好きで中央競馬に限らず、地方競馬にも積極的に投資している。2004年のJBC競走(大井競馬場で開催)では、プレゼンターを勤めた後、最終レースまで観戦し、最終レース終了後に今までの的中馬券を大量に換金している。
- 愛読誌は「週刊漫画TIMES」(芳文社)。
- 何故か動物や子供に敬遠される人間のようで、2005年に秋山と共にイギリスへ渡った際は、本来人間慣れしている公園のリスに逃げられ、ファンイベントで母親から赤ちゃんを手渡された途端泣き出されてしまっている。その為か2006年の「北海道馬特訓」では馬が近づいてきた事へ大いに感動していた。
- カラオケの十八番は、CHAGE and ASKAのモーニングムーン。秋山準によると、機嫌が良かったり酔っ払った時には必ず選曲するらしい。全日本プロレス中継のエンディングテーマでも一度だけ流れた事もある。
その他
- CHARCOAL FILTERのベストアルバム『C☆BEST+Flying Hi-High』のCMに出演しており、真っ暗なトレーニング場でダンベル片手に「だーめーなじぶんをーあいせはしないー」と歌うという非常にシュールな姿を見せてくれている(特設ページ。CM映像あり)。また、プロレス好きを公言しているSEX MACHINEGUNSのライブアルバムは『Burning Hammer』と名づけられており、そのジャケットはイニシャル「K.K」と記された人物の剛腕となっている。
- 『ひらめ筋GOLD』の「ハイパー騎馬戦チャンピオンズカップ」の出場要求を受けた時、秋山が出ないと聴くと、秋山の控え室に来て「準! お前出ろよ!」と言った。「その日は予定があるから」と秋山が断ると「準が出ないなら俺も出ないから!」と言い出した(秋山談)という。結局秋山も出ることになり、小橋、秋山、力皇、ムシキング・テリーというノア最強の布陣を組む。一試合目の新日本プロレス(天山広吉、タイガーマスク、棚橋弘至、中邑真輔)には完勝したが、次戦のWRESTLE-1(曙、プレデター、WRESTLEマスク1号、2号)には、曙の圧倒的な体格の前に押し切られ完敗した。この敗北に対し小橋は、「思った以上に悔しい」と語っている。
- 地元の福知山市動物園のシロテナガザルの「健六」は、彼の名前の一部からもらったものである。このシロテナガザルは非常に人気があり、全国のテレビ局やラジオ局が取材に訪れるが、2006年に雄ではなく雌である事が発覚した。
- 1993年のスティーブ・ウィリアムスとの三冠挑戦者決定戦で殺人バックドロップを食らい敗れる。奇しくもスティーブ・ウィリアムスから食らったこの殺人バックドロップがきっかけで、全日マットでは脳天から叩き落とす危険な技の応酬のスタートとなった。
- 1990年代前半、大阪毎日放送の浜村淳解説の深夜の映画番組に、小橋はオープニングでヘラクレス役で出演していた。
通り名
小橋には昔から数々の通り名があり、小橋の成長・立ち位置の変化に伴って変わっていっている。以下、歴史順に記していく。
- オレンジクラッシュ
- 小橋がオレンジ色のタイツを穿いていたことから名づけられた。秋山デビュー一周年の試合で繰り出した技の名前へそのまま受け継がれた。まだダイビング・ギロチン・ドロップをフィニッシュ技としていた頃である。因みに、オレンジ色はジャイアント馬場と交遊があった松山千春の発案とされる。
- 熱き青春の握り拳
- 小橋がムーンサルトを繰り出す前などに握りこぶしをつくり気合を入れていたことと、小橋のスタイルがまさしく若さ溢れる突貫ファイトであったことからこの名前がつけられた。最も長く親しまれた呼称であり、この名前が自伝「小橋健太 [青春自伝] 熱き握り拳」に採用されている。
- 熱き魂の握り拳
- ベイダーを倒し第25代三冠王者に輝き念願だったチャンピオン・カーニバルで優勝した2000年を前後して、「もう30代で青春とかじゃないし」という理由で次第に「青春」から「魂」へと呼称がシフトしていった。余り定着はしなかった。
- 黒小橋
- 2000年10月7日、ディファ有明で行われた小橋・力皇組対秋山・金丸組にてそれまでのオレンジタイツから突如として黒のタイツに履き替え入場してくると、今までとは違った非情な攻めを続け、秋山を失神させた。そして10月11日の愛知県体育館大会、対大森戦でのシングルで見せた小橋の徹底的な攻めに大森は大流血、半失神状態に追い込まれる。それでもなお無理やり掴み起こしてラリアット等の攻撃を繰り返した。今までの小橋では考えられない非情さと、タイツを黒に変えていたことから畏怖の念を込めて称された。また、「鬼小橋」とも呼ばれる。
- 鉄人
- 復帰は無理と思われていた膝の手術から戻ってきたため、不屈の精神へ尊敬の念を込めてこう称された。GHC戴冠後から特に強調されだし、「鉄人小橋」と半ば枕詞と化していた。
- ミスタープロレス
- 2003年、蝶野正洋が小橋との対決を熱望してノアマットを訪れた際、「小橋、お前はミスタープロレスだ」と言い放った。このことから、その後しばらくファンの間で「小橋はミスタープロレス」と言われていたが、2005年9月、小橋が初のアメリカ遠征に出向いた際、本物のミスタープロレスでありミスターNWAと称されたハーリー・レイスから、「もう私はミスタープロレスではない。これからは小橋がミスタープロレス」と言われる。その後行われた試合では、NWA世界ヘビー級王座のベルトをレイスから巻いてもらった(後にそのベルトは「その名を受け継ぐには畏れ多い」という小橋の思いからレイスに返還されている)。現在WWE副社長であり元タッグパートナーのジョニー・エースからも同様の言葉を投げかけられた。このことから秋山はハーリー・レイス認定NWA世界ヘビー級王者と呼ぶこともあり、日本に存在するもう一人のミスタープロレス、天龍源一郎と区別するために「ハーリー・レイス認定ミスタープロレス」と付け加えることもある。
- 絶対王者
- GHC戴冠後、選手権試合では必ず名勝負を繰り広げ勝ち続け、ノアのみならずプロレス界を一身で背負うその偉大な姿を指して「絶対王者」と称される。小橋を称する際の枕詞の如く使用され、まさしく絶対王者=小橋という状況であった。当然ながら力皇にGHCを奪われた後は殆ど使われなくなったが、この言葉のインパクトは大きかったらしくその後も「元絶対王者」等と使われることがしばしばある。
The indisputable champion
- ジャパニーズ・レジェンド
- 2005年より、小橋はアメリカ、欧州と海外遠征に初めて出ることになったが、ニューヨークでのROHの大会に出場することになった際、地元紙には「Japanese Legend」の文字が載った。アメリカでもコアなファンはネットによって小橋の存在や活躍を充分知っており、会場入りする前にはノアのTシャツを着たファンに出会ったほど。試合内容も日本と同様に熱い小橋を存分に見せつけ、会場全体から「KOBASHI」コールが響いた。試合後、会場は「ARIGATO」の大コールに包まれた。
- 伝説の男
- 2005年10月2日秋山がW-1グランプリでボブ・サップと初対決し敗れたことから「伝説の男が4日に帰国するから、話してみるよ」と海外遠征中だった小橋にリベンジを期待する発言をし、10月8日の後楽園大会のセミで小橋とタッグで対決する際、表に「伝説の男 vs 野獣」、裏に「アニキ あとは 頼んだぞ!」というTシャツを着て入場し、小橋にTシャツを渡した。試合後のマイクでも、「アニキ、任せました!」と発言し握手を交わす。元々小橋は「生ける伝説」としてアメリカを始めとする日本以外のマニアックなプロレスファンから崇拝されており、小橋の米国遠征と掛けた秋山の新たなキャッチコピー作りの一環であると思われる。なお、「アニキ」はラッシャー木村がジャイアント馬場を「アニキ!」と呼び慕っていたことへのオマージュであろう。ちなみに「伝説の男 vs 野獣」はいまだ実現に至ってはいないものの、2006年5月13日のK-1オランダ大会でサップが試合直前に逃亡した件に関して、同月15日にK-1の谷川貞治イベントプロデューサーが行った会見にてサップが同年4月23日に行われたノアの日本武道館大会への出場オファーを拒否していた事が発覚。オファー拒否の理由は不明だが、もしサップが首を縦に振っていたら「伝説の男 vs 野獣」が実現していたのは間違いないだろう。
- プロレスの女神に愛された男
- 長期政権を築き上げていく中、インターネット上で徐々に称されるようになってきたファン発祥の通り名である。歴史に残ると言っても良い数々の名勝負が、そのキャラクターからしてどう考えても意識的に組み立てていったものとは思えない多数のファンが、「小橋の行う動きの全てがプラスに傾く」と仮定し、それは「プロレスの女神に愛されているからだろう」と結論付けたことに由来する。なお、何故「女神」なのかと言えば、単純な話で何時まで経っても結婚できないからである。
- チョップ小橋
- 2005年の佐々木健介との一騎打ちで異常なチョップ合戦を繰り広げ、以降より一層チョップが小橋のトレードマークとなっているが、秋山が2005年末のノア中継スペシャルに於いて「ノアの話題賞」を考えた際に小橋を「チョップ小橋」と命名(秋山曰く「海外のファンが小橋さんのことをそう呼んでいた」とのこと)。小橋も「それに拘りますね」と発言したことから、現在の通り名となっている。
キャラクター
ノア以降、ハロウィン興行やクリスマス興行等で普段のハードな試合展開とはかけ離れた楽しく夢のある興行を打つようになる。それに伴い小橋もいくつかのキャラクターをその場限定で演じることがあった。以下それらを記していく。
- BLAZE
- 2002年10月31日、ディファ有明で行われたハロウィン興行ではハロウィンにちなみ全選手が覆面を被り、パンプキンですを代表に楽しい試合を行っていた。しかし、メインイベントで登場したBLAZEというマスクマンは何時ものノアと変わらぬハードヒットを一人繰り返し、周りのマスクマンを戸惑わせた。常に真剣勝負の小橋らしいマスクマンである。もっとも、珍しい高速ブレーンバスターなどを繰り出していたので、本人的にはキャラをつくっていたのかもしれない。
- ケン様
- 2004年9月23日、ディファ有明で行われた東西対抗戦の第二部、西軍「ブサイクの祭典(1人を除く)」にて小橋軍と秋山軍の対抗戦が行われた。これに際し負けたチームのリーダーが罰ゲームとして「自腹でファン5名に夕食をご馳走する」ことと、「ペ・ヨンジュンのコスプレ」が秋山の提案により課されていた。最後には小橋対秋山という大将戦までもつれ込むが、場外乱闘の後秋山は橋誠を投げつけて小橋のリングインを阻み、場外カウント勝ちを収めた。憮然とした表情で小橋は控え室に引き上げる中、リング上で秋山は秋山らしく女性が出るまで何度もくじを引き直して5名を選出、場つなぎで橋にマツケンサンバ IIを躍らせると遂に準備が完了する。あの曲が鳴り響く中、かつらにメガネ、セーター、マフラーとフル装備のケン様が笑顔で登場する。「アニョハセヨ」と韓国語で挨拶しポーズをとり、「もう一人ゲストが居ます! ユジン!」と似ても似つかぬ杉浦貴を招き入れた。再び二人でポーズをとると、空から粉雪のような紙ふぶきが舞い落ちてきた。すると突然スギンが暴走しケン様の唇を奪おうと強引に迫って来る。貞操の危機を感じたケン様は渾身のチョップを叩き込み、力でスギンをなだめ、二人は幸せそうに花道を引き上げていった。なお、これを見た秋山は「思ったとおりだね。感無量ですよ」、「ドーム以上の借りを返せた。次はクリスマスでコバケンサンバだ」と発言している。
- 剛腕(豪腕)大魔王
- 2004年12月24日、ディファ有明で行われたクリスマス興行において、毎年お約束と化していた日テレ製作(前年まではFIGHTING TV サムライ製作)の特別映像作品「ディファ有明戦隊ノアレンジャー」の中で登場したキャラクターの一人である。セーラー服に身をつつみ、美しい長髪をなびかせるタモみに「おじちゃんとあそぼうか」と突如襲ってきた人物こそ剛腕大魔王その人である。しかし、三沢を中心としたやたらと多い「30人揃ってちょっとモッコリ、ディファ有明戦隊ノアレンジャー」に邪魔をされる。地力の違いで一気に27人を片付け残り3人としたが、ここでホワイトレンジャーがタモみのサラサラヘアーをなびかせた。「俺がやりたかったのにー」と気を取られている隙に、ある曲聴くと無性に踊りたくなる「スターネスサンバ」を受け敗れてしまった。上述の東西対抗戦にて試合後秋山が語っていた「クリスマスは躍らせる」という流れに上手く持っていったのだが、小橋は剛腕にモノを言わせ無理やり橋に踊らせた。全試合終了後、ノアレンジャーの姿のまま選手一人ひとりが挨拶を行う中、秋山は「ワシントンホテルで小橋が1人で泊まってます。よろしくお願いします」と発言し、小橋は「剛腕大魔王です。こんな格好で言うのも何ですでけど、今年1年どうもありがとうございました。来年もプロレス道へまい進していきます。よろしくお願いします」と大会を締めた。
関連項目
参考文献
- 小橋健太 『小橋健太[青春自伝]熱き握り拳』 ぶんか社、1990年。
- 週刊プロレス編著 『スポーツアルバムNo.8 小橋建太』 ベースボール・マガジン社、2003年。
- アライテツヤ/撮影 赤木太陽/文 『Document小橋健太』 角川書店、2006年。
- 東京スポーツ
- スポーツナビ|格闘技