コンテンツにスキップ
Wikipedia

「黄夫人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
3行目: 3行目:


== 『三国志』に見える記述 ==
== 『三国志』に見える記述 ==
『[[三国志]]』蜀書・諸葛亮伝の註に引く「襄陽記」によると、沔南の名士・[[黄承彦]]が「君は妻を探していると聞いたが、私に醜い娘がいる。赤毛で色黒の娘だが、才知の方は君とお似合いだ」と言い、諸葛亮は承知したので娘を車に乗せて送り届けた。当時の人々の笑いの種となり、郷里では諺を作って「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦(削除) の字 (削除ここまで))の醜い娘をもらうはめになるぞ」といったという。
『[[三国志]]』蜀書・諸葛亮伝の註に引く「襄陽記」によると、沔南の名士・[[黄承彦]]が「君は妻を探していると聞いたが、私に醜い娘がいる。赤毛で色黒の娘だが、才知の方は君とお似合いだ」と言い、諸葛亮は承知したので娘を車に乗せて送り届けた。当時の人々の笑いの種となり、郷里では諺を作って「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらうはめになるぞ」といったという。
黄承彦は[[蔡諷]]([[蔡瑁]]の父)の長女を妻にしており、次女(蔡夫人)を後妻に迎えた[[劉表]]とは義理の兄弟と。諸葛亮は黄承彦を介して劉表とは義理の叔父・甥の間柄となり、劉表の息子の[[劉琦]]、[[劉琮]]とは義理の従兄弟同士となった。
黄承彦は[[蔡諷]]([[蔡瑁]]の父)の長女を妻にしており、次女(蔡夫人)を後妻に迎えた[[劉表]]とは義理の兄弟と。諸葛亮は黄承彦を介して劉表とは義理の叔父・甥の間柄となり、劉表の息子の[[劉琦]]、[[劉琮]]とは義理の従兄弟同士となった。



2007年6月8日 (金) 13:44時点における版

このページの名前に関して改名 提案されています。
議論は このページのノートページ を参照してください。
貼付した年月を date=yyyy年m月 と指定してください。
注意: このテンプレートの使用は推奨されておりません。{{改名提案}}を使用してください。

黄夫人(こうふじん、? - 234年?)は、中国の三国時代に活躍したの宰相諸葛亮の妻。黄氏。また「黄月英」、「黄婉貞」という名も一般的に知られるが、これらは後世の創作による名前であり史実ではない。(当時は女性の名が史書に残る事は稀で、黄夫人に関しても名自体が残されていない。つまり、創作上の必要から名付けられたものである)

『三国志』に見える記述

三国志』蜀書・諸葛亮伝の註に引く「襄陽記」によると、沔南の名士・黄承彦が「君は妻を探していると聞いたが、私に醜い娘がいる。赤毛で色黒の娘だが、才知の方は君とお似合いだ」と言い、諸葛亮は承知したので娘を車に乗せて送り届けた。当時の人々の笑いの種となり、郷里では諺を作って「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらうはめになるぞ」といったという。 黄承彦は蔡諷(蔡瑁の父)の長女を妻にしており、次女(蔡夫人)を後妻に迎えた劉表とは義理の兄弟と。諸葛亮は黄承彦を介して劉表とは義理の叔父・甥の間柄となり、劉表の息子の劉琦劉琮とは義理の従兄弟同士となった。

史実には見られない逸話

有名な諸葛亮の妻である為か、民間伝承・講談・戯曲・小説等で様々な逸話が語られている。彼女に関する多くの逸話は、後世の人々が諸葛亮に思いを馳せる際に生み出されたものと言える。そのどれもが明確な出典や根拠を得られない荒唐無稽なものであるものの、三国志の物語世界にアクセントを加えるユニークな逸話として親しまれている。以下にその代表格を列挙する。

木牛流馬の発明家?

才女であることから転じ、天文から地理・兵法と広く学問に通じ、諸葛亮を陰で支えたといわれる。「木牛流馬を発明した」「カラクリ人形を作った」等、発明に関する逸話が多い。かなり古くからある伝承である。

実は外国人?

赤毛色黒であるということから「実は外国人であった」という逸話。つまり黄承彦は実父ではなく、西域からの渡来人を養女にしたという解き明かしである。

実は美女?

世俗の目を欺く為に醜女を装っている(顔に黒墨を塗っていた、等)が、本当は美女であったという話。出典は不明だが、これも長く民衆の間で伝えられた説である。 木牛流馬の発明家とセットで語られるパターンもある。上記の渡来人説とあわせて美女の外国人とする説もある。

関連項目

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /