「孫武」の版間の差分
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2007年5月4日 (金) 20:31時点における版
孫武(そんぶ、紀元前5世紀頃)は中国 春秋時代、兵家の代表的人物。『孫子』とも称され、兵法書『孫子』の作者と伝えられる。一説では斉の宗族とされ、田完の五世孫で、孫書の孫で孫憑の息子。孫臏の先祖。孫武には孫適(敵)・孫馳・孫明という三人の息子がいたという。
略要・人物
呉に仕える
『史記』「孫子呉起列伝」の伝えるところによると、孫武は斉の生まれで、生家は貴族であるとされる。ある時、『孫子』十三篇を耽読した呉王・闔廬(こうりょ)によって招かれた。「わしの側室である女性達で軍隊を編成してみよ」との命を受け、孫武は王の愛妾二人を隊長に部隊を編成した。だが、女性達は孫武の命令を一向に聞かない。そこで「これは私が彼女らに取り決めの意味を理解させるに至らなかったので、指揮者の私の落度であり私の責任だ」と言って、その指示法を何度も繰り返して説いた。だが女性達は相変わらず、孫武を馬鹿にして笑い転げてばかりだった。ついに孫武は怒り出して「黙れ!」と一喝し「私は編成の調練法を何度も繰り返し説いて、再三申し渡したのだ。先程は私の落度だが、今度はそれを実行しないその隊長の責任である!」と言い隊長である二人の愛妾を斬ろうとした。闔廬は慌てて「ま、待て、止めい!わしの落度だ。わしに免じて彼女らを許してやってくれんか?」と叫んで止めようとした。だが孫武は「将軍たるもの一度命令を受ければ、軍中にあっては仮(たと)え、君主の命令といえども従えない事があると申しまする!」と言って、その隊長格である愛妾の二人を斬った。残った女性達は孫武を恐れなし、今度は命令に忠実に従うようになった。闔廬は不興であったけれども、素直に孫武の軍事の才を認め、正規の将軍に任じた。その後の呉の隆盛は孫武の働きによるところが大きかったと伝えられている。
活躍とその後
呉は孫武や伍子胥の活躍により連戦連勝、楚を壊滅させた。その後呉と越の戦いで闔閭が戦死し、その次男である太子の夫差が即位すると、孫武は将軍職を辞し呉から去って行った。一説では息子達と共に斉に帰国したという。ちなみに俗説では、夫差は孫武を引き止めるために呉郡 冨春県を与えたが、それでも孫武を止められなかったという。おそらくこのことは三国時代の呉の創始者である孫堅(孫鍾の子)が孫武の末裔だと称した際に、世間に広まったものと考えられる(実際には、父・孫鍾は商人)。
『孫子』
『史記』以前の古籍にその名が全く見られないこと、「武(武力、用兵に優れる)」という名があまりにうまく出来過ぎていること、漢書「芸文志」には「呉孫子兵法八十二篇図九巻」あって、現行の十三篇の孫子と符合しないこと、などから、現存する『孫子』の兵法書を孫臏の著作と見なし、それまでは孫武は架空の人物であるとする意見も根強かったという。だが、1972年、山東省で孫臏の著した兵法書(『孫臏兵法』)の竹簡が発見されたことにより『孫子』が孫武の著作であると証明され、その実在が確かめられたのである。
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