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'''趙佗'''(ちょうた、? - [[紀元前137年]] 在位:[[紀元前203年]] - 紀元前137年)は、[[南越国|南越]]の初代[[王]]。[[諡号]]は'''武王(武帝)'''(削除) 。一説では、[[趙 (戦国)|趙]]の[[趙無恤|趙襄子]](趙無恤)の末裔とされる (削除ここまで)。[[常山郡]][[真定県]](現/[[河北省]][[石家荘市]][[正定県]])の人。
'''趙佗'''(ちょうた、? - [[紀元前137年]] 在位:[[紀元前203年]] - 紀元前137年)は、[[南越国|南越]]の初代[[王]]。[[諡号]]は'''武王(武帝)'''。[[常山郡]][[真定県]](現/[[河北省]][[石家荘市]][[正定県]])の人。


==略歴・人物==
==略歴・人物==
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===その末裔===
===その末裔===
趙佗の息子の名は不詳だが、孫の趙眜(趙胡)を初めとして、曾孫の[[趙嬰斉]](明王)、玄孫の[[趙興]](哀王、生母は[[邯鄲市|邯鄲]]出身の樛氏)、 その庶兄の[[趙越]]、その末弟の[[趙次公]]、最後の王である術陽侯・[[趙建徳]](趙越の嗣子)がいる。また趙佗の族孫に[[蒼梧]]郡の秦王・[[趙光]]もいる。趙佗の六世孫の趙建徳は[[武帝 (漢)|武帝]]率いる[[漢]]の軍勢によって捕虜となったが、その後の事項は不詳であ(削除) る。一説では、[[後漢]]末の[[桂陽郡]]・[[太守]]の[[趙範]]が趙佗の末裔ともいわれ (削除ここまで)る。
趙佗の息子の名は不詳だが、孫の趙眜(趙胡)を初めとして、曾孫の[[趙嬰斉]](明王)、玄孫の[[趙興]](哀王、生母は[[邯鄲市|邯鄲]]出身の樛氏)、 その庶兄の[[趙越]]、その末弟の[[趙次公]]、最後の王である術陽侯・[[趙建徳]](趙越の嗣子)がいる。また趙佗の族孫に[[蒼梧]]郡の秦王・[[趙光]]もいる。趙佗の六世孫の趙建徳は[[武帝 (漢)|武帝]]率いる[[漢]]の軍勢によって捕虜となったが、その後の事項は不詳である。


==宗族==
==宗族==

2007年5月4日 (金) 20:19時点における版

趙佗(ちょうた、? - 紀元前137年 在位:紀元前203年 - 紀元前137年)は、南越の初代諡号武王(武帝)常山郡 真定県(現/河北省 石家荘市 正定県)の人。

略歴・人物

若き趙佗

史記』「南越列伝」・『漢書』「南蛮伝」によると、彼の別称は「尉佗」とも呼ばれた。元々は官吏であった屠睢任囂の部下であった。屠睢と任囂は、紀元前221年始皇帝が初の天下統一の偉業を成し遂げると、勅命で南海郡 竜川県(広東省)のに任じられ、趙佗と共に謀反を起こした百越などの南方の蛮族の統治を命じられた。彼等の任務は百越の鎮圧と、北方にいる漢族を移住させることであった。現地には原住民の越人がいた。しかし、この鎮圧中に屠睢は現地民によって殺害されたという。

また、間もなく任囂は病に罹り、信頼が篤い部下の趙佗を後任として「ここは秦から独立するのに適した地域だ。君ならできるだろう」と言い遺して死去した。趙佗は任囂の遺志を受け継いで、竜川の県尉となった。早速、彼は付近の黄浦・陽山・湟谿関などに布令を出して、広東周辺で、厳格な法律を敷いた。やがて、趙佗は秦朝から派遣された高官の不正を挑発し、これを果敢に処刑し、自分の部下にその代理を委ねたという。

南越王と称号する

紀元前206年、秦が項羽によって滅ぶと、趙佗は任囂の遺志通りに、隣接する桂林・象郡に軍勢を率いてこれを併呑した。やがて紀元前203年に、国号を「南越」として自ら「武王」と称した。紀元前202年劉邦が項羽を討ち取り、天下統一し前漢を興すが、項羽との長年の戦いで、軍隊は疲労していたために、敢えて遠征はしなかったという。

紀元前196年、劉邦は陸賈(出身)を和睦の使節として派遣した。趙佗は陸賈を出迎えて、正式に南越王として印綬を受け取り、国境を長沙国とすることで、話はまとまった。その際に陸賈に対し宝玉を送った。のちに陸賈はその宝玉を売り渡して、息子5人に分け与え自立資金とさせた。

紀元前195年、劉邦が逝去した。太子の恵帝が即位した。しかし実権は生母の呂后が把握していた。中央から派遣された官吏(目付)は趙佗に向かって「鉄製器具などの交易を廃止していただきたい」と申請した。果して趙佗は激怒し「そうか・・・これは長沙王の呉臣めの目論みに相違ない。やつがその気ならばこっちも考えがあるぞ」と叫んで、直ちに軍勢を動員し、長沙国を討伐した。その内の数県を蹂躙し、財宝と人民を奪って凱旋した。これに憤激した呉臣は呂后に直訴した。呂后も激怒して紀元前182年頃に隆慮侯・周竈周灶に南越遠征を命じた。しかし、暑気と疫病のために士気を喪失し、呂后が亡くなると、周竈は一年余で広東から全面的に撤退した。

強大国南越

これを機会と捉えた趙佗は勢いに乗じて、閩越甌越(西甌)方面に北進した。さらに西北方面の駱越にも遠征し、彼等に財産を与えて(また、甌越は浙江省にいた越部族である「東甌」または「東越」のことも指した)これを支配下に置いた。やがて趙佗は華南全域と華中南部の一部などの広大な地域を南越の領土とした。ついに趙佗はと称して「南越国の武帝」と号した。

紀元前179年、呂氏が滅び文帝が即位した。すると文帝は趙佗の一族を懐柔し、さらに趙佗と面識がある、既に老人となった太中太夫・陸賈を再び使節として派遣した。その時、陸賈は言った。「趙佗どの、新皇帝は慈悲深いお方であり、趙佗どのの郷里である真定県で眠るご両親の墓石を守る甥御には、土地を与え申した。また貴方のいとこに対しては陛下ご自身が、召し出しなされて官職と禄高を与え申した」、と。陸賈の話を聞いた趙佗は素直に謝罪したという。

また、陸賈は言った。「それならば、何故貴方は皇帝と勝手に称号したのか?また釈明の使者を派遣されなかったのは、いなかることでしょうか?」と詰問した。

そこで、趙佗は「わたしは今でこそ、南方の君主です。また呂后はわたしの一族を皆殺し、その墓標を破壊した報を聞いたので、わたしは猜疑心の虜になっておりました。ところがそれが誤りであると判明しました。先年の長沙国攻撃に関しては心からお詫びいたしまする」と述べた。こうして趙佗は地面に額を擦り付けて、以降からは帝号を称するのをやめて、貢物を毎年、送ると誓った。これを聞いた陸賈は安堵して、引き揚げて文帝にこの旨を報告した。

それ以来、趙佗は「藩王」として、毎年貢物を送ったという。それは景帝の時代になっても引き継がれた。しかし、南越国内では依然「武帝」と称えたようである。

紀元前137年、高齢となった趙佗は百余歳で亡くなった。彼の嗣子や諸子は既に父よりも先立ったので、嫡孫の趙眜が祖父の後を継いだ。

その末裔

趙佗の息子の名は不詳だが、孫の趙眜(趙胡)を初めとして、曾孫の趙嬰斉(明王)、玄孫の趙興(哀王、生母は邯鄲出身の樛氏)、 その庶兄の趙越、その末弟の趙次公、最後の王である術陽侯・趙建徳(趙越の嗣子)がいる。また趙佗の族孫に蒼梧郡の秦王・趙光もいる。趙佗の六世孫の趙建徳は武帝率いるの軍勢によって捕虜となったが、その後の事項は不詳である。

宗族

不詳

先代
南越国王
初代:武王
次代
文王

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