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'''文嬴'''(ぶんえい、生没年不詳)は、[[秦]]の[[穆公 (秦)|穆公]]の娘。[[晋 (春秋)|晋]]の[[文公 (晋)|文公]]の正夫人。姉妹に同じ文公の妃である[[懐嬴]]。
'''文嬴'''(ぶんえい、生没年不詳)は、[[秦]]の[[穆公 (秦)|穆公]]の娘。[[晋 (春秋)|晋]]の[[文公 (晋)|文公]]の正夫人。姉妹に同じ文公の妃である[[懐嬴]](追記) 。文嬴の文は「晋の文公の夫人」の意で、嬴は母国である秦の国姓であり、つまり「晋の文公の嬴姓の夫人」という意味である (追記ここまで)。
== 生涯 ==
== 生涯 ==
2024年9月24日 (火) 03:10時点における版
文嬴 | |
---|---|
晋の公爵夫人 | |
配偶者 | 文公 |
氏族 | 嬴姓趙氏 |
父親 | 穆公 |
出身諸侯国 | 秦 |
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文嬴(ぶんえい、生没年不詳)は、秦の穆公の娘。晋の文公の正夫人。姉妹に同じ文公の妃である懐嬴。文嬴の文は「晋の文公の夫人」の意で、嬴は母国である秦の国姓であり、つまり「晋の文公の嬴姓の夫人」という意味である。
生涯
秦の穆公の娘として生まれる。紀元前638年、晋の公子重耳(後の文公)が秦にやってくると、秦の穆公は公女5人を重耳に妻として与えた。文嬴は5名の公女の中で首位になった。
重耳は晋公の座に就く。文嬴は正夫人に立てられた。彼女の下には偪姞、季隗、杜祁の順だった[1] 。
文公は死去し、偪姞の子である襄公が即位すると、秦の穆公が晋に攻め入ってきたのでこれを迎撃し、秦の三人の将軍を捕虜とした(殽の戦い)。襄公は三将軍を斬ろうとしたが、嫡母の文嬴は将帥を釈放してほしいと要請し、「穆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください」襄公は母の言葉に従い、三将軍を秦に帰した。三人が帰ると穆公は郊外に出迎え、「老臣たちの忠言を聴かずに出兵したわたしが悪かった」と泣いて謝り、三人を許した。一方で晋の正卿先軫は襄公が3人の将軍を釈放したと聞いて大いに怒り、襄公を面と向かって罵倒した。
脚注
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- ^ 『癸已存稿晋夫人』文嬴、嫡也、襄公之母偪姞在二,季隗在三,公子雍之母杜祁在四,辰赢在九,此皆出于传,其四人,以序推之,齐差在五,秦女三人亦媵也,其在六、七、八欤?