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蔡の哀侯がこれを恨みに思い、[[紀元前680年|前680年]]に息嬀が美人であると楚の文王に吹き込んだ。今度は文王が大軍を起こして息を伐し、息を滅亡させた。文王は息嬀を連れ帰り自分の妻としている。
蔡の哀侯がこれを恨みに思い、[[紀元前680年|前680年]]に息嬀が美人であると楚の文王に吹き込んだ。今度は文王が大軍を起こして息を伐し、息を滅亡させた。文王は息嬀を連れ帰り自分の妻としている。
文王は息嬀を寵愛し、2人の男子が生まれた。しかし、故国の息を懐かしみ、話をしたことはない。文王が彼女の気持ちに気づき、再び蔡を(削除) 討伐 (削除ここまで)し(削除) 、蔡を滅亡させ (削除ここまで)た。蔡侯も楚で客死した。
文王は息嬀を寵愛し、2人の男子が生まれた。しかし、故国の息を懐かしみ、話をしたことはない。文王が彼女の気持ちに気づき、再び蔡を(追記) 攻撃して入城 (追記ここまで)した。蔡侯も楚で客死した。
[[紀元前675年|前675年]]、文王が死去し、長男の[[荘敖|堵敖]]は楚王となった。[[紀元前672年|前672年]]、次男の熊惲は堵敖に殺害されそうになり、随に亡命した。熊惲は随の国人の助けを借りて、堵敖を襲撃して殺害し、楚王として即位した。これが成王である。成王がまだ幼いため、その叔父の子元(文王の弟)は令尹として権勢を握る。[[紀元前664年|前664年]]、子元は息嬀に同居を強要したが、同年秋、申公鬬班が子元を殺害した。その後の経歴は不明。
[[紀元前675年|前675年]]、文王が死去し、長男の[[荘敖|堵敖]]は楚王となった。[[紀元前672年|前672年]]、次男の熊惲は堵敖に殺害されそうになり、随に亡命した。熊惲は随の国人の助けを借りて、堵敖を襲撃して殺害し、楚王として即位した。これが成王である。成王がまだ幼いため、その叔父の子元(文王の弟)は令尹として権勢を握る。[[紀元前664年|前664年]]、子元は息嬀に同居を強要したが、同年秋、申公鬬班が子元を殺害した。その後の経歴は不明。
[[劉向]]の『[[列女伝]]』によると、息侯が捕虜になって城を守る役人に落とされていると、(削除) 二 (削除ここまで)人は心中した伝わ(削除) っ (削除ここまで)ている。
[[劉向]]の『[[列女伝]]』によると、息侯が捕虜になって城を守る役人に落とされている(追記) 。ある日息嬀は楚王が宮を出る機会に乗って、宮中を離れて息侯 (追記ここまで)と(追記) の再会を果たし (追記ここまで)、(追記) 2 (追記ここまで)人は心中(追記) を遂げた。楚王は感動して、2人を合葬 (追記ここまで)した(追記) <ref>『列女 (追記ここまで)伝(追記) 』貞順伝「息君夫人」</ref>。この説は後世では人気のある題材だが、一般的には史実とは考えられない。「貞女は二夫に従 (追記ここまで)わ(追記) ず」という儒教的倫理観を反映し (追記ここまで)ている。
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== 伝記資料 ==
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[[Category:紀元前7世紀中国の女性]]
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[[Category:春秋戦国楚の人物]]
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2024年9月23日 (月) 18:11時点における最新版
息嬀 | |
---|---|
息の侯爵夫人 楚の王后 | |
『百美新詠図伝』 | |
配偶者 | 息侯 |
文王 | |
子女 |
堵敖 成王 |
氏族 | 嬀姓陳氏 |
出身諸侯国 | 陳 |
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息嬀(そくき、生没年不詳)は、陳の公女。息侯・楚の文王の妻。堵敖・成王の母。先夫・後夫の号を重ねて息夫人・文夫人と呼ばれている。桃の花のような美しさから、桃花夫人とも呼ばれている。
生涯
[編集 ]前684年、姉の蔡嬀とそれぞれ息と蔡に嫁いだ。蔡を通った時、蔡の国君である哀侯は彼女の美貌を聞いて、息嬀を強占した。息侯の要請で、楚の文王は大軍を動員して蔡を討伐し、息嬀を奪還した。
蔡の哀侯がこれを恨みに思い、前680年に息嬀が美人であると楚の文王に吹き込んだ。今度は文王が大軍を起こして息を伐し、息を滅亡させた。文王は息嬀を連れ帰り自分の妻としている。
文王は息嬀を寵愛し、2人の男子が生まれた。しかし、故国の息を懐かしみ、話をしたことはない。文王が彼女の気持ちに気づき、再び蔡を攻撃して入城した。蔡侯も楚で客死した。
前675年、文王が死去し、長男の堵敖は楚王となった。前672年、次男の熊惲は堵敖に殺害されそうになり、随に亡命した。熊惲は随の国人の助けを借りて、堵敖を襲撃して殺害し、楚王として即位した。これが成王である。成王がまだ幼いため、その叔父の子元(文王の弟)は令尹として権勢を握る。前664年、子元は息嬀に同居を強要したが、同年秋、申公鬬班が子元を殺害した。その後の経歴は不明。
劉向の『列女伝』によると、息侯が捕虜になって城を守る役人に落とされている。ある日息嬀は楚王が宮を出る機会に乗って、宮中を離れて息侯との再会を果たし、2人は心中を遂げた。楚王は感動して、2人を合葬した[1] 。この説は後世では人気のある題材だが、一般的には史実とは考えられない。「貞女は二夫に従わず」という儒教的倫理観を反映している。
脚注
[編集 ]- ^ 『列女伝』貞順伝「息君夫人」
伝記資料
[編集 ]- 『春秋左氏伝』