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1984年、ピーター・パンを演じるためには芸能界に入る必要があると考え、高校生の時、第9回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]]に応募。中国・四国地区代表として応募総数12万人の中から決勝まで残る<ref group="注">この時の優勝者は[[井森美幸]]であった。他に決勝に残った中に[[鈴木保奈美]]がいる。</ref>。
1984年、ピーター・パンを演じるためには芸能界に入る必要があると考え、高校生の時、第9回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]]に応募。中国・四国地区代表として応募総数12万人の中から決勝まで残る<ref group="注">この時の優勝者は[[井森美幸]]であった。他に決勝に残った中に[[鈴木保奈美]]がいる。</ref>。


1985年4月、[[西村知美]]が優勝した「第1回ミス・モモコクラブ」で準優勝をし、芸能プロダクション原プランニングにスカウトされる。父親から「東京の大学に送ったと思って4年間は待ってやるから、4年経っても成功出来なかったらあきらめて帰って来い」と言われ<ref name="typ11"/>、芸能界デビューのため上京。その後、[[おニャン子クラブ]]のオーディションを受け、合格ももらっていたが「専属のレコード会社、雑誌も全て決まっているから仕事の幅が狭くなってしまう」という事務所の判断でおニャン子クラブへの加入を辞退し、ソロデビューを選択することになった<ref name="typ11"/>。
1985年4月、[[西村知美]]が優勝した「第1回ミス・モモコクラブ」で準優勝をし、芸能プロダクション原プランニングにスカウトされる。父親から「東京の大学に送ったと思って4年間は待ってやるから、4年経っても成功出来なかったらあきらめて帰って来い」と言われ<ref name="typ11"/>、芸能界デビューのため上京。その後、[[おニャン子クラブ]]のオーディションを受け、合格ももらっていたが(追記) 、 (追記ここまで)「専属のレコード会社、雑誌も全て決まっているから仕事の幅が狭くなってしまう」という事務所の判断でおニャン子クラブへの加入を辞退し、ソロデビューを選択することになった<ref name="typ11"/>。


[[1986年]]4月、原プランニングから、本名の小原靖子名義で「ちょっとHENSHIN」([[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナーパイオニア]])という曲で[[アイドル歌手]]として念願の芸能界デビューを果たす。[[秋元康]]のプロデュースで、当時秋元が手掛けていたおニャン子クラブの「[[おっとCHIKAN!]]」に見せかけた企画モノで、相原自身「間違えて買ってくれる人がいないかなって」と思っていた。弱小事務所だったため、テレビ出演は少なかった。その後、当初デビュー曲予定だった、同じ秋元プロデュースで[[広島弁]]「ぶち」を題名に使い「じゃけぇ」や「たいぎぃ」などの広島弁を随所に散りばめた「恋はBUCHIBUCHI!」という曲を同年8月に出すも、事務所の倒産もあり、芸能界での活動は一時制限された<ref>2006年9月28日付 [[東京スポーツ]]</ref>。
[[1986年]]4月、原プランニングから、本名の小原靖子名義で「ちょっとHENSHIN」([[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナーパイオニア]])という曲で[[(追記) アイドル| (追記ここまで)アイドル歌手]]として念願の芸能界デビューを果たす。[[秋元康]]のプロデュースで、当時秋元が手掛けていたおニャン子クラブの「[[おっとCHIKAN!]]」に見せかけた企画モノで、相原自身「間違えて買ってくれる人がいないかなって」と思っていた。弱小事務所だったため、テレビ出演は少なかった。その後、当初デビュー曲予定だった、同じ秋元プロデュースで[[広島弁]]「ぶち」を題名に使い「じゃけぇ」や「たいぎぃ」などの広島弁を随所に散りばめた「恋はBUCHIBUCHI!」という曲を同年8月に出すも、事務所の倒産もあり、芸能界での活動は一時制限された<ref>2006年9月28日付 [[東京スポーツ]]</ref>。


1987年、[[小学館]]の雑誌『[[GORO]]』の[[激写]]で[[篠山紀信]]撮影のヌードを披露。それが縁でGOROで一時期小さいコラムを持ったり編集部の手伝いをしていた。
1987年、[[小学館]]の雑誌『[[GORO]]』の[[激写]]で[[篠山紀信]]撮影のヌードを披露。それが縁でGOROで一時期小さいコラムを持ったり(追記) 、 (追記ここまで)編集部の手伝いをしていた。


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1989年2月、[[TBSテレビ|TBS]]『[[平成名物TV]]』内の1コーナー「[[三宅裕司のいかすバンド天国]]」(通称「イカ天」)の司会者に抜擢され<ref name="d0714">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150715104613/http://datazoo.jp/tv/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%A6%BB%E3%81%AF%E8%A6%8B%E3%81%9F%EF%BC%81/874020 |title=世界の日本人妻は見た!|2015年07月14日(火)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2015年07月15日}}</ref>、明るく元気な女の子といったキャラクターで大ブレイク。この年の4月が、前述のように父親に言われていた4年間のタイムリミットだった。「もし「イカ天」に抜擢されていなかったら、広島に帰っていた」と本人も語っている<ref>「イカ天年鑑 平成元年編」([[ワニブックス]])2頁より。</ref>。そして、この番組のオーディションの時にも「『[[クラシック音楽|クラシック]]が好き』と話したのになぜか受かってしまった」と話している<ref>[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]([[光文社]])2019年5月7日・12日・21日号 100頁</ref>。この番組出演を機に芸名を'''相原 勇'''に変えての再スタートであった。なお、この芸名は「『相』には"私=I"と"愛"をいっぱい込めた意味、『勇』は男子にも女子にも通用する名前、"あなた=YOU"、自分に勇気を奮い立たせて励ますといった意味で、IとYOUを両方入れて"自分は一人じゃない"ということを込めた」由来であるといったことを語っている<ref name="typ11"/>。


1990年は、女優として4月に映画『香港パラダイス』に、10月に[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9]]ドラマ『[[すてきな片想い (テレビドラマ)|すてきな片想い]]』に出演し、7月には歌手としてシングル「ボクはパワー」で相原勇として歌手デビュー、また4月から10月まで[[文化放送]]のラジオ番組『相原勇のBEBOP YOU』に出演する他、CM出演や番組司会でも活躍した。
1990年は、女優として4月に映画『香港パラダイス』に、10月に[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9]]ドラマ『[[すてきな片想い (テレビドラマ)|すてきな片想い]]』に出演し、7月には歌手としてシングル「ボクはパワー」で相原勇として歌手デビュー、また4月から10月まで[[文化放送]]のラジオ番組『相原勇のBEBOP YOU』に出演する他、CM出演や番組司会でも活躍した。

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曖昧さ回避 元AV女優の相原優については「北原多香子」をご覧ください。
あいはら ゆう
相原 勇
本名 小原 靖子
別名義 YASUKO
生年月日 (1967年04月01日) 1967年 4月1日(57歳)
出生地 日本の旗 日本広島県 広島市 安佐南区
身長 156 cm
血液型 A型
職業 女優歌手
活動期間 1986年 -
配偶者 あり
事務所 ボールド
主な作品
舞台
ピーター・パン
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相原 勇(あいはら ゆう、1967年〈昭和42年〉4月1日 - )は、日本タレント女優歌手。本名、小原 靖子(おばら やすこ)[1]

広島県 安佐郡 祇園町(現・広島市 安佐南区)出身[2] ボールド所属。

来歴・人物

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出生地は広島県高田郡 [3] 。幼稚園時代は父の仕事の関係で山口県に住む[3] 。幼稚園の年長の時に広島市安佐南区祇園町に移る[3] 広島市立祇園中学校鈴峯女子高等学校卒業[3]

中学生の時にミュージカル『ピーター・パン』で、榊原郁恵の演ずるピーターパンが観客の上を飛ぶのを観て感動し、「ピーター・パンを演じるために芸能界に入った」と語っている[4]

1984年、ピーター・パンを演じるためには芸能界に入る必要があると考え、高校生の時、第9回ホリプロタレントスカウトキャラバンに応募。中国・四国地区代表として応募総数12万人の中から決勝まで残る[注 1]

1985年4月、西村知美が優勝した「第1回ミス・モモコクラブ」で準優勝をし、芸能プロダクション原プランニングにスカウトされる。父親から「東京の大学に送ったと思って4年間は待ってやるから、4年経っても成功出来なかったらあきらめて帰って来い」と言われ[4] 、芸能界デビューのため上京。その後、おニャン子クラブのオーディションを受け、合格ももらっていたが、「専属のレコード会社、雑誌も全て決まっているから仕事の幅が狭くなってしまう」という事務所の判断でおニャン子クラブへの加入を辞退し、ソロデビューを選択することになった[4]

1986年4月、原プランニングから、本名の小原靖子名義で「ちょっとHENSHIN」(ワーナーパイオニア)という曲でアイドル歌手として念願の芸能界デビューを果たす。秋元康のプロデュースで、当時秋元が手掛けていたおニャン子クラブの「おっとCHIKAN!」に見せかけた企画モノで、相原自身「間違えて買ってくれる人がいないかなって」と思っていた。弱小事務所だったため、テレビ出演は少なかった。その後、当初デビュー曲予定だった、同じ秋元プロデュースで広島弁「ぶち」を題名に使い「じゃけぇ」や「たいぎぃ」などの広島弁を随所に散りばめた「恋はBUCHIBUCHI!」という曲を同年8月に出すも、事務所の倒産もあり、芸能界での活動は一時制限された[5]

1987年、小学館の雑誌『GORO』の激写篠山紀信撮影のヌードを披露。それが縁でGOROで一時期小さいコラムを持ったり、編集部の手伝いをしていた。

1989年2月、TBS平成名物TV』内の1コーナー「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称「イカ天」)の司会者に抜擢され[6] 、明るく元気な女の子といったキャラクターで大ブレイク。この年の4月が、前述のように父親に言われていた4年間のタイムリミットだった。「もし「イカ天」に抜擢されていなかったら、広島に帰っていた」と本人も語っている[7] 。そして、この番組のオーディションの時にも「『クラシックが好き』と話したのになぜか受かってしまった」と話している[8] 。この番組出演を機に芸名を相原 勇に変えての再スタートであった。なお、この芸名は「『相』には"私=I"と"愛"をいっぱい込めた意味、『勇』は男子にも女子にも通用する名前、"あなた=YOU"、自分に勇気を奮い立たせて励ますといった意味で、IとYOUを両方入れて"自分は一人じゃない"ということを込めた」由来であるといったことを語っている[4]

1990年は、女優として4月に映画『香港パラダイス』に、10月にフジテレビ 月9ドラマ『すてきな片想い』に出演し、7月には歌手としてシングル「ボクはパワー」で相原勇として歌手デビュー、また4月から10月まで文化放送のラジオ番組『相原勇のBEBOP YOU』に出演する他、CM出演や番組司会でも活躍した。

1992年8月3日〜27日の中日劇場『ピーター・パン』公演を白紙にとホリプロが劇場へ申し入れたが、交渉の末に沖本富美代沖本美智代を東京・大阪公演に、相原勇が名古屋公演で中日劇場のピンチヒッターで劇場スケジュールに穴があかずに済んだ[9]

1993年から1995年まで3年連続で、芸能界に入るきっかけとなったミュージカル『ピーター・パン』で主役のピーター・パンに抜擢され夢を叶えた[6] [注 2]

1996年5月、横綱として活躍していたと交際宣言。当時曙は外国人である為に嫌われ役に位置付けされる事が多く、外国人男性と付き合っている相原勇に対しても嫌悪感が持たれた。それを機に人気が急激に低迷し曙とも破局し芸能活動を休止してニューヨークに渡った[6]

1998年に芸名をYASUKOに改名し芸能活動を再開。その後、相原 勇に再改名。

2001年12月、英語と演劇を学んでいる時に出会ったアイルランド人の画商とアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに結婚。

2006年8月、ニューヨークで歌とダンスの稽古を積み、16年ぶりのアルバム『Thank You』(デビュー20周年記念アルバム)をリリースした。

2011年9月、前夫と離婚。

2013年3月、現在の夫と再婚していたことが2013年5月13日に明らかになった。所属芸能事務所によると、再婚相手はハワイに住む一般男性で、相原もハワイに居住しているという[10]

音楽

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シングル

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  1. ちょっとHENSHIN(1986年4月10日) - 小原靖子名義
    (c/w)嫌い
  2. 恋はBUCHIBUCHI!(1986年8月11日) - 小原靖子名義
    (c/w)ミラージュ ドリーム -蜃気楼の中へ-
  3. ボクはパワー(1990年7月21日) - ダイハツ工業ロッキー」CMソング
    (c/w)フジヤマ・ママ
  4. 約束するよ(1991年3月21日) - NHK総合テレビアニメ「おばけのホーリー」テーマソング
    (c/w)あ・そ・ぼ・ぜ
  5. 恋愛シネマシアター(1992年1月21日)
    (c/w)雨とファニー・フェイス

アルバム

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  • Hello, Good-Day!!(1990年11月)
  • Thank You(2006年8月)

その他

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出演

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テレビドラマ

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バラエティ

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映画

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ラジオ

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CM

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脚注

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注釈

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  1. ^ この時の優勝者は井森美幸であった。他に決勝に残った中に鈴木保奈美がいる。
  2. ^ 舞台『ピーター・パン』はホリプロ所属のタレントが演じるのが通例だが、ホリプロ以外のタレントが演じたのは現時点では相原だけである。
  3. ^ 1990年1月20日、1990年6月2日、1991年11月23日放送分

出典

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  1. ^ "公式プロフィール". ボールド. 2014年7月31日閲覧。
  2. ^ [1]MAKING SENSE
  3. ^ a b c d BOMB(学研)1985年8月号 p.188 - 191「ミスB.P.C 改め BOMB!少女倶楽部 8月のB少女 小原靖子」
  4. ^ a b c d 相原勇(インタビュアー:新田哲嗣)「やりたいことを貫くには夢が必要。それは自分の夢でもあり、社会の夢、世の中の夢でもあるんです」『注目企業.COM』、2012年6月http://www.companytank.jp/interviewer_eye/vol5/ 2014年7月31日閲覧 
  5. ^ 2006年9月28日付 東京スポーツ
  6. ^ a b c "世界の日本人妻は見た!|2015年07月14日(火)放送". TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2015年7月15日閲覧。
  7. ^ 「イカ天年鑑 平成元年編」(ワニブックス)2頁より。
  8. ^ FLASH(光文社)2019年5月7日・12日・21日号 100頁
  9. ^ 2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」
  10. ^ ハワイ在住「相原勇」再婚相手はゴルフで見つけた日本人 | Smart FLASH/スマフラ光文社週刊誌

外部リンク

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先代
沖本富美代沖本美智代
3代目ピーター・パン
(1993年〜1995年)
次代
宮本裕子
司会
歴代イカ天キング
☆はグランド
イカ天キング

初代:SLUT&SLASH BAND|2代目:GEN|3代目:☆FLYING KIDS|(仮:パニック・イン・ザ・ズゥ)|4代目:イエロー太陽s|5代目:RABBIT|6代目:JITTERIN'JINN|7代目:セメントミキサーズ|8代目:突撃ダンスホール|9代目:ダイヤモンズ|10代目:宮尾すすむと日本の社長|11代目:NORMA JEAN|12代目:☆BEGIN|(仮:カブキロックス)|13代目:サイバーニュウニュウ|14代目:☆たま|15代目:☆マルコシアス・バンプ|16代目:Stone Crazy|17代目:THE BOOTS|18代目:RAMBLE-FISH|19代目:☆LITTLE CREATURES|20代目:SOLID BOND|21代目:LANPA|22代目:悪名エレキショー|23代目:ジョリーロジャー|24代目:COLLAGE|25代目:☆BLANKEY JET CITY|(仮:P-MACHINE)|26代目:☆PANIC IN THE ZU:|27代目:GLU|28代目:EDITION DELUXE

イカ天キング
以外の主な
出身バンド
主な審査員
関連項目
1990年代
2000年代
2010年代
関連項目

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