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'''王 世充'''(おう せいじゅう)は、[[隋末唐初]]に割拠した群雄の一人。(削除) 隋朝の (削除ここまで)[[(削除) 恭帝侗 (削除ここまで)]]を(削除) 廃して (削除ここまで)鄭国を建てた。
'''王 世充'''(おう せいじゅう)は、[[隋末唐初]]に割拠した群雄の一人。[[(追記) 洛陽市|洛陽 (追記ここまで)]]を(追記) 本拠に (追記ここまで)鄭国を建てた。


隋朝の有力な部将であり、[[煬帝]]の時代に(削除) は (削除ここまで)反乱軍(削除) を撃破して (削除ここまで)活躍し(削除) 、 (削除ここまで)[[恭帝侗]]の時代には(削除) 反乱軍団を保有していた (削除ここまで)[[李密 (隋)|李密]]を(削除) 降伏させ (削除ここまで)た。[[619年]]に[[恭帝侗]]を廃して鄭の皇帝に即位する(削除) と、 (削除ここまで)[[(削除) 李淵 (削除ここまで)]](削除) 率いる (削除ここまで)[[唐]]の(削除) 軍事的圧力 (削除ここまで)を受けて夏国の[[竇建徳]]に救援を求め(削除) たが (削除ここまで)、竇建徳が(削除) 唐の[[太宗 (唐)| (削除ここまで)李世民(削除) ]](太宗) (削除ここまで)に敗れると(削除) 王世充も (削除ここまで)唐に降伏した。(削除) 李淵は王世充の一族を (削除ここまで)[[蜀郡|巴蜀]]の[[流刑]](削除) に処したが (削除ここまで)(削除) 道中で (削除ここまで)父親を王世充に殺されていた[[独孤修徳]]に殺害された。
隋朝の有力な部将であり、[[煬帝]]の時代に反乱軍(追記) の討伐で (追記ここまで)活躍し(追記) た。 (追記ここまで)[[恭帝侗]]の時代には(追記) 一大勢力の (追記ここまで)[[李密 (隋)|李密]]を(追記) 鎮圧し (追記ここまで)た。[[619年]]に[[恭帝侗]]を廃して鄭の皇帝に即位する(追記) 。 (追記ここまで)[[(追記) 唐 (追記ここまで)]](追記) の (追記ここまで)[[(追記) 太宗 ( (追記ここまで)(追記) )|李世民 (追記ここまで)]]の(追記) 攻撃 (追記ここまで)を受けて夏国の[[竇建徳]]に救援を求め、竇建徳が李世民に敗れると唐に降伏した。[[蜀郡|巴蜀]](追記) へ (追記ここまで)の[[流刑]](追記) の途上 (追記ここまで)、父親を王世充に殺されていた[[独孤修徳]]に殺害された。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
祖先は西域出身であり、父親の王収のもとの姓は支であったが、祖母の再婚により王に改姓している。(削除) 幼少の頃より (削除ここまで)経史や兵法を好み、[[開皇]]年間に軍功により[[兵部]][[員外郎]]に取り立てられた。[[大業]]年間に[[揚州市|江都]][[宮監]]に任命され(削除) [[煬帝]]の信任を受け、[[楊玄感]]の反乱及び[[山東省|山東]]一帯の農民反乱を平定したことで頭角を現し (削除ここまで)(削除) 河南地 (削除ここまで)方の(削除) 一大勢力となった。大業11年([[615年]])に突厥が煬帝 (削除ここまで)(削除) 雁門で包囲した時、王世充は江都から徴発でき (削除ここまで)(削除) 人全てを率いて雁門まで行って煬帝を救出しようとした。軍中では髪を結わず、顔も洗わず泣き悲しむこと際限 (削除ここまで)(削除) く、日夜甲冑姿で草の上に寝起き (削除ここまで)して(削除) いた。 (削除ここまで)煬帝(削除) はこ (削除ここまで)(削除) ことを聞くと王世充が自分のことを親愛しているのだと思い、ますます王世充を (削除ここまで)信任(削除) し (削除ここまで)た。
祖先は西域出身であり、父親の王収のもとの姓は支であったが、祖母の再婚により王に改姓している。(追記) 王世充は (追記ここまで)経史や兵法を好み、(追記) 法律や占術に通じ、能弁であった。 (追記ここまで)[[開皇]]年間に軍功により[[兵部]][[員外郎]]に取り立てられた。[[大業]]年間に(追記) は (追記ここまで)[[揚州市|江都]][[宮監]]に任命され、(追記) 遠 (追記ここまで)方の(追記) 珍品 (追記ここまで)(追記) 献上す (追記ここまで)るな(追記) ど (追記ここまで)して煬帝の信任(追記) を得 (追記ここまで)た。


[[楊玄感]]の乱に応じて挙兵した朱燮、管崇を江南で打ち破り、その後も斉郡の孟讓や、厭次の格謙、盧明月ら各地の大小の勢力を次々と撃破した。勝つたびに功績を部下のものとし、戦利品を士卒に分け与えたため、王世充の配下は彼のために進んで働いた。
[[大業]]14年([[618年]])、煬帝が[[宇文化及]]に殺害されると[[元文都]]・[[皇甫無逸]](削除) などと共に[[洛陽]]で (削除ここまで)越王[[恭帝侗|楊侗]]を皇帝に擁立し、王世充は[[吏部]][[尚書]](削除) 、 (削除ここまで)鄭国公となった。(削除) 実質的に秦を支配していた王世充 (削除ここまで)(削除) [[ (削除ここまで)李密(削除) (隋)|李密]] (削除ここまで)(削除) 降伏 (削除ここまで)させ(削除) 、また[[楊浩]]を皇帝に擁立した (削除ここまで)宇文化及(削除) の軍 (削除ここまで)(削除) 破ると (削除ここまで)、元文都を殺害し朝政を専断(削除) 、[[九錫]]を恭帝楊侗 (削除ここまで)(削除) 迫 (削除ここまで)った。


大業11年([[615年]])に突厥が煬帝を雁門で包囲した時、王世充は江都から徴発できる人全てを率いて雁門まで行って煬帝を救出しようとした。軍中では髪を結わず、顔も洗わず泣き悲しむこと際限なく、日夜甲冑姿で草の上に寝起きしていた。煬帝はこのことを聞くと王世充が自分のことを親愛しているのだと思い、ますます王世充を信任した。
[[619年]]、ついに恭帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号を'''鄭'''とし、元号として[[開明 (王世充)|開明]]を建て、現在の[[河南省]]北部を支配した。しかしその統治は過酷なものであり、多くの民衆が逃亡し、また少なくない将軍たちも[[李淵]]の[[唐]]に帰順した。


煬帝は王世充を洛陽に派遣し、洛口倉を占領した李密を討伐させたが100戦しても決着しなかった。煬帝は王世充を将軍に任じて改めて鎮圧を促し、王世充は洛口倉への襲撃を決行したものの大敗を喫し、それ以降戦わなかった。
開明2年([[620年]])7月(削除) 、 (削除ここまで)[[太宗 (唐)|李世民]]が(削除) 中原に向かい進軍すると、王世充は夏政権 (削除ここまで)(削除) 樹立 (削除ここまで)(削除) 自立してい (削除ここまで)た[[竇建徳]]に救援を依頼した(削除) 。しかし (削除ここまで)竇建徳が[[虎牢の戦い]]で李世民に(削除) 敗 (削除ここまで)れると、王世充は唐に降伏した。(削除) 接見した李淵は王世充を (削除ここまで)平民と(削除) し (削除ここまで)、一族(削除) を (削除ここまで)巴蜀(削除) に (削除ここまで)流刑に(削除) し (削除ここまで)た。その(削除) 移動 (削除ここまで)(削除) 中の (削除ここまで)[[雍州]]の廨舎で(削除) 、 (削除ここまで)仇家である[[定州]]刺史[[独孤修徳]]により殺害された。

[[大業]]14年([[618年]])、煬帝が[[宇文化及]]に殺害されると(追記) 、洛陽では (追記ここまで)[[元文都]]・[[皇甫無逸]](追記) らが (追記ここまで)越王[[恭帝侗|楊侗]]を皇帝に擁立し、王世充は[[吏部]][[尚書]](追記) ・ (追記ここまで)鄭国公となった。(追記) 元文都ら (追記ここまで)は李密を(追記) 帰順 (追記ここまで)させ(追記) て (追記ここまで)宇文化及を(追記) 討たせたが (追記ここまで)(追記) 王世充は李密の帰順に反発して (追記ここまで)元文都(追記) ら (追記ここまで)を殺害し(追記) 、 (追記ここまで)朝政を専断(追記) する (追記ここまで)(追記) 至 (追記ここまで)った(追記) 。ほどなく李密の鎮圧に成功して大尉となり、やがて相国に昇進する (追記ここまで)

[[619年]]、恭帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号を'''鄭'''とし、元号を[[開明 (王世充)|開明]]に改め、現在の[[河南省]]北部を支配した。[[裴仁基]]・[[宇文儒童]]らが王世充を暗殺して楊侗を再び皇帝に立てようとしたが、露見して王世充により殺された。同様の陰謀を防ぎ後顧の憂いを断つため楊侗を毒殺した。

(追記) 王世充の統治は過酷なものであり、 (追記ここまで)開明2年([[620年]])7月(追記) に唐の (追記ここまで)[[太宗 (唐)|李世民]]が(追記) 洛陽 (追記ここまで)(追記) 包囲 (追記ここまで)した(追記) 際には多くの者が唐に降った。夏国の (追記ここまで)[[竇建徳]]に救援を依頼した(追記) が、 (追記ここまで)竇建徳が[[虎牢の戦い]]で李世民に(追記) 捕らわ (追記ここまで)れると、王世充は唐に降伏した。平民(追記) に落 (追記ここまで)(追記) され (追記ここまで)、一族(追記) とともに (追記ここまで)巴蜀(追記) への (追記ここまで)流刑に(追記) 処せられ (追記ここまで)た。その途(追記) 上、 (追記ここまで)[[雍州]]の廨舎で仇家である[[定州]]刺史[[独孤修徳]]により殺害された。


== 宗室 ==
== 宗室 ==

2024年8月11日 (日) 02:47時点における最新版

王世充
皇帝
王朝
在位期間 619年 - 621年
都城 洛陽
姓・諱 王世充
行満
生年 不詳
没年 武徳3年(621年)
王收
年号 開明 : 619年 - 621年

王 世充(おう せいじゅう)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。洛陽を本拠に鄭国を建てた。

隋朝の有力な部将であり、煬帝の時代に反乱軍の討伐で活躍した。恭帝侗の時代には一大勢力の李密を鎮圧した。619年恭帝侗を廃して鄭の皇帝に即位する。李世民の攻撃を受けて夏国の竇建徳に救援を求め、竇建徳が李世民に敗れると唐に降伏した。巴蜀への流刑の途上、父親を王世充に殺されていた独孤修徳に殺害された。

生涯

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祖先は西域出身であり、父親の王収のもとの姓は支であったが、祖母の再婚により王に改姓している。王世充は経史や兵法を好み、法律や占術に通じ、能弁であった。開皇年間に軍功により兵部 員外郎に取り立てられた。大業年間には江都 宮監に任命され、遠方の珍品を献上するなどして煬帝の信任を得た。

楊玄感の乱に応じて挙兵した朱燮、管崇を江南で打ち破り、その後も斉郡の孟讓や、厭次の格謙、盧明月ら各地の大小の勢力を次々と撃破した。勝つたびに功績を部下のものとし、戦利品を士卒に分け与えたため、王世充の配下は彼のために進んで働いた。

大業11年(615年)に突厥が煬帝を雁門で包囲した時、王世充は江都から徴発できる人全てを率いて雁門まで行って煬帝を救出しようとした。軍中では髪を結わず、顔も洗わず泣き悲しむこと際限なく、日夜甲冑姿で草の上に寝起きしていた。煬帝はこのことを聞くと王世充が自分のことを親愛しているのだと思い、ますます王世充を信任した。

煬帝は王世充を洛陽に派遣し、洛口倉を占領した李密を討伐させたが100戦しても決着しなかった。煬帝は王世充を将軍に任じて改めて鎮圧を促し、王世充は洛口倉への襲撃を決行したものの大敗を喫し、それ以降戦わなかった。

大業14年(618年)、煬帝が宇文化及に殺害されると、洛陽では元文都皇甫無逸らが越王楊侗を皇帝に擁立し、王世充は吏部 尚書・鄭国公となった。元文都らは李密を帰順させて宇文化及を討たせたが、王世充は李密の帰順に反発して元文都らを殺害し、朝政を専断するに至った。ほどなく李密の鎮圧に成功して大尉となり、やがて相国に昇進する。

619年、恭帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号をとし、元号を開明に改め、現在の河南省北部を支配した。裴仁基宇文儒童らが王世充を暗殺して楊侗を再び皇帝に立てようとしたが、露見して王世充により殺された。同様の陰謀を防ぎ後顧の憂いを断つため楊侗を毒殺した。

王世充の統治は過酷なものであり、開明2年(620年)7月に唐の李世民が洛陽を包囲した際には多くの者が唐に降った。夏国の竇建徳に救援を依頼したが、竇建徳が虎牢の戦いで李世民に捕らわれると、王世充は唐に降伏した。平民に落とされ、一族とともに巴蜀への流刑に処せられた。その途上、雍州の廨舎で仇家である定州刺史独孤修徳により殺害された。

宗室

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  • 王収(支収) - 隋の汴州長史

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  • 王玄応 - 鄭国の皇太子。唐に処刑された。
  • 王玄恕 - 鄭国の王。唐に処刑された。
  • 王玄瓊

関連項目

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伝記資料

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