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[[薛道衡]]が隋の文帝[[楊堅]]に推薦したが、[[斛律光]]の謀殺を首謀した祖珽の子であるとして採用しなかった。[[煬帝]]の治世になると、名士を忌み嫌った煬帝によって[[洛陽市|洛陽]]の書佐から検校[[東平郡|宿城県]]令に移動となり、世間からは祖宿城と呼ばれた。己の才を自負し、その不遇さから常に鬱々としていた。
[[薛道衡]]が隋の文帝[[楊堅]]に推薦したが、[[斛律光]]の謀殺を首謀した祖珽の子であるとして採用しなかった。[[煬帝]]の治世になると、名士を忌み嫌った煬帝によって[[洛陽市|洛陽]]の書佐から検校[[東平郡|宿城県]]令に移動となり、世間からは祖宿城と呼ばれた。己の才を自負し、その不遇さから常に鬱々としていた。


[[東平郡]]が群雄の[[翟譲]]によって陥れられると、その配下である[[李密 (隋)|李密]]は祖君彦の名を慕って上客として迎え入れ、礼遇した。李密が政権を立てると記室となり、軍書や檄文作成を(削除) 一手に (削除ここまで)担い、煬帝の十の罪をならべて糾弾した檄文『為李密檄洛州文』などを作った。
[[東平郡]]が群雄の[[翟譲]]によって陥れられると、その配下である[[李密 (隋)|李密]]は祖君彦の名を慕って上客として迎え入れ、礼遇した。李密が政権を立てると記室となり、軍書や檄文作成を担い、煬帝の十の罪をならべて糾弾した檄文『為李密檄洛州文』などを作った。


[[王世充]]との戦いにおいて[[偃師区|偃師]]が陥落した際に捕虜となった。王世充が「お前は賊のために国を罵ったが、まだ罵り足らぬか」と詰ると、「[[盗跖]]の門客となれば[[許由]]であっても害することができる(主人のためなら高潔な人物を殺すことさえ厭わない)ものだが、そこまで至らなかったことをただ恥じるのみだ」と悪態をついた。王世充によって打ち据えられ、ついには「筆を弄して余罪を生ずる」という理由で殺害され、遺体は見せしめとして偃師にさらされた。
[[王世充]]との戦いにおいて[[偃師区|偃師]]が陥落した際に捕虜となった。王世充が「お前は賊のために国を罵ったが、まだ罵り足らぬか」と詰ると、「[[盗跖]]の門客となれば[[許由]]であっても害することができる(主人のためなら高潔な人物を殺すことさえ厭わない)ものだが、そこまで至らなかったことをただ恥じるのみだ」と悪態をついた。王世充によって打ち据えられ、ついには「筆を弄して余罪を生ずる」という理由で殺害され、遺体は見せしめとして偃師にさらされた。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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== 参考文献 ==
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*『[[新唐書]]』巻84 列伝第9
*『[[新唐書]]』巻84 列伝第9
*『[[資治通鑑]]』巻183 - 186
*『[[資治通鑑]]』巻183 - 186

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[[Category:隋代の人物]]

2024年6月22日 (土) 06:11時点における版

祖 君彦(そ くんげん、生年不詳 - 618年頃)は、中国の官吏、文人本貫范陽郡 遒県(現在の河北省 保定市 淶水県)。

生涯

范陽祖氏の出身で、父は北斉僕射を務めた祖珽

博学で記憶力がよく、文才があり、広く名を知られていた。体格は小柄であった。

薛道衡が隋の文帝楊堅に推薦したが、斛律光の謀殺を首謀した祖珽の子であるとして採用しなかった。煬帝の治世になると、名士を忌み嫌った煬帝によって洛陽の書佐から検校宿城県令に移動となり、世間からは祖宿城と呼ばれた。己の才を自負し、その不遇さから常に鬱々としていた。

東平郡が群雄の翟譲によって陥れられると、その配下である李密は祖君彦の名を慕って上客として迎え入れ、礼遇した。李密が政権を立てると記室となり、軍書や檄文作成を担い、煬帝の十の罪をならべて糾弾した檄文『為李密檄洛州文』などを作った。

王世充との戦いにおいて偃師が陥落した際に捕虜となった。王世充が「お前は賊のために国を罵ったが、まだ罵り足らぬか」と詰ると、「盗跖の門客となれば許由であっても害することができる(主人のためなら高潔な人物を殺すことさえ厭わない)ものだが、そこまで至らなかったことをただ恥じるのみだ」と悪態をついた。王世充によって打ち据えられ、ついには「筆を弄して余罪を生ずる」という理由で殺害され、遺体は見せしめとして偃師にさらされた。

関連項目

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参考文献

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