「モンゴルのジャワ侵攻」の版間の差分
2024年5月24日 (金) 05:22時点における版
モンゴルのジャワ侵攻 | |||||||
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モンゴル帝国の征服戦争中 | |||||||
大元ウルスの艦隊(Sir Henry Yule/1871) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ダハ陥落前 | ダハ陥落前 | ||||||
ダハ陥落後 | ダハ陥落後 | ||||||
指揮官 | |||||||
戦力 | |||||||
20,000名 1,000艘 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
最終的な死者数は3,000を越える | ジャヤカトワン王の軍団は溺死者が数万人、殺された者は5000人余り |
モンゴルのジャワ侵攻(モンゴルのジャワしんこう)では、1293年にジャワ島に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。
モンゴル帝国(大元ウルス)第6代皇帝クビライが派遣した使者がシンガサリ王 クルタナガラによって入墨をされて返されるという事件を切掛けとして始まったジャワ遠征であるが、モンゴル軍がジャワ島に到着するまでにクルタナガラ王はクディリのジャヤカトワン王によって弑逆されてしまっていた。モンゴル軍はクルタナガラ王の女婿であったウィジャヤに誘導されてジャヤカトワン王を討ったものの、その後ウィジャヤの裏切りにあってジャワ島からの敗退を余儀なくされた。
モンゴル軍にとっては全くの失敗に終わった遠征であったが、一方でモンゴル軍を上手く利用したウィジャヤはマジャパヒト王国を築き、マジャパヒト王国は東南アジア島嶼部の大部分を支配する大国に成長するに至った。また、遠征の失敗にもかかわらず、ジャワ遠征以後中国大陸とジャワ島の貿易交流は増大しており、東南アジア島嶼部にとっては歴史の大きな転換点となる事件であったといえる[2] 。
背景
中国大陸では古くより東南アジア諸国との交易があったが、宋代に入って「文献史上確認される最初の中国人海商」と呼ばれる毛旭が登場するなど、海洋交易が飛躍的に増大した。「ジャワ(闍婆)」という名称が始めて史書に現れるのも宋代に入ってからであった[3] 。この頃海洋交易が盛んになった理由は華南地域の経済的繁栄、アラブ商人の進出、航海技術の発達など様々挙げられるが、南宋を滅ぼしたモンゴル帝国(大元ウルス)の積極的拡張政策もこの傾向を後押した。モンゴル帝国は元来内陸国であり海洋交易とも縁が薄かったが、内戦を制して第6代皇帝となったクビライは早い段階から海洋進出を意識していた。強力な水軍を有する南宋を攻略するに当たってクビライは時間をかけて水軍を養成し、年代に南宋が滅亡するとこの水軍は日本遠征も含め海外進出に用いられるようになった。
南宋が滅亡して間もなくの至元15年(1278年)8月にはソゲドゥ(唆都)・蒲寿庚らに「諸蕃国で東南島嶼に列居する者」の招論が命じられ[4] [5] 、至元16年(1279年)6月には早くもチャンパ(占城)・マーバル(馬八児)国より派遣された使者が訪れた[6] 。同年末には改めて「海内諸番国主」への使者派遣が行われた[7] [8] 。大元ウルスの活発な海洋進出により、至元23年(1286年)9月には馬八児(Mabar)・須門那(Sumnath)・僧急里(Cranganore)・南無力(Lambri)・馬蘭丹(?)・那旺(Nakur)・丁呵児(Tringanu)・来来(Lala/グジャラート地方)・急闌亦帯(Kelantan)・蘇木都剌(Sumudra)など10カ国が大元ウルスに使者を派遣するに至った[9] [10] 。
一方、 ジャワ島では11世紀よりシンガサリ王国がジャワ島を統一し栄えており[11] 、 第6代国王のクルタナガラ王はスマトラ島やバリ島に派兵し、積極的な対外拡張政策によって広大な勢力圏を築いていた[12] [13] 。『デーシャワルナナ』は「庇護を求めて(クルタナガラ)王の足もとに参上する」国々としてスンダ(ジャワ島西部)・マドゥラ島・パハン(マレー半島)・マラユ(スマトラ島)・グルン(ゴロン島/バンダ海周辺の群島の総称)、バクラプラ(タンジュンプラの別名/カリマンタン島南部)を列挙している[14] 。また、チャンパ国の史料には13世紀末の君主ジャヤ・シンハヴァルマン3世がジャワ人のタパシーを娶ったと記録されているが、これは大元ウルスの南海進出に対抗して結ばれた姻戚関係ではないかとする説もある[14] 。
クビライは至元17年(1280年)10月にジャワ国に使者を派遣することを決め[15] 、同年11月にジャワに対して詔が下された[16] 。さらに至元18年(1281年)11月、ジャワ国主自ら来観するよう詔が下され[17] 、この時派遣された宣慰の孟慶元・万戸の孫勝夫らは至元19年(1282年)7月に帰還した[18] 。後にクビライは「初めジャワと使を通じ、往来し好を交えた」と述べていることからこの時点では友好的に使者の往来が行われていたようだが、ジャワ側からの使者派遣については記録に残っていない[19] 。
大元ウルスを揺るがしたナヤンの乱が勃発した至元24年(1287年)以後、クビライは東南アジア諸国に対する姿勢を経済・通商を基盤とする平和友好路線に改め、同年中にはシンハラ国を始め24カ国が大元ウルスに使者を派遣した[20] 。至元26年(1289年)、ジャワ島のシンガサリ王国に対しても同様に孟右丞[21] なる人物が使者として派遣されたが、モンゴルへの臣属を拒んだクルタナガラ王によって顔に入墨を入れて送り返されてしまった[22] [23] 。これに激怒したクビライはジャワ遠征を決意し、同年中には史弼に対してジャワ遠征の意図を明らかにし史弼もジャワ遠征司令官の地位を受諾することを受け容れている[24] [25] 。以上の経緯を踏まえ、丹羽友三郎はジャワ遠征の起こった原因として、モンゴル帝国(大元ウルス)とシンガサリ王国双方が積極的拡張政策を取っており、双方の君主も好戦的な人物であったことを挙げている[26] 。なお、『元史』ジャワ伝は「その帥を海外諸番に出すもの、ただジャワの役を大となす」と記しており[27] 、クビライが行った海外遠征の中でもジャワ遠征が特記すべき重要なものであったと認識されていたようである[28] 。
モンゴル軍の構成
モンゴルのジャワ遠征軍は、従来のモンゴル軍のように皇族や建国の功臣の一族から司令官を立てることをせず、漢人の史弼を総司令として、ウイグル人のイグミシュと南人の高興の二人の副司令が補佐する形を取った[29] 。史弼・イグミシュ・高興がジャワ遠征軍の中核であったことは各史書で特筆されており、『元史』ジャワ伝は史弼・亦黒迷失・高興を司令官とし、福建・江西・湖広三行省から集めた兵2万、左右軍都元帥府2・征行上万戸4、舟1千艘、給糧1年分・鈔4万錠、虎符10・金符40・銀符100・金衣段100端がジャワ遠征のため準備されたと伝えている[30] [31] 。
史弼はモンゴルの最初の金朝遠征時に降った華北の漢人の出で、主に南宋征服戦で多くの武功を挙げている[32] 。南宋の平定後は日本遠征計画によって疲弊する浙江地方で米価の高騰を抑えるなどよく民心を保ち、武略のみならず民政の手腕も見込まれてジャワ遠征軍の総司令に抜擢されたようである[33] 。一方、ウイグル人のイグミシュはジャワ遠征以前に4度に渡ってインド亜大陸を海路訪れたことのある異色の経歴の持ち主で、海上での指揮及び戦後の交易路開拓のための抜擢であったとみられる[34] 。高興は南宋滅亡直前の1275年(至元12年)からモンゴルに仕え始めたいわば遅参の臣であるが、平定直後の旧南宋領で頻発した叛乱の多くを平定しており、臨機応変な実戦部隊の長として選ばれたようである[35] 。
史弼・イグミシュ・高興の下には、世祖本紀によると都元帥4名、副都元帥2名、上万戸府ダルガチ4名、万戸4名、副万戸8名、鎮撫4名が任命されていた[36] 。左右二つずつで4つ設けられた都元帥府には、都元帥としてはノカイ(那海)と鄭鎮国、副都元帥としては土虎登哥(Tuhudelngge)の名前が記録されている[31] 。また、万戸(トゥメン/万人隊長)としては張タラチ(張塔剌赤)・甯居仁・トゴン(脱歓)・褚懐遠・王天祥・李明・申元・ナジムッディーン(捏只不丁)の名前が記録されているが、この内半数の4名は「万戸府ダルガチ」であった[31] 。
大元ウルスが動員した遠征軍の規模について、兵数については「二万」と「五千」、艦船数については「千艘」と「五百艘」と、それぞれ二通りの記録が残っている[37] 。この内、「二万」という兵数は遠征計画が始まった時点での予定兵数であり、「五千」というのは泉州出発時の兵数であると考えられる[38] 。同じく、艦船数についても「千艘」が計画開始時点での予定数で、「五百艘」というのが実際に動員された数であるとみられる[39] 。遠征計画開始時より遠征軍の規模が4分の1近くに縮小されたのは、ジャワ島における政変がクビライの下にまで届き当初よりもジャワ島征服が容易であると判断されたためとする説がある[40] 。
侵攻
モンゴル軍のジャワ島への航海
クビライはジャワ遠征の布石としてまず至元29年(1292年)正月から私的な海外貿易を禁止し[41] 、更に同年6月から12月までの半年間両浙・広東・福建など沿岸部の航海一切を禁じた[42] [43] 。また同年2月にはジャワ遠征のため福建行省が再設置され[44] 、ジャワ遠征軍を率いる史弼・イグミシュ・高興ら三将軍はそれぞれ平章に任じられた[45] [46] 。
7月1日、クビライに謁した三将軍はジャワ征服を正式に命じられ[47] 、また8月19日には遠征直前最後の打ち合わせとして1.ジャワ遠征の目的は使者に面したことへの懲罰であること、2.史弼を遠征軍の総司令とすること、3.イグミシュに海道の事を委ねること、4.軍がジャワに到達したら使を遣わして連絡を密にすること、5.三将軍はジャワに留まって周辺諸国に使を派遣し招論を行うことなどが再度確認された[48] 。9月に慶元に集結した元軍は二手に分かれて進み、史弼とイグミシュは遠征軍本隊を率いて進み、高興は輜重を率いて海路よりそれぞれ泉州に向かった[49] 。泉州に集った遠征軍は当時の航海の通例に従って季節風を待ち、12月14日に泉州を出航した[50] [51] 。
泉州を出航したジャワ遠征軍は外洋の荒波に苦しみつつ七洲洋(現パラセル諸島)、万里石塘(現マックルズフィールド堆)を過ぎると、一度インドシナ半島の大越国とチャンパ国の境界に上陸した[52] 。この時、イグミシュは郝成・劉淵らを南巫里(Lamuri/現アチン)国、速木都剌(Sumudra/スマトラ)国、不魯不都(Borobudur?)国、八剌剌(Perlak/現スマトラ島西部Perak)南シナ海沿岸諸国に派遣し、これらの諸国は子弟を遣わして来降の意を示したという[53] [54] 。
至元30年(1293年)に入り、遠征軍は東董山(ナトゥナ諸島)・西董山(アナンバス諸島)・牛崎嶼(南ナトゥナ諸島)を経て南シナ海南部に入った[55] 。遠征軍はまず橄欖嶼(タンベラン諸島)・假里馬答(カリマンタン島)・勾闌(ゲラム島)等山に到着し、この地で小舟を建造しつつ軍議を行った[56] [57] 。1月18日にはゲラム島で軍議が行われ[58] 、イグミシュと孫参政はクチュカヤ・楊梓・全忠祖、万戸の張タラチら500の兵を率いて2月6日に先遣隊としてジャワを招論し[59] 、その7日後(2月13日)に史弼ら主力軍は吉利門(カリムンジャワ諸島 (英語版))に向けて進軍することが決められた[60] [61] 。
史弼らの軍団は遂にジャワ島のトゥバン (英語版)港に2月13日に到着し、軍議を開いて軍団を陸軍・水軍に分けて並進することを決めた[62] [63] [64] 。史弼自身は参政都元帥のノカイ・万戸の甯居仁らとともに水軍を率いて牙路港口(Janggala/現スラバヤ地方)を経て進み、イグミシュと高興も都元帥の鄭鎮国・万戸のトゴンらを率いて歩兵・騎兵部隊を率いてこれに続いた[65] 。更に万戸の申元を前鋒とし、副元帥の土虎登哥・万戸の褚懐遠・李忠らを切り込み船(鑽鋒船)[66] に乗り込ませてジャンガラから進軍し、3月1日にモンゴル軍は八節澗(Pachekan/パチェカン)に集結した[67] [68] 。パチェカンはトゥマペル(シンガサリ首都)とボルネオ東南のジャワ海をつなぐ地にある軍事上の要衝で、『元史』ジャワ伝は「すなわちジャワの喉元にして必争の地である(乃爪哇咽喉必争之地)」と表現している[69] 。モンゴル軍はこの一帯に監視所を作り王天祥を守りとして残し、土虎登哥・李忠らが水軍を率い、 かららが馬歩軍を率いて水陸並進した[70] 。一方、ジャヤカトワンの派遣した「謀臣の希寧官」なる人物は水軍を率い河沿いにモンゴル軍の動向を監視していたが、モンゴル軍の威容を恐れて船を捨てて逃れてしまった[71] 。パチェカンからモンゴル軍がまさに進発しようとした時、ウィジャヤなる人物から思わぬ申し出がモンゴル軍の陣営に届けられた[72] [73] 。
モンゴル軍とマジャパヒトの連合
先述したようにクルタナガラ王の無礼な態度に対する懲罰を名目として始められたジャワ出兵であったが、モンゴル軍が準備を整えてジャワ島に至るまでの間に、ジャワ島情勢は一変してしまっていた[74] [75] 。モンゴル軍がジャワ島に向けて航海に出たのとほぼ同時期、シンガサリ王国以前に東部ジャワを支配していたクディリ王家の末裔とされるジャヤカトワン王が挙兵し、クルタナガラ王はこれを討伐するために娘婿のウィジャヤとアルダラージャを北方に派遣した[76] 。ところが、ジャヤカトワン王は密かに別動隊をシンガサリの南方に向かわせており[77] 、この別動隊によって王府トゥマペルは陥落しクルタナガラ王はブッダの住居で死亡した[78] [79] [80] 。
一方、ウィジャヤとアルダラージャはトゥマペルを出発した後、クドウン=プルットの村、ルムバ、バタン、カブルカナンと進んでジャヤカトワン軍を破り、ラプット=チャラトに到着した[81] 。ここでウィジャヤらは西から進軍してきた敵軍を一度撃退したが、敵軍の旗がハニルの東に現れると動揺したアルダラージャ軍がカブルカナンに向かって退却し、残されたヴィジジャヤは敗れてしまった[82] [83] 。北方に逃れたウィジャヤはバムワタンに到着し、川の北で野営したが、配下の兵士の数は600人にまで減っていた[83] 。更にウィジャヤはジャヤカトワン軍の追撃を受けつつ北方に逃れ、最後に河を渡った時、ウィジャヤの部下は僅か12人にまで減っていたという[83] 。
カウィ語(古ジャワ語)年代記の『パララトン』によると、ウィジャヤはパンダカン(Pandakan)近くの森で「アルヤのウィラーラージャ(Aryya wīrarāja)の下へ逃れることが父の名において偉大になれる最善の道である」という助言を受け、ウィラーラージャの支配するマドゥラ島への逃亡を決意したという[84] [85] [81] 。その後、ウィジャヤはジャヤカトワン王に使者を派遣して許しを請い、ジャワ島に帰還してトリクの荒野に移住した。その際、現地に生えていたマジャの実が苦かった(バヒト)ことからこの地を「マジャパヒト」と名付け、以後ウィジャヤの勢力は「マジャパヒト(王国)」と呼ばれるようになったという[86] 。かくしてジャワ島内部に拠点を築いたウィジャヤは、モンゴル軍がジャワ島に到着したことを知ってこれをジャヤカトワン王を討つために利用することを思いついた[87] 。そこで、恐らく3月1日から6日の間にウィジャの派遣した使者がパチェカンに駐留していたモンゴル軍の下に辿り着き、共にジャヤカトワン王を討つことを申し出た[88] 。
モンゴル軍とウィジャヤの連合が、ウィジャヤの側の申し出によって始まったことは『元史』・『パララトン』双方において明記されている[89] 。なお、『パララトン』ではクルタナガラ王によってマドゥラに左遷されていたウィラーラージャがウィジャヤとモンゴル軍の連合の成立に大きな役割を果たし、ウィジャヤはジャワ統一後ウィラーラージャにジャワ島を2分してその半分の統治権を差し出す約束をしたと記されているが、これは史実とは考え難いとされている[90] 。
ダハ攻防戦
3月初旬、ウィジャヤの援軍要請を受け入れたモンゴル軍は鄭鎮国を派遣し、鄭鎮国はパチェカンとマジャパヒト中間の地のチャング(Canggu)[91] でウィジャヤを助けた[70] 。高興はマジャパヒトまで進んだもののジャヤカトワン軍を見つけられないまま、一度パチェカンに戻った[92] 。しかし、イグミシュは今夜ジャヤカトワン軍が来襲するだろうとして再び高興をマジャバヒトまで派遣した[93] [92] 。7日、ジャヤカトワンは3路からウィジャヤを攻めたため、イグミシュは李明とともに西南方面に進んだが敵軍と遭遇せず、一方で高興とトゴンは東南で接戦の末敵軍を破って数百人を殺した[70] 。日中に至って西南路から再び敵軍が現れたが、高興は夕刻に至ってこれを破った[94] 。こうして、緒戦となるマジャパヒト攻防戦はモンゴル・マジャパヒト連合軍の勝利に終わった[92] 。
3月15日、『元史』ジャワ伝によるとモンゴル・マジャパヒト連合軍は「三道」に分かれ、土虎登哥らは水路(=ブンガワン川)[88] を遡り、史弼とイグミシュ率いるモンゴル軍本隊は西道に、高興率いる別動隊とマジャパヒト軍は東道に進んだという[65] [95] 。この時モンゴル・マジャパヒト連合軍が進んだ「三道」とは、かつてジャヤカトワン軍がシンガサリ奇襲陥落させたカウイ山南麓をダハからトゥマペルに向かう道を逆走する「東道」 、ブンガワン川沿いに進む「水路」と「西道」を指すものとみられる[96] 。
三道に分かれて進んだモンゴル・マジャパヒト連合軍は19日にダハに至り、ジャヤカトワン王は10万余りの兵でこれを迎え撃った。『パララトン』によると、「東道」から進軍してきた高興・ウィジャヤの連合軍に対して、ダハ側はクボ=ムンダラン(Kebo-mundarang)とその部下パンルット(Panglet)及びクボ=ルブ(Kebo-Rubuh)が迎え撃ったという[96] 。クボ=ムンダランの出自については諸説あるが、仲田浩三は『元史』ジャワ伝で高興と戦ったと記される「ジャヤカトワンの子の昔剌八的昔剌丹不合」に相当するのではないかと考証している[97] 。パンルットとクボ=ルブはそれぞれウィジャヤの腹心の部下ソラ(Sora)とナムビ(Nambi)に殺され[98] 、クボ=ムンダランは敗れてトウリニ=パンティ(Trinipanti)の谷へ逃れたが高興がこれを追撃し捕虜とした[99] 。
一方、西北から進軍してきたモンゴル軍本隊はダハの北方でジャヤカトワン王率いる軍団を撃破し、国王軍は敗れて溺死した者は数万人、殺された者は5000人余りであった[100] 。国王は内城に入って籠城したが、同日夕刻には妻子や部下を伴って投降した[101] [102] [103] 。『元史』ジャワ伝には「夜明(午前6時頃)から昼過ぎまで三度戦った[104] 」と記されているが、この「三度の戦闘」は1.東道の「トウリニ=パンティの谷の戦い」、2.水路軍のブランタス川の戦い、3.西道のダハ城北方での戦いをそれぞれ指すものとみられる[105] 。なお、このダハ攻防戦で「砲声」が響いたとされるが、これは日本遠征で用いられた「てつはう」と同種の火薬兵器ではないかとされる[106] 。
ウィジャヤの背反とモンゴル軍の撤退
ダハの陥落後、4月2日にウィジャヤは大元ウルスに入朝して自らの所蔵する珍宝を献上するために本拠に戻りたいと申し出、史弼とイグミシュはこれを許可して万戸のナジムッディーン・甘州不花ら率いる200の兵を護送のため派遣した[107] 。一方、史弼らと別行動をとっていた高興が帰還して事の経緯を知ると、ウィジャヤに自由行動をとらせたことを「失計」であるとして史弼らを痛烈に批判したという[108] [109] 。本拠に帰還したウィジャヤは果たして4月19日にナジムッディーン・甘州不花らを殺害してモンゴル軍を裏切り[110] 、これを知ったモンゴル軍は急ぎ捕虜としていたジャヤカトワンとその息子たちを斬った[111] 。
ウィジャヤの裏切りの経緯について、ジャワ側の史料である『パララトン』には『元史』に見られない独自の逸話を記している[112] 。すなわち、ウィジャヤはシンガサリから奪われていたクルタナガラ王の王女二人を奪還して(姉の方はシンガサリが陥落した直後に、妹はダハが陥落した際に奪還したとされる)マジャパヒトに連れ帰っていたが、ウィラーラージャはこれをモンゴル軍に引き渡す約束をしていた[113] 。王女の受け取りに来たモンゴル軍に対してウィラーラージャは王女は軍隊を怖がっているとして時間稼ぎをし、日を改めて武器を持たず来れば王女を方形の箱に入れて差し出すと述べた[112] 。翌日、ウィラーラージャの言葉通り武器を持たずにやってきたモンゴルの指揮官は扉の中に閉じ込められ、ウィジャヤの側近であるソラによって殺されてしまった[114] 。ジャワ兵は外にいたモンゴル兵が逃げ出すのを追ってモンゴル軍本隊の駐屯地まで至り、総崩れとなったモンゴル軍をチャング(Canggu)の船着場まで追撃したという[115] [116] 。
一方、『元史』によるとウィジャヤの裏切りによって極めて危険な状況に追い込まれたモンゴル軍は、軍議を開いて撤退すべきか否かを論じたという[117] 。イグミシュのみはクビライの許しを得てからでないと撤退はできないと主張したが、 実戦経験豊富な史弼と高興は一刻も早く撤退すべきあると言って譲らず、最終的には史弼・高興の意見に従って即時撤退することに決まった[118] [119] [120] 。史弼は自ら殿軍を務めて戦いながら退却し、300里を進んだところで4月24日に船に乗りジャワ島から脱出することに成功した[121] [122] 。『元史』にはモンゴル軍の撤退路について全く記録がないが、『パララトン』に従ってチャング(=『元史』の章弧)まで撤退しそこから出航したものとみられる[91] 。
戦後処理
ジャワ島を出航したモンゴル軍は68日かけて中国大陸まで戻り、7月4日夜に泉州にまで帰還した[123] 。士卒の死者は3000を数える大敗ではあったが、一方でジャワで得た捕虜や金銀財宝、Lamuri国など道中の諸国で献上された品などは無事に持ち帰ることができ、朝廷に献上された[124] [125] [126] 。様々な事後処理を経て8月7日には遠征軍は解散したが[127] 、史弼ら指揮官の処分を如何にするかは議論が遅れ、帰還から半年近く経った12月19日に処分が降された[128] 。すなわち、史弼とイグミシュは「功無くして還った(無功而還)」こと、またウィジャヤを安易に解き放ち敗走の切っ掛けを作った事などを理由に杖刑とした上で家産の3分の1が没収された。一方、高興のみは一人ウィジャヤの危険性を見抜き功績が多かったことを重視され、処罰はなく逆に金50両を下賜された[129] [130] 。
ジャワ遠征が行われた時点で既に高齢であったクビライは至元31年(1294年)正月に急速に体調を崩し、同月末に亡くなった[131] 。ジャワ遠征軍が敗退してから僅か半年以内の死であり、ジャワ遠征失敗による落胆がクビライの死期を縮めたとする見方もある[132] 。同年中にクビライの孫のオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、4月28日にジャワ遠征軍に属した将兵に対して[133] 、また10月26日にはジャワ遠征で死亡した将兵の遺族に対して厚く報いるよう[134] 詔が下されている[135] 。また、これに並行してオルジェイトゥ・カアンの即位にも貢献した重臣のウズ・テムルがジャワ遠征失敗で失脚した史弼らの名誉回復を願い、これを受けて没収された家産の返還と史弼には江西行省右丞への復職が命じられた[136] [132] 。史弼とイグミシュはこの後時間をおいて少しずつ地位を取り戻しており、ジャワ遠征軍の将官は失敗にもかかわらず同情的に遇されたようである[137] 。
一方、ウィジャヤはモンゴル軍を追い出した翌年の1294年に正式に即位してラージャサナガラ王と称し、マジャパヒト王国を建設した[138] 。ラージャサナガラ王は早くも元貞元年(1295年)9月16日[139] と大徳元年(1297年)10月26日[140] に大元ウルスに使者を派遣して形式上の朝貢関係を結び、大徳2年(1298年)9月5日[141] ・大徳4年(1300年)6月20日[142] にも使者を派遣して大元ウルスとの朝貢貿易を開始した。後述するように、モンゴルのもたらした大統合によってユーラシア大陸では陸海双方をつなぐ巨大な交易圏が形成されており、ラージャサナガラ王もこの交易圏に魅力を感じ朝貢関係を結んだとみられる[138] 。ラージャサナガラ王の地位を継承した息子の王の時代にはランガ=ラウェの乱(1309年)・ソラの乱(1311年)・ナムビの乱(1316年)・クティの乱(1319年)が頻発し多難な時期であったが、それでも延祐7年(1320年)3月3日[143] ・至治3年(1323年)2月6日[144] ・泰定2年(1325年)2月4日[145] ・泰定3年(1326年)2月23日[146] ・泰定4年(1327年)12月21日[147] の5回にわたって大元ウルスに使者が派遣されている[148] [149] 。こうして、使者黥面事件やジャワ遠征によって険悪な形で始まった大元ウルスとジャワ島の関係は14世紀に入って安定し、特にマジャパヒト王国に経済的な繁栄をもたらすことになった[150] 。
影響
日本遠征も含め、大元ウルスの海洋進出は概して失敗に終わったと見なされることが多いが、軍事的な失敗とは裏腹にモンゴル時代(元代)に経済的な交流はむしろ増加する傾向にあった[151] 。ジャワ島との関係も同様であって、ジャワ遠征の失敗にもかかわらず様々な面で経済的交流が活発化したことが指摘されている。そのため、そもそもモンゴルのジャワ遠征軍の目的は通商路の確保にこそあったのだとする見解もある[152] 。
モンゴルのジャワ遠征が海洋交易路の開拓に資した傍証の一つとして、著名なマルコ・ポーロの旅行が挙げられる[153] 。マルコ・ポーロは大元ウルスからフレグ・ウルスに嫁ぐ公主を送る船団に同乗してヨーロッパに帰還したと自ら述べているが[154] 、この船団が実在したことはペルシア語史料の『ワッサーフ史』などによって確認される[153] 。また、漢文史料の『経世大典』「站赤」にはこの船団が出発したのが至元27年(1290年)末であると記され[155] 、『東方見聞録』の記述と照らし合わせると航海の時期はモンゴルのジャワ遠征とほぼ同時期(1292年-1293年)と分かる[156] 。この事実は、まさにジャワ遠征を経てモンゴル勢力が南シナ海~インド洋の交易ルートを掌握していたことを物語る。また、マラッカ海峡を通ったマルコ・ポーロはジャワ島についても情報を仕入れており、以下のように記している。
チャンパ王国をたって南東に航海すること1,500マイルでジャヴァ大島に到着する。この方面の事情に通じた老練の水夫によれば、このジャヴァ島は世界最大の島で、周回が3,000マイルにも達するという。この国を統治するのは一人の大王である。住民は偶像教徒で、他のどの国にも属していない。ジャヴァ島はとても富裕であって、胡椒・肉豆蔲・高良・甘松香・華澄茄・丁香など、つまりひと言でいえば、あらゆる高価な香料が何でもできる土地である。各種の物資買い込みにやってくる多数の商人を乗せた船がとてもたくさんこの地に集まってくるが、商人たちは皆この取り引きで大した儲けをしているのである。この島の富は実にはかりしれぬもので、筆舌をもって説明することもできない。ところでこのジャヴァ島に対してだけは、それが遠距離なのと途上の航海が困難なのとによって、さすがのカアンも征服することはできなかった。しかしザイトゥンやマンジの商人たちは、昔からこの島との取り引きに従事して非常な利益をあげていたし、現在もまた引き続きそうしている。世界中に買販されている香料は、その大部分がこの島から将来されたものである。 — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』大ジャヴァ島の条[157]
これは伝聞情報ではあるものの、13世紀末の香辛料交易で栄えるジャワ島の状況を物語るものとして重視されている[14] 。また、ペルシア語史料の『ワッサーフ史』もジャワ島について1章を設けて記述している。
ヒジュラ暦691年(=1292年)に、クビライは《Mul-Jāwah》島を征服したが、この島はインドの付近にあり、長さ200ファルサン、幅120ファルサンであった。この国の君主セリ・ラマはクビライのもとへ朝貢するため出発したが、途中で死んだ。しかし、その子はクビライの朝廷に到着し、歓待をうけ、黄金と真珠の歳幣を払うことを条件として、王国の安堵を確保した。 — シャラフッディーン・シーラーズィー、『ワッサーフ史』《Mul-Jāwah島の征服》条[158]
この記述はモンゴル軍のジャワ遠征が成功裏に終わったかのように記す点で誤りを含んでいるが、 遠征後にジャワ島の側から改めて使者を派遣し朝貢関係を結んだとする点で史実と合致する[159] 。ムル・ジャワとは「大ジャワ」の意で、東方見聞録の記述と合わせてこの頃「小ジャワ=スマトラ島」に対する「大ジャワ=ジャワ島」という認識があり、「ジャワ」という名称にはジャワ島のみならずマラッカ海峡一帯を含む広大な地域を指す用法があったことを示している[160] 。
14世紀前半には大元ウルスとマジャパヒト王国双方で政情不安があり交流が一時途絶えた頃もあったが、1320年代からは比較的政情が落ち着き両国の交流は更に活発となった[161] 。この頃、漢人の汪大淵は幾度も南洋諸国に赴き[162] 、至正9年(1349年)に旅行の記録を整理して現在『島夷志略』と呼ばれる書物を出版した[163] 。
訳文:爪哇はすなわち古の闍婆国である。家屋は壮麗で、土地は広く、人口は稠密であり、まさに「東洋」諸外国のなかでも第一級である。その耕地は肥沃で平らに広がり、米穀豊穣なことは他国の倍である。したがって住民は盗みを働かないし、道に落ちているものを拾う者もいない。「太平闍婆」という言い伝えはまさにこのことだ。[中略]さらに、臣下の者たちには貢税を納めさせ、諸官庁を設けて法規を整備し、鋪兵(文章の伝達をおこなう人)の制度を設けて文章の伝達をおこなっている。定まった刑罰を守り、塩に関する法令を重んじる。銅銭を用いるが、一般には、銀、錫、鍮、銅を混ぜて鋳造した、巻貝大のものを銀銭と名づけて、銅銭を計量するのに使用している。土地は、天日で製造した塩、年間一万斤の胡椒、極細の堅耐色印布、綿羊、鸚鵡などを産出する。薬物はすべて他国から来るのである。[交易のためにジャワに持ち込むべき]商品は、硝珠(ビーズ)、金銀、青緞、色柄の絹、青白花碗、鉄器などである。
原文:爪哇即古闍婆国。門遮把逸山係官場所居、宮室壮麗、地広人稠、実甲東洋諸番。旧伝国王係雷震石中而出、令女子為酋以長之。其田膏沃、地乎衍、穀米富饒、倍於他国。民不為盗、道不拾遺。諺云『太平闍婆』者此也。俗朴、男子椎髻、裹打布。惟酋長留髪。[中略]令臣属納貢税、立衙門、振綱紀、設鋪兵、以遞文書。守常刑、重塩法。使銅銭、俗以銀・錫・鍮・銅雑鋳如螺甲大、名為銀銭、以権銅銭使用。地産靑塩、係晒成。胡椒毎歳万斤。極細堅耐色印布・綿羊・鸚鵡之類。薬物皆自他国来也。貨用硝珠・金銀・青緞・色絹・青白花碗、鉄器之属。 — 汪大淵、『島夷志略』爪哇の条[164]
汪大淵がジャワ島を訪れたのはマジャパヒト王国の全盛期を築いたとされる宰相ガジャ・マダの時代に相当し、「太平なるジャワ(太平闍婆)」とはまさにマジャパヒト王国が繁栄の絶頂にあったことを示す言葉であると見なされている[165] 。『東方見聞録』・『ワッサーフ史』・『島夷志略』といった言語も来歴も異なる諸史料に記されるジャワ島に関する記述は、それ自体がモンゴル帝国が築いた交易ネットワークの成果そのものであり、その起点となったのはモンゴルのジャワ遠征に他ならなかった[166] 。
脚注
- ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「[至元二十九年]十一月、福建・江西・湖廣三省軍會泉州。十二月十四日、自後渚啓行......[至元三十年四月]二十四日、軍還。得哈只葛當妻子官屬百餘人、及地圖戶籍、所上金字表」
- ^ 杉山2014B,140-141頁
- ^ 丹羽1953,56頁
- ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十五年八月]辛巳......詔行中書省唆都・蒲寿庚等曰『諸蕃国列居東南島嶼者、皆有慕義之心、可因蕃舶諸人宣布朕意。誠能来朝、朕将寵礼之。其往来互市、各従所欲』。詔諭軍前及行省以下官吏、撫治百姓、務農楽業、軍民官毋得占拠民産、抑良為奴。以中書左丞董文炳僉書枢密院事、参知政事唆都・蒲寿庚並為中書左丞」
- ^ 丹羽1953,34頁
- ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年六月]甲辰......占城・馬八児諸国遣使以珍物及象犀各一来献」
- ^ 『元史』巻10世祖本紀7,「[至元十六年十二月]丁酉......詔諭海内海外諸番国主」
- ^ 丹羽1953,35頁
- ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年九月]乙丑朔、馬八児・須門那・僧急里・南無力・馬蘭丹・那旺・丁呵児・来来・急闌亦帯・蘇木都剌十国、各遣子弟上表来観、仍貢方物」
- ^ 丹羽1953,37頁
- ^ 丹羽1953,76-77頁
- ^ 丹羽1953,78頁
- ^ 青山2001,205頁
- ^ a b c 青山2001,206頁
- ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年冬十月]丙申......遣使諭爪哇国及交趾国」
- ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十七年]十一月己亥朔......降詔招諭爪哇国」
- ^ 『元史』巻11世祖本紀8,「[至元十八年十一月]壬午、詔諭爪哇国主、使親来観」
- ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年秋七月癸酉]宣慰孟慶元・万戸孫勝夫使爪哇回、為忙古帯所囚、詔釈之」
- ^ 丹羽1953,115-116頁
- ^ 杉山2014B,140頁
- ^ ジャワ島に派遣され、入れ墨をされて送還された人物の名前について、『元史』巻210ジャワ伝は「孟右丞」、同巻162高興伝は「孟琪」とそれぞれ記し、一定しない。一方、世祖本紀には南宋攻略に活躍した「孟祺」なる人物の記録が散見し、この人物と「孟右丞」を同一人物とする説もある(『新元史』など)。しかし、丹羽友三郎は(1)「孟祺」は巻伝において「至元18年に病死した」と明記されること、(2)至元18年から19年にかけてジャワに使者として派遣された「孟慶元」という人物がいることを指摘し、「孟右丞」の名前は「孟祺」ではなく「孟慶元」とするのが正しいだろう、と論じている(丹羽1972)
- ^ 丹羽1953,117-118頁
- ^ 松岡1924,96頁
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「[至元]二十六年......冬、入朝、時世祖欲征爪哇、謂弼曰『諸臣為吾腹心者少、欲以爪哇事付汝』。対曰『陛下命臣、臣何敢自愛』」
- ^ 丹羽1953,118頁
- ^ 丹羽1953,124-125頁
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「爪哇在海外、視占城益遠。自泉南登舟海行者、先至占城而後至其国。其風俗土産不可考、大率海外諸蕃国多出奇宝、取貴於中国、而其人則醜怪、情性語言与中国不能相通。世祖撫有四夷、其出師海外諸蕃者、惟爪哇之役為大」
- ^ 丹羽1953,80頁
- ^ モンゴル史研究者の杉山正明は、「もともと二線級・三線級の将官が割り当てられていた江南進駐軍の中でもさらに下級の者が起用された」とする。また、「クビライ中央政府が本気で軍事侵攻を考えるならば、もっと別の顔ぶれで、もっと本格の編成となったことだろう」とも述べている(杉山2014B,140頁)
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「至元二十九年二月、詔福建行省除史弼・亦黒迷失・高興平章政事、征爪哇。会福建・江西・湖広三行省兵凡二万、設左右軍都元帥府二・征行上万戸四、発舟千艘、給糧一年・鈔四万錠、降虎符十・金符四十・銀符百・金衣段百端、用備功賞」
- ^ a b c 丹羽1953,98頁
- ^ 丹羽1953,81-82頁
- ^ 丹羽1953,111頁
- ^ 丹羽1953,85-86頁
- ^ 丹羽1953,89-90頁
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年二月]戊寅、立征行左・右軍都元帥府、都元帥四、副都元帥二。上万戸府達魯花赤四・万戸皆四・副万戸八・鎮撫四、各佩虎符」
- ^ 「御批通鑑輯覧」巻92はジャワ遠征軍の規模「兵三万」とすることから兵数は3万だったと論じる説もあるが、丹羽友三郎は「御批通鑑輯覧」よりも『元史』の方が史料価値は高く信用できるとして三万説を否定している
- ^ 丹羽1974,4-8頁
- ^ 丹羽1974,10-11
- ^ 丹羽1974,12-14
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年春正月]庚子......禁商賈私以金銀航海」
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年六月]癸未、以征爪哇、暫禁両浙・広東・福建商賈航海者、俟舟師已発後、従其便」
- ^ 丹羽1953,127-128頁
- ^ 設置日を『元史』は12日、『経世大典』は8日として食い違うが、これは8日に命令が出され、12日に実施に移されたものと解釈される(丹羽1953,80頁)
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「二十九年、拝栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事、往征爪哇、以亦黒迷失・高興副之、付金符百五十・幣帛各二百、以待有功」
- ^ 『元史』巻162列伝49高興伝,「二十九年、復立福建行省、拜右丞。爪哇黥使者孟琪、詔興為平章政事、与史弼・亦黒迷失、帥師征之、賜玉帯・錦衣・甲冑・弓矢・大都良田千畝」
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年]七月庚申朔、詔以史弼代也黒迷失・高興、将万人征爪哇、仍召三人者至闕」
- ^ なお、イグミシュ伝の記述はこのクビライとの謁見を指すとみられる(丹羽1953,128頁)
- ^ 丹羽1953,127頁
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「亦黒迷失等陛辞。帝曰『卿等至爪哇、明告其国軍民、朝廷初与爪哇通使往来交好、後刺詔使孟右丞之面、以此進討』。九月、軍会慶元。弼・亦黒迷失領省事、赴泉州。興率輜重自慶元登舟渉海。十一月、福建・江西・湖広三省軍会泉州。十二月、自後渚啓行」
- ^ 丹羽1953,130-131頁
- ^ 丹羽 1953,132頁
- ^ 丹羽 1953,133-134頁
- ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「二十九年、召入朝、尽献其所有珍異之物。時方議征爪哇、立福建行省、亦黒迷失与史弼・高興並為平章。詔軍事付弼、海道事付亦黒迷失、仍諭之曰『汝等至爪哇、当遣使来報。汝等留彼、其餘小国即当自服、可遣招来之。彼若納款、皆汝等之力也』。軍次占城、先遣郝成・劉淵諭降・速木都剌・不魯不都・八剌剌諸小国」
- ^ 丹羽1953,134-135頁
- ^ 丹羽1953,134-136頁
- ^ なお、『島夷志略』は「ゲラム島に到着したモンゴル軍は強風によってほとんどの舟を失ったために、この地で新たに舟を建造し病人などは置き去りにしてしまった」とする。しかし現地で建造した小舟のみで遠征軍全体をジャワ島まで運ぶことは不可能であり、島夷志略の記述は事実を誇張したものと見ざるを得ない。あるいは、ゲラム島に駐留した遠征軍の中の一分遣隊のみが強風被害を受け新たに小舟の建造を行ったのではないかと考えられる(丹羽1953,136-137頁)
- ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「三十年正月十八日、至拘欄山、議方略」
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「二月、亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖、万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、先往招諭之。大軍継進於吉利門」
- ^ 丹羽1953,137-138頁
- ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「二月六日亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖・万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、往招諭。議定後七日、大軍継進於吉利門相候」
- ^ 『国朝文類』巻41征伐爪哇,「十三日、弼興進至爪哇之杜並足、与亦黒迷失等議、分軍下岸水陸並進」
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「三十年正月、至構欄山議方略。二月、亦黒迷失・孫参政先領本省幕官並招諭爪哇等処宣慰司官曲出海牙・楊梓・全忠祖、万戸張塔剌赤等五百餘人、船十艘、先往招諭之。大軍継進於吉利門。弼・興進至爪哇之杜並足、与亦黒迷失等議、分軍下岸、水陸並進」
- ^ 松岡1924,106頁
- ^ a b 丹羽1953,145頁
- ^ 鑽は錐などを揉むことを意味し、先鋒船あるいは切り込み船を意味する単語とみられる(丹羽1953,146頁)
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「弼与孫参政帥都元帥那海・万戸甯居仁等水軍、自杜並足由戎牙路港口至八節澗。興与亦黒迷失帥都元帥鄭鎮国・万戸脱歓等馬歩軍、自杜並足陸行。以万戸申元為前鋒。遣副元帥土虎登哥、万戸褚懐遠・李忠等乗鑽鋒船、由戎牙路、於麻喏巴歇浮梁前進、赴八節澗期会」
- ^ 丹羽1953,144-145頁
- ^ 丹羽1953,148頁
- ^ a b c 丹羽1953,144頁
- ^ ジャワ側の史料には索敵に来た「ジャヤカトワンの第一大臣」が夜に乗じて逃れ、残された数百隻の船をモンゴル軍が接収したとの記述があり、「謀臣の希寧官」とはまさに「ジャヤカトワンの第一大臣」を指すとみられる(丹羽1953,148頁)
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「招諭爪哇宣撫司官言爪哇主壻土罕必闍耶挙国納降、土罕必闍耶不能離軍、先令楊梓・甘州不花・全忠祖引其宰相昔剌難答吒耶等五十餘人来迎。三月一日、会軍八節澗。澗上接杜馬班王府、下通莆奔大海、乃爪哇咽喉必争之地。又其謀臣希寧官沿河泊舟、観望成敗、再三招諭不降。行省於澗辺設偃月営、留万戸王天祥守河津、土虎登哥・李忠等領水軍、鄭鎮国・省都鎮撫倫信等領馬歩軍水陸並進。希寧官懼、棄船宵遁、獲鬼頭大船百餘艘。令都元帥那海・万戸甯居仁・鄭珪・高徳誠・張受等鎮八節澗海口」
- ^ 丹羽1953,146頁
- ^ 丹羽1953,146-147頁
- ^ 青山2001,209頁
- ^ ウィジャヤは王の従兄弟であったの孫、ラージャはジャヤカトワン王の息子であった(松岡1924,94頁)
- ^ 『パララトン』には「その時、ダハからの大軍が来襲し、彼らは音を立てないようにして、太鼓と旗を持たないで、ラウォルを目指して Pingir-Raksa から(来た)。シッダに到着すると、[彼らは]休息しないでシンガサリに進撃した」とある。「Pingir-Raksa」は「境界の塁壁」を意味し、今のLaksa川に相当する。シッダは位置不明であるが、この別動隊は現kawi 山南麓をダハからトゥマペルに向かう道を進んだものと見られる(仲田1969,12頁)
- ^ 松岡1924,98頁
- ^ 仲田1969,12頁
- ^ クルタナガラ王は後に「シヴァ神とブッダの世界に入滅した者」として祀られたという(青山2001,207頁)
- ^ a b 仲田1969,7頁
- ^ 松岡1924,99頁
- ^ a b c 仲田1969,8頁
- ^ 松岡1924,100頁
- ^ 1294年9月11日づけクダドゥ出土銅板刻文には「大王はマドゥラへ逃れたいと欲した(mungsire Madura ista cri maharaja)」とあり、大王=ウィジャヤが保護を求めてクダドゥからマドゥラに逃れたのは事実のようである(仲田1969,5頁)
- ^ 松岡1924,102-103頁
- ^ 松岡1924,107頁
- ^ a b 仲田1969,11頁
- ^ ただし、ウィジャヤの連合の申し出の背景として『元史』がジャヤカトワン王とウィジャヤの対立を強調するのに対し、『パララトン』はまずウィジャヤにジャワ統一の意志があって、これを果たすためにウィラーラージャの助言に従ってモンゴル軍を利用したのだとする(仲田1969,4-5頁)
- ^ 古ジャワ語刻文には「ウィラーラージャがクルタナガラ王の善良なる弟子であった」との記述があり、そもそもウィラーラージャがマドゥラに左遷されてきたということ自体が疑わしい。また、本当に上記のような約束をしたのであればクルタナガラ王の本拠であったダハこそウィラーラージャが受け取るべき土地であるところを、実際にはウィジャヤの腹心の部下ソラに与えられていることから、 このような約束が実際にあったとは考えがたい(仲田1969,6-7頁)
- ^ a b 仲田1969,19頁
- ^ a b c 丹羽1953,154頁
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「大軍方進、土罕必闍耶遣使来告、葛郎王追殺至麻喏巴歇、請官軍救之。亦黒迷失・張参政先往安慰土罕必闍耶、鄭鎮国引軍赴章孤接援。興進至麻喏巴歇、却称葛郎兵未知遠近、興回八節澗。亦黒迷失尋報賊兵今夜当至、召興赴麻喏巴歇」
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「七日、葛郎兵三路攻土罕必闍耶。八日黎明、亦黒迷失・孫参政率万戸李明迎賊於西南、不遇。興与脱歓由東南路与賊戦、殺数百人、餘奔潰山谷。日中、西南路賊又至、興再戦至晡、又敗之」
- ^ なお、『パララトン』は「タタルからの使者の到着後、ダハを攻撃した。タタルからの軍は北から攻め、マドゥラからの軍はマジャパヒトからのそれと共に東から攻めた」と記しており、西(北)と東からダハを挟撃したという点では一致するが、ウィジャヤが単独で動いていたどうかという点では相違する。『元史』高興伝では高興がウィジャヤの裏切りを常に警戒していたことが記されており、ウィジャヤは高興と行動をともにしていたとする『元史』の記述の方が正しいとみられる。また、マドゥラからの軍が単独で参戦したとも考え難い(仲田1969,11頁)
- ^ a b 仲田1969,13頁
- ^ 「昔剌八的昔剌丹不合」は「昔剌八的・昔剌丹不合」と二人の人名に解釈されることもあるが、仲田は前半の「昔剌八的」をÇrī Patihという官名と解釈し、また後半の「昔剌」をÇī(王族への敬称)と見て、最後の丹不合はmundarangの誤記であると推定する。『パララトン』ではジャヤカトワンのPatihはクボ=ムンダランとされることも、昔剌八的昔剌丹不合=Çrī Patih Çri Kebo-mundarang説を裏付ける(仲田1969,14-15頁)
- ^ モンゴル軍の撤退後、ソラはダハのPatihに、 ナムビはマジャパヒトのPatihにそれぞれ任命されたことがSukamrta刻文によって確認され、両人は間違いなく実在の人物である(仲田1969,14頁)
- ^ 『パララトン』には「ハジのカトンは何をすべきか知らず当惑した。その時、事実、タタル人により北から攻撃され、クボ=ムンダランは東からの軍を待ち伏せ、パンルットはソラにより殺され、クボ=ルブはナムビにより殺され、クボ=ムンダランはランガ=ラウェ(Rangga-Lame)と対戦し、クボ=ムンダランは敗れて、トウリニ=パンティの谷へ追跡され、ランガ=ラウェにより殺された」 と記されている。仲田はこの『パララトン』の記述と、『元史』高興伝の「哈只葛当(ジャヤカトワン)の子の昔剌八的・昔剌丹不合(クボ=ムンダラン)は山谷に逃れ入り、高興は単独で千人を率い山谷に深く入り、昔剌丹不合を捕虜とした(哈只葛当子昔剌八的・昔剌丹不合、逃入山谷、興独帥千人深入、虜昔剌丹不合)」という記述が同じ戦闘(山谷=トウリニ=パンティの谷での戦闘)を指す物であると指摘する(仲田1969,13-14頁)
- ^ 丹羽1953,155頁
- ^ 『元史』巻210列伝97爪哇伝,「十五日、分軍為三道伐葛郎、期十九日会答哈、聴砲声接戦。土虎登哥等水軍泝流而上、亦黒迷失等由西道、興等由東道進、土罕必闍耶軍継其後。十九日、至答哈。葛郎国主以兵十餘万交戦、自卯至未、連三戦、賊敗奔潰、擁入河死者数万人、殺五千餘人。国主入内城拒守、官軍囲之、且招其降。是夕、国主哈只葛当出降、撫諭令還」
- ^ なお、『パララトン』はジャヤカトワンの敗北について 「ハジのジャヤカトワンは北方で戦い、楯を奪われ、タタル人により攻撃され、その結果捕らえられ、彼はタタル人により捕虜にされた。ラーデンのウィジャヤは急いでダハの城内に入り、年下の王女を連れ出し、その後(彼女を)マジャパヒトへ連れ去った」と記載している
- ^ なお、ジャヤカトワン王がどの時点で死んだかは史料によって記述が異なり、ジャワ語史料では『パララトン』が「ジャヤカトワン王は西/北から来襲したモンゴル軍によってダハ北方で捕らえられた」とするのに対し、NKは「(ウィジャヤは)タタル人と連合して、ジャヤカトワンを討ち、皆殺しにした」と述べ、ダハ攻防戦で死んだかのように記す。また、漢文史料の『元史』でもジャワ伝は「国主が出降」したとするのに対し、高興伝は「後に捕らえた国王を処刑した」とあって記述が食い違う。仲田1969は諸史料を総合して、ジャヤカトワンはダハ北方の戦いでモンゴル軍に捕らえられた後、4月19日のウィジャヤの背反時に高興によって息子のÇrī Patih Çri Kebo-mundarangとともに殺されたとするのが史実に近いと考証している(仲田1969,15頁)
- ^ 『元史』ジャワ伝では「卯(6時前後)から未(午後2時前後)」、史弼伝には「自旦自午(正午12時前後)」に戦ったとそれぞれ記されている(丹羽1953,152頁)
- ^ 仲田1969,15頁
- ^ 丹羽1953,150-151頁
- ^ 丹羽1953,157頁
- ^ 『元史』巻162列伝49高興伝,「三十年春、浮海抵爪哇。亦黒迷失将水軍、興将歩軍、会八節澗、爪哇主婿土罕必闍耶降。進攻葛郎国、降其主哈只葛当、事見弼伝。又諭降諸小国。哈只葛当子昔剌八的・昔剌丹不合、逃入山谷、興独帥千人深入、虜昔剌丹不合。還至答哈城、史弼・亦黒迷失已遣使護土罕必闍耶帰国、具入貢礼。興深言其失計。土罕必闍耶果殺使者以叛、合衆来攻、興等力戦、却之、遂誅哈只葛当父子以帰」
- ^ 丹羽1953,158頁
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「土罕必闍耶乞帰易降表、及所蔵珍宝入朝、弼与亦黒迷失許之、遣万戸担只不丁・甘州不花、以兵二百人護之還国。土罕必闍耶於道殺二人以叛、乗軍還、夾路攘奪」
- ^ 丹羽1953,159頁
- ^ a b 仲田1969,16頁
- ^ 松岡1924,108頁
- ^ 仲田1969,18頁
- ^ もっとも、モンゴル側の史料(『元史』)には王女の受け渡しに関する記述が全くなく、上記の逸話は史実かどうか疑わしい(仲田1969,18頁)
- ^ また、1305年のBalawi刻文ではクルタナガラ王の四王女の名前を 1.Bangli 2. Malaya 3. Madura 4. Tanjung-pura としているが、これは明らかにバリ島・スマトラ島・マドゥラ島・カリマンタン島というジャワ周辺諸島を意識した名称となっている。すなわち、クルタナガラ王の四王女にまつわる逸話は、ウィジャヤがモンゴル軍撃退後にジャワ島外に支配権を確立していく過程を象徴的に語るために創出された逸話ではないかとみられる(仲田1969,18頁)
- ^ 丹羽1953,160頁
- ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「三十年、攻葛郎国、降其主合只葛当。又遣鄭珪招諭木来由諸小国、皆遣其子弟来降。爪哇主婿土罕必闍耶既降、帰国復叛事、並見弼伝。諸将議班師、亦黒迷失欲如帝旨、先遣使入奏、弼与興不従、遂引兵還、以所俘及諸小国降人入見、帝罪其与弼縦土罕必闍耶、没家貲三之一」
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「四月二日、遣土罕必闍耶還其地、具入貢礼、以万戸捏只不丁・甘州不花率兵二百護送。十九日、土罕必闍耶背叛逃去、留軍拒戦。捏只不丁・甘州不花・省掾馮祥皆遇害。二十四日、軍還」
- ^ 丹羽1953,160-161頁
- ^ 丹羽1953,163頁
- ^ 松岡1924,109頁
- ^ 丹羽1953,164-165頁
- ^ 丹羽1953,161頁
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「得哈只葛当妻子官属百餘人、及地図戸籍・所上金字表以還。事見史弼・高興伝」
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「弼自断後、且戦且行、行三百里、得登舟、行六十八日夜、達泉州、士卒死者三千餘人。有司数其俘獲金宝香布等、直五十餘万、又以没理国所上金字表、及金銀犀象等物進、事具高興及爪哇国伝。於是朝廷以其亡失多、杖十七、没家貲三之一」
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年八月]庚寅勅福建行省放爪哇出征軍帰其家」
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年十二月]庚子、平章政事亦黒迷失・史弼・高興等無功而還、各杖而恥之、仍没其家貲三之一」
- ^ 『元史』巻162列伝49高興伝,「詔治縦爪哇者、弼与亦黒迷失皆獲罪、興独以不預議、且功多、賜金五十両」
- ^ 丹羽1953,165頁
- ^ 丹羽1953,165-166頁
- ^ a b 丹羽1953,166頁
- ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年夏四月]戊申......詔存恤征黎蛮・爪哇等軍」
- ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年九月]癸丑、詔有司存恤征爪哇軍士死事之家」
- ^ 丹羽1953,167-168頁
- ^ 『元史』巻162列伝49史弼伝,「元貞元年、起同知枢密院事、月児魯奏『弼等以五千人、渡海二十五万里、入近代未嘗至之国、俘其王及諭降傍近小国、宜加矜憐』。遂詔以所籍還之、拝栄禄大夫・江西等処行中書省右丞」
- ^ 丹羽1953,167頁
- ^ a b 青山2001,210頁
- ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[元貞元年九月]丁亥,爪哇遣使来献方物」
- ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年冬十月]乙卯、爪哇遣失剌班直木達奉表来降」
- ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳二年]九月己丑......交趾・爪哇・金歯国各貢方物」
- ^ 『元史』巻20成宗本紀3,「[大徳四年六月]甲子......吊吉而・爪哇・暹国・蘸八等国二十二人来朝、賜衣遣之」
- ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年三月]壬午......爪哇遣使入貢」
- ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治三年二月]戊辰......天寿節、賓丹・爪哇等国遣使来貢」
- ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年二月]辛卯......爪哇国遣其臣昔剌僧迦里也奉表及方物来朝貢」
- ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年二月]甲戌......爪哇国遣使貢方物」
- ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年十二月]乙卯、爪哇遣使献金文豹・白猴・白鸚鵡各一」
- ^ 丹羽1953,173頁
- ^ 青山2001,211頁
- ^ 丹羽1953,172頁
- ^ 例えば日本と大元ウルスの関係では、「蒙古襲来」直後は確かに両国の往来が激減したが(榎本2020,175-176頁)、14世紀初頭に入って私的な交易が爆発的に増えた(榎本2020,183-184頁)。一つの指標として、日本列島と中国大陸を往復した仏教僧の数は南宋時代に年平均1.1人だったものが元代は年平均4.1人となり、4倍近く増加している(榎本2020,204-205頁)
- ^ 杉山2010,214-215頁
- ^ a b 杉山2014B,141頁
- ^ 愛宕1970,31,頁
- ^ 『永楽大典』巻19418站赤,「十七日、尚書阿難答都事別不花等。奏平章沙不丁。上言今年三月奉旨遣兀魯䚟阿必失呵火者。取道馬八児往阿魯渾大王位下。同行一百六十人。内九十人已支分例。餘七十人聞是諸官所贈遺。及買得者。乞不給分例口粮。奉旨勿与之」
- ^ 愛宕1970,29-30頁
- ^ 訳文は愛宕1971,146-147頁より引用
- ^ 訳文は佐口1971,120頁より引用
- ^ 佐口1971,118-121頁
- ^ 深見2001,121-122頁
- ^ 至順3年(1332年)3月1日、83人の使者が訪れた記録がある(丹羽1953,174頁)
- ^ 丹羽1953,49-50頁
- ^ 丹羽1953,47頁
- ^ 青山 2001,215頁より引用
- ^ 青山2001,212頁
- ^ 深見2001,116頁
参考文献
- 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝、巻162列伝49史弼伝、巻162列伝49高興伝、巻210列伝97爪哇伝
- 青山亨「シンガサリ=マジャパヒト王国」『岩波講座 東南アジア史〈2〉』岩波書店、2001年
- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 榎本渉『僧侶と海商たちの東シナ海』講談社学術文庫、2020年
- 愛宕松男『東方見聞録 1』平凡社、1970年
- 愛宕松男『東方見聞録 2』平凡社、1971年
- 杉山正明『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』講談社学術文庫、2010年
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014A
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書、講談社、2014年(初版1996年)杉山2014B
- 仲田浩三「元のジャワ進討」『東方学』37号、1969年
- 丹羽友三郎『中国・ジャバ交渉史』明玄書房、1953年
- 深見純生「海峡の覇者」『岩波講座 東南アジア史〈2〉』岩波書店、2001年
- フロイン・メース夫人著/松岡静雄訳『瓜哇史』岩波書店、1924年
- C.M.ドーソン著/佐口透訳『モンゴル帝国史 3巻』平凡社、1971年
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