「阿佐太子」の版間の差分
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2行目:
2行目:
== 生涯 ==
== 生涯 ==
『[[日本書紀]]』によれば、[[推古天皇]]5年([[597年]])4月に日本に渡って[[聖徳太子]]の[[肖像画]]を描いたと伝えられる。奈良の[[法隆寺]]に伝来し、明治以降は[[御物]]となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が[[山背大兄王]]、左側が[[殖栗王]])を小さく配置した構成であり、この配置は、[[仏教]]の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられる。しかし、『聖徳太子二王子像』を阿佐太子筆とするのは、[[鎌倉時代]]の法隆寺僧が、[[慶政|慶政上人]]の説とした記事によるもので信(削除) ずる (削除ここまで)に(削除) 足りず、その画風からみても[[奈良時代|奈良時代前期]]の作品である (削除ここまで)<ref name="ブリタニカ国際大百科事典"/>。また、[[閻立本]]の作とされる[[唐|初唐]]の『歴代帝王図巻』にみられる貴人像に似ていることから、閻立本の貴人像を模したものとする説もある<ref name="ブリタニカ国際大百科事典"/>。
『[[日本書紀]]』によれば、[[推古天皇]]5年([[597年]])4月に日本に渡って[[聖徳太子]]の[[肖像画]]を描いたと伝えられる。奈良の[[法隆寺]]に伝来し、明治以降は[[御物]]となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が[[山背大兄王]]、左側が[[殖栗王]])を小さく配置した構成であり、この配置は、[[仏教]]の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられる。しかし、『聖徳太子二王子像』を阿佐太子筆とするのは、[[鎌倉時代]]の法隆寺僧が、[[慶政|慶政上人]]の説とした記事によるもので信(追記) 憑性 (追記ここまで)に(追記) 乏しい (追記ここまで)<ref name="ブリタニカ国際大百科事典"/>。また、[[閻立本]]の作とされる[[唐|初唐]]の『歴代帝王図巻』にみられる貴人像に似ていることから、閻立本の貴人像を模したものとする説もある<ref name="ブリタニカ国際大百科事典"/>。
日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾からみて、8世紀([[奈良時代]])の作品とする説と、[[平安時代]]以降の模本とする説が概して多い。このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が[[朝鮮]][[史料]]にはないという事実によって、未解決の課題である。
== 脚注 ==
== 脚注 ==
2024年3月13日 (水) 14:06時点における最新版
阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身の画家。推古天皇五年(597年)、威徳王の命で来日[1] 。推古天皇五年(597年)に朝貢した百済王の子といわれるが、百済の史料にはない[2] 。
生涯
[編集 ]『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成であり、この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられる。しかし、『聖徳太子二王子像』を阿佐太子筆とするのは、鎌倉時代の法隆寺僧が、慶政上人の説とした記事によるもので信憑性に乏しい[2] 。また、閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』にみられる貴人像に似ていることから、閻立本の貴人像を模したものとする説もある[2] 。
脚注
[編集 ]- ^ 日本人名大辞典+Plus『阿佐太子』 - コトバンク
- ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典『阿佐太子』 - コトバンク