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愛洲移香斎八代の孫、平澤通有が元禄年間に記した家伝「平澤氏家傳」に依ると、愛洲移香斎久忠は[[伊勢国]]・[[愛洲氏]]の一族で、[[享徳]]元年(一四五二年)に生まれて名は久忠、日向守を称したという。生来刀法が得意で諸国を巡り、三五歳の長享元年に[[日向国]]鵜戸大権現の岩屋に於いて頭の上で香を焚く修行と三七日の祈祷を行って霊験に依り極意を授かったとある。
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[[元禄]]元年に儒医松下見林が「異称日本伝」で[[明]]国の「武備誌」記載の「影流之目録」を一部紹介した。目録には「猿飛」「猿回」「山陰」等の太刀名がみられる。愛洲移香斎第二世愛洲宗通の門人[[上泉伊勢守信綱]]によってこれ等の一連の技は改良され、[[新陰流]]の「燕飛の太刀」として継承されている。愛洲移香斎久忠は天文七年(一五三八年)没、年八十七歳と記されている。
[[元禄]]元年に儒医松下見林が「異称日本伝」で[[明]]国の「武備誌」記載の「影流之目録」を一部紹介した。目録には「猿飛」「猿回」「山陰」等の太刀名がみられる。愛洲移香斎第二世愛洲宗通の門人[[(追記) 上泉信綱| (追記ここまで)上泉伊勢守信綱]]によってこれ等の一連の技は改良され、[[新陰流]]の「燕飛の太刀」として継承されている。愛洲移香斎久忠は天文七年(一五三八年)没、年八十七歳と記されている。


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江戸時代になり、陰流は[[永禄]]七年の愛洲宗通・[[修理亮]]宛[[佐竹義重]]の[[起請文]]に依り、[[兵法]]指南として[[佐竹家]]に仕え、同家中(江戸時代は秋田)に道統を残した。


参考文献
参考文献

2009年7月31日 (金) 06:57時点における版

陰流とは、室町時代、文明十五年(一四八三年)頃、伊勢愛洲氏の一族・戦国武将愛洲久忠が編み出した武術の流派。「影流」とも。

「愛洲影流(愛洲陰流)」「猿飛影流(猿飛陰流)」も「影流(陰流)」の別称である。ただし、猿飛影流は久忠の子と言われる愛洲小七郎が陰流に工夫を加えて名乗った流派とされている。また、新陰流系の流派に愛洲陰流を名乗る流派が存在する。

概要

この流派を基に上泉信綱新陰流(新影流)を開いた事で有名である。「撃剣叢談」やいくつかの系統の新陰流の伝書に依ると、上泉武蔵守に「影流」を伝授したのは二世愛洲美作守宗通(愛洲小七郎)となっている。新陰流では最初に学ぶ事になっている「燕飛」は陰流の「猿飛」であると伝承されている。

陰流自体は江戸時代以降伝承が少なく、文献上で元禄年間、松下見林の「異称日本伝」で紹介された「武備志」の「影流之目録」で「猿飛」「猿回」「山陰」が、天保年間刊行の「撃剣叢談」で「武芸原始 影流」として言及されていることなどがある。

陰流の起源に就いて

室町時代 長享の頃(一四八七年頃)愛洲移香斎(あいすいこうさい)久忠が開いた剣術の流儀。愛洲影流ともいう。

愛洲移香斎八代の孫、平澤通有が元禄年間に記した家伝「平澤氏家傳」に依ると、愛洲移香斎久忠は伊勢国愛洲氏の一族で、享徳元年(一四五二年)に生まれて名は久忠、日向守を称したという。生来刀法が得意で諸国を巡り、三五歳の長享元年に日向国鵜戸大権現の岩屋に於いて頭の上で香を焚く修行と三七日の祈祷を行って霊験に依り極意を授かったとある。

元禄元年に儒医松下見林が「異称日本伝」で国の「武備誌」記載の「影流之目録」を一部紹介した。目録には「猿飛」「猿回」「山陰」等の太刀名がみられる。愛洲移香斎第二世愛洲宗通の門人上泉伊勢守信綱によってこれ等の一連の技は改良され、新陰流の「燕飛の太刀」として継承されている。愛洲移香斎久忠は天文七年(一五三八年)没、年八十七歳と記されている。

江戸時代になり、陰流は永禄七年の愛洲宗通・修理亮佐竹義重起請文に依り、兵法指南として佐竹氏に仕え、同家中(江戸時代は秋田)に道統を残した。

参考文献

  • 日高繁高 「本朝武芸小伝」
  • 下川 潮 「剣道の発達」
  • 大森 宣昌『 秋田平沢家蔵陰流剣術伝書の一考察』 立正大学教養部紀要(20)
  • 新陰流源流考 岡田一男 陰流(猿飛)の源流についての考察。

武備志の影流之目録

江戸時代元禄年間に大阪の儒医松下見林が「異称日本伝」で「武備志」所載の影流の目録等を紹介した。

武備志では、戚継光が辛西の陣上(一五六一年)で和寇からの戦利品として「影流之目録」得たと記されている。

愛洲久忠が命名した「影流」は常陸国太守佐竹義重公の兵法指南として仕えた二世愛洲美作守宗通(愛洲小七郎)の時、「陰流」の「陰」に変わっている。[1]

天保年間刊行の源徳修の「撃剣叢談」では「新陰流の古き免許状の記せる所を以って字を改む」として「武芸原始 影流」と「巻の一」に記載され剣法の源流とされている。


「陰之流 私」に就いて

「平澤家傅」には記載されて居らず「巻物」として代々同家に伝えられて居る、二代元香「宗通」の「陰之流 私」がある。

陰之流 私

  • 一、 兵法とは「縣侍」「表裏」の二つに尽きる。
  • 二、 此の流は性根を据えて学ばなければ会得出来ない。

初手に五ヶの稽古あり

  • 一、 立処 鬼面の如く立て
  • 二、 見処 釼先に目をつけ相手の二処を見放すな。
  • 三、 切処 切坪をはずすな。
  • 四、 程 我太刀を打ちつける折は矢の如く、引く折は用心して注意深くすべし。
  • 五、 玉歩 四方を面と心得て「玉歩」貴人の歩みをすべし。

中手

  • 一、 見処 敵の太刀の打ち処に目を付け、「明鏡」のようにする。
  • 二、 諾所 敵の剣が「死の位」に落ちたら水を提げて放す如くいっきに打ちかかれ。
  • 三、 勝所 一心一心、一眼に留め臆してはならない。

合処者

  • 一、 合処者 敵の太刀と吾が太刀が切り縮所拳で勝つ可し。
  • 二、 不合処者心・眼 左足の三つを以て勝つ可し、一つを外しても勝ち難し。

无手の根元

  • 一、 勝ちまじき処をキラふ是无手の根元也
  • 二、 勝ち可処を勝ず是臆病の根元也


出典 「平澤家傅」

陰流の伝播

佐竹義重の兵法指南となった2世愛洲美作守宗通は家臣団を引き連れ永禄の始め、伊勢国から常陸国に入部した。天正16年(1588年)義重より西那珂郡平澤の地を賜り地名をもって「平澤」姓に改めた。 『平澤家傅』を伝えた8代平澤通有の元禄年間には「目録十有七軸 所謂序之巻 参学巻 四箇巻 表之巻 裏之巻 中之巻 免之巻 位之巻 留之巻 陰陽之巻 決勝 三神巻 究極巻 霧霞巻 虎之巻 私三巻」伝書が相伝されたがその後は失伝している。

一方明朝・成化帝の御林軍の刀法に影響を与え[2] 。 、程宗献が嘉靖末期に日本刀の技術書『単刀法選』を著した。後に火器の一般化による軍隊の変化の中で日本刀を元にした刀法は正規軍の中では廃れ、一部民間の武術家の中で伝えられた。

参考文献

  • 笠尾恭二『中国武術史大観』福昌堂 1994年
  • 松下見林『異称日本伝』1693年(元禄6年)
  • 湯谷稔 『日明勘合貿易史料』国書刊行会 1983年
  • 源徳修『撃剣叢談』1843年(天保14年)
  • 大森 宣昌『 秋田平沢家蔵陰流剣術伝書の一考察』 立正大学教養部紀要(20) 1986年
  • 岡田 一男 『新陰流源流考』 日本体育学会大会号 1977

脚注

  1. ^ 秋田市平澤家文書
  2. ^ 中華人民共和国故宮博物院明・皇帝資料

外部リンク

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