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「酒井正親」の版間の差分

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寛政譜を出典一覧に掲載の実紀にも、正親(永禄元年)http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013601&VOL_NUM=00001&KOMA=21&ITYPE=0
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'''酒井 正親'''('''さかい まさちか'''、[[永正]]18年([[1521年]]) - [[天正]]4年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]([[1576年]][[8月15日]]))は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[松平氏]]([[徳川氏]])の家臣。[[松平清康]]・[[松平広忠|広忠]]・[[徳川家康]]の3代に仕えた。父は[[酒井清秀]]。子は[[酒井重忠]]、[[酒井忠利]]。娘は[[長沢松平家]]一門にして同家重臣の[[松平近清]]に嫁している。
'''酒井 正親'''('''さかい まさちか'''、[[永正]]18年([[1521年]]) - [[天正]]4年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]([[1576年]][[8月15日]]))は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[松平氏]]([[徳川氏]])の家臣。[[松平清康]]・[[松平広忠|広忠]]・[[徳川家康]]の3代に仕えた。父は[[酒井清秀]]。子は[[酒井重忠]]、[[酒井忠利]]。娘は[[長沢松平家]]一門にして同家重臣の[[松平近清]]に嫁している(追記) 。初名は政家 (追記ここまで)
改正三河後風土記、藩翰譜、東照宮御実紀など史書には、すべて、酒井正親(酒井雅楽助:うたのすけ、酒井雅楽助正親)になっている。


徳川実紀(東照宮御実紀)によると、主君徳川家康の初陣に付き従い、その働きを感嘆している。
徳川実紀(東照宮御実紀)によると、主君徳川家康の初陣に付き従い、その働きを感嘆している。

2008年7月27日 (日) 09:31時点における版

酒井 正親(さかい まさちか永正18年(1521年) - 天正4年7月21日(1576年 8月15日))は、室町時代後期から戦国時代にかけての松平氏(徳川氏)の家臣。松平清康広忠徳川家康の3代に仕えた。父は酒井清秀。子は酒井重忠酒井忠利。娘は長沢松平家一門にして同家重臣の松平近清に嫁している。初名は政家。

徳川実紀(東照宮御実紀)によると、主君徳川家康の初陣に付き従い、その働きを感嘆している。

三河国 坂井郷出身。家康が人質として駿府に送られた際に行動を共にしている。1561年に三河西尾城を攻め、落城後に城主となっている。

1576年7月21日、69歳で病死した。墓地は愛知県 岡崎市龍海院

兵庫県 姫路市姫路神社姫路藩主の祖である酒井正親を祭神としている。

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