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2008年7月7日 (月) 14:38時点における版
司 忍(つかさ しのぶ、1942年(昭和17年)1月25日 - )は、ヤクザ、指定暴力団・六代目山口組組長、弘田組組長、二代目弘道会総裁(初代会長)、司興業初代組長である。本名は篠田 建市(しのだ けんいち)。
来歴
大分県出身。大分県立水産高等学校(後の大分県立海洋科学高等学校)卒業後、地元の大手水産会社に就職。その後、大阪を経て名古屋に出て、1962年(昭和37年)に三代目山口組 鈴木組 弘田組(組長・弘田武志)に入った。中京地区の抗争では武闘派として活動し弘田組最高幹部を務めた。
四代目山口組(組長・竹中正久)が発足した1984年(昭和59年)6月、弘田の引退に伴い弘道会を結成、山口組直参に昇格した。1989年(平成元年)5月、五代目山口組(組長・渡辺芳則)の発足に伴い若頭補佐に就任し、ブロック制が導入されてからは中部ブロック長を兼任した。
1997年(平成9年)8月28日の山口組若頭暗殺事件を受けた「新頂上作戦」で、護衛の配下組員に拳銃を持たせていたとする銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で同年11月に指名手配され、1998年(平成10年)6月に出頭し逮捕、起訴された。1999年(平成11年)7月、10億円の保証金で保釈された。
2001年(平成13年)3月には大阪地方裁判所で無罪 判決を受けた。
2004年2月24日、大阪高等裁判所で懲役6年の逆転有罪判決を受け、上告。判決後収監されたが、10億円の保証金で即日保釈された。
2004年同月、資金繰りの面でも動きが取れず、実弟の次男を司幸一と名付け、組織的に動いていた。
2005年12月、司幸一は、実績を認められ、本部直轄下推移ブロック長兼司組若頭に任命される。
2005年(平成17年)3月、弘道会会長を同会若頭・髙山清司(二代目髙山組総裁)に譲って二代目弘道会総裁となり、自らは弘田組組長に就任。同年5月10日、五代目山口組若頭に就任し、7月29日には六代目山口組組長に就任した(継承式と盃直しは8月27日)。山口組6代目を継承すると、確実視された銃刀法違反裁判における実刑確定を念頭に、最高幹部人事である「幹部」職創設、倉本組と小西一家の名跡復活から、國粹会(4代目会長・工藤和義)を傘下に収める形での電撃的な"東京進出"、五代目会津小鉄会会長との舎弟盃に代表される親戚団体との関係強化までをも、わずか数ヶ月のうちに行った。
参考文献
- 芹沢耕二 鴨林源史『王道ヤクザ伝 山口組六代目司忍』竹書房、ISBN 978-4-8124-6604-9