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'''喜多郎'''(きたろう/本名:高橋正則)
'''喜多郎'''(きたろう/本名:高橋正則(追記) 、[[1953年]][[2月4日]] - (追記ここまで) )(追記) は、A型。[[愛知県]][[豊橋市]]出身。[[愛知県立豊橋商業高等学校]]卒業。 (追記ここまで)
[[1953年]][[2月4日]]生まれ 。A型 。
[[愛知県]][[豊橋市]]出身。[[愛知県立豊橋商業高等学校]]卒業。
世界的な[[シンセサイザー]][[音楽家|奏者]]であり[[作曲家]]でもある。2001年、米音楽界最高峰であるグラミー賞受賞、ノミネート13回。1994年、米映画『Heaven & Earth (監督; オリバー•ストーン)』でゴールデングローブ賞作曲賞受賞。
世界的な[[シンセサイザー]][[音楽家|奏者]]であり[[作曲家]]でもある。2001年、米音楽界最高峰であるグラミー賞受賞、ノミネート13回。1994年、米映画『Heaven & Earth (監督; オリバー•ストーン)』でゴールデングローブ賞作曲賞受賞。
自然環境からインスピレーションを取り入れた独自のクリエイティヴな作品は、世界でも高い評価を受けている。
自然環境からインスピレーションを取り入れた独自のクリエイティヴな作品は、世界でも高い評価を受けている。
毎年夏には[[富士山]]の5合目[[太郎坊]]駐車場にて、日没から夜明けまで約12時間かけた無料イベント[[富士山讃歌]]を行っている。これは年に一度、大地への感謝の気持ちを表現したファンと一体になったイベントである。
毎年夏には[[富士山]]の5合目[[太郎坊]]駐車場にて、日没から夜明けまで約12時間かけた無料イベント[[富士山讃歌]]を行っている。これは年に一度、大地への感謝の気持ちを表現したファンと一体になったイベントである。
[[田岡由伎]]([[山口組]]三代目組長の[[田岡一雄]]の娘)と1984年に再婚、長男をもうけるが6年後の1990年に離婚。1995年12月に現在の夫人と再々婚、夫人との間に子供はいないが夫人の連れ子が1人いる。
[[田岡由伎]]([[山口組]]三代目組長の[[田岡一雄]]の娘)と1984年に再婚、長男をもうけるが6年後の1990年に離婚。1995年12月に現在の夫人と再々婚、夫人との間に子供はいないが夫人の連れ子が1人いる。
2006年からは、アメリカの北カリフォルニアに在住。
2006年からは、アメリカの北カリフォルニアに在住。
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=== ソロ活動 ===
=== ソロ活動 ===
[[1978年]]、ソロとして活動を開始し、初のアルバム「天界」をリリース。
[[1978年]]、ソロとして活動を開始し、初のアルバム「天界」をリリース。
[[1979年]]には「大地」「OASIS」を発表する。
[[1979年]]には「大地」「OASIS」を発表する。
[[1980年]]、[[日本放送協会|NHK]]制作のドキュメンタリー番組 [[NHK特集]]「シルクロード」の音楽を担当し、そのテーマ曲は喜多郎の代表作の一つとなった。同年発売されたアルバム「シルクロード・絲綢之路」「シルクロード・絲綢之路 II」、[[パルコ劇場]]でのライブ録音「イン・パースン」は人気を集め、喜多郎の名が日本中に知られるようになる。
[[1980年]]、[[日本放送協会|NHK]]制作のドキュメンタリー番組 [[NHK特集]]「シルクロード」の音楽を担当し、そのテーマ曲は喜多郎の代表作の一つとなった。同年発売されたアルバム「シルクロード・絲綢之路」「シルクロード・絲綢之路 II」、[[パルコ劇場]]でのライブ録音「イン・パースン」は人気を集め、喜多郎の名が日本中に知られるようになる。
1981年、アルバム「敦煌」さらに「氣」を発表。
1981年、アルバム「敦煌」さらに「氣」を発表。
[[1982年]]には東映アニメ「[[1000年女王]]」(未CD化)の[[サウンドトラック]]を手がけ、初の全国ツアー(30都市)を行なう。[[1984年]]には[[アジア]]ツアーを行ない、[[台湾]]と[[中華人民共和国|中国]]で演奏した最初の日本人ミュージシャンとなった。
[[1982年]]には東映アニメ「[[1000年女王]]」(未CD化)の[[サウンドトラック]]を手がけ、初の全国ツアー(30都市)を行なう。[[1984年]]には[[アジア]]ツアーを行ない、[[台湾]]と[[中華人民共和国|中国]]で演奏した最初の日本人ミュージシャンとなった。
=== 海外進出 ===
=== 海外進出 ===
[[1985年]]、[[アメリカ合衆国|米国]][[ゲフィンレコード]]から6枚のアルバムがリリースされると喜多郎の世界に魅せられるファンが世界で急増する。
[[1985年]]、[[アメリカ合衆国|米国]][[ゲフィンレコード]]から6枚のアルバムがリリースされると喜多郎の世界に魅せられるファンが世界で急増する。
[[1986年]]、ゲフィンレコードと全世界の独占契約を結び、アルバム「天空」を発表。
[[1986年]]、ゲフィンレコードと全世界の独占契約を結び、アルバム「天空」を発表。
[[1987年]]、尊敬する『[[グレイトフル・デッド]]』の[[パーカッション]]奏者、[[ミッキー・ハート]]との共同プロデュースによるアルバム「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」を発表。テーマを"生命・死・そして復活"とし、アルバム「天空」から始まる喜多郎の生命サイクルに対する音楽的探求の表れであった。アルバム発表後、コロンバスの[[オハイオ・シアター]]を皮切りに日本人初の全米ツアー(25都市31公演)を行い、[[ニューヨーク]]、[[シカゴ]]、[[ボストン]]、[[ロサンゼルス]]をはじめ、多くの都市でチケットが完売を記録、大成功を収める。また、初めてアルバムと連動した同名のビデオ「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」も発表する。
[[1987年]]、尊敬する『[[グレイトフル・デッド]]』の[[パーカッション]]奏者、[[ミッキー・ハート]]との共同プロデュースによるアルバム「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」を発表。テーマを"生命・死・そして復活"とし、アルバム「天空」から始まる喜多郎の生命サイクルに対する音楽的探求の表れであった。アルバム発表後、コロンバスの[[オハイオ・シアター]]を皮切りに日本人初の全米ツアー(25都市31公演)を行い、[[ニューヨーク]]、[[シカゴ]]、[[ボストン]]、[[ロサンゼルス]]をはじめ、多くの都市でチケットが完売を記録、大成功を収める。また、初めてアルバムと連動した同名のビデオ「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」も発表する。
[[1988年]]には同アルバムからの楽曲"ザ・フィールド"で[[グラミー]]賞"ベスト・ニューエイジ・パフォーマンス"にノミネートされる。同年、自身による初のベストアルバム「10イヤーズ/[[The Best of 10 YEARS]]」を発表する。
[[1988年]]には同アルバムからの楽曲"ザ・フィールド"で[[グラミー]]賞"ベスト・ニューエイジ・パフォーマンス"にノミネートされる。同年、自身による初のベストアルバム「10イヤーズ/[[The Best of 10 YEARS]]」を発表する。
[[1989年]][[2月]]よりヨーロッパ・ツアー(15都市16公演)、さらに[[9月]]からは"Kitaro Live World Tour"を行い、北アメリカ、ヨーロッパ、日本と全52都市計55公演を行い、総動員数20万人を記録。
[[1989年]][[2月]]よりヨーロッパ・ツアー(15都市16公演)、さらに[[9月]]からは"Kitaro Live World Tour"を行い、北アメリカ、ヨーロッパ、日本と全52都市計55公演を行い、総動員数20万人を記録。
[[1993年]][[4月]]、[[ロサンゼルス]] (U.S.A.)に本拠地のある「[[ドーモレコード ]]DOMO Records Inc.,(DOMO Music Group)」に移籍。翌年『MANDALA』を発表し、世界中でのコンサートも続ける。新作発表の度にグラミー賞にノミネートされ、2001年度の第43回グラミー賞で『Thinking of You』が7回目のノミネートで受賞し、その後もノミネートされ続け、2008年度で13回目のノミネートに輝く。
[[1993年]][[4月]]、[[ロサンゼルス]] (U.S.A.)に本拠地のある「[[ドーモレコード ]]DOMO Records Inc.,(DOMO Music Group)」に移籍。翌年『MANDALA』を発表し、世界中でのコンサートも続ける。新作発表の度にグラミー賞にノミネートされ、2001年度の第43回グラミー賞で『Thinking of You』が7回目のノミネートで受賞し、その後もノミネートされ続け、2008年度で13回目のノミネートに輝く。
=== 日本の心と世界の心、ひとつに ===
=== 日本の心と世界の心、ひとつに ===
[[1990年]]、日本古来の物語と世界に伝わる伝説との融合を試みた雄大なコンセプトアルバム「古事記」を発表。米国[[ビルボード]]誌のニューエイジ部門アルバム・チャートで日本人初の8週連続第1位を獲得し、アメリカでの人気が不動のものとなる。
[[1990年]]、日本古来の物語と世界に伝わる伝説との融合を試みた雄大なコンセプトアルバム「古事記」を発表。米国[[ビルボード]]誌のニューエイジ部門アルバム・チャートで日本人初の8週連続第1位を獲得し、アメリカでの人気が不動のものとなる。
同年、米国コロラド州に移住。アルバム発表後のワールド・ツアーでは「古事記」をダイナミックに展開し、そのコンサート模様は、翌1991年にアルバム「Live in America」及びビデオ「KOJIKI : A Story in Concert」として発表される。また「古事記」はグラミー賞ベスト・ニューエイジ・アルバムにノミネートされる。
同年、米国コロラド州に移住。アルバム発表後のワールド・ツアーでは「古事記」をダイナミックに展開し、そのコンサート模様は、翌1991年にアルバム「Live in America」及びビデオ「KOJIKI : A Story in Concert」として発表される。また「古事記」はグラミー賞ベスト・ニューエイジ・アルバムにノミネートされる。
[[1993年]]、[[オリバー・ストーン]]監督作品映画「天と地([[Heaven and Earth]])」の音楽監督を務め、同名のサウンドトラック・アルバムを発表。翌年1994年、第51回ゴールデングローブ賞、作曲賞を受賞する。
[[1993年]]、[[オリバー・ストーン]]監督作品映画「天と地([[Heaven and Earth]])」の音楽監督を務め、同名のサウンドトラック・アルバムを発表。翌年1994年、第51回ゴールデングローブ賞、作曲賞を受賞する。
同年発表したアルバム「ドリーム」で、プログレロック・グループ『[[イエス (バンド)|イエス]]』のヴォーカリスト、[[ジョン・アンダーソン (イエス)|ジョン・アンダーソン]]と共演。同アルバムで喜多郎は3度目のグラミー賞ノミネートを果たす。
同年発表したアルバム「ドリーム」で、プログレロック・グループ『[[イエス (バンド)|イエス]]』のヴォーカリスト、[[ジョン・アンダーソン (イエス)|ジョン・アンダーソン]]と共演。同アルバムで喜多郎は3度目のグラミー賞ノミネートを果たす。
[[1993年]]、喜多郎は[[ドーモレコード]]と契約。
[[1993年]]、喜多郎は[[ドーモレコード]]と契約。
翌年の1994年、アルバム「マンダラ」を発表。この作品は、生活、レコーディング、そしてツアーと、活動の場をアメリカに求めてきた喜多郎のアーティストとしての評価を一層高める。
翌年の1994年、アルバム「マンダラ」を発表。この作品は、生活、レコーディング、そしてツアーと、活動の場をアメリカに求めてきた喜多郎のアーティストとしての評価を一層高める。
[[1995年]]に発表したアルバム「an enchanted (削除) evening〜 (削除ここまで)天空への響き」そして同名のライブ・ビデオは2年連続のグラミー賞ノミネートとなる。
[[1995年]]に発表したアルバム「an enchanted (追記) evening 〜 (追記ここまで) 天空への響き」そして同名のライブ・ビデオは2年連続のグラミー賞ノミネートとなる。
[[1996年]]、クリスマス・アルバム「Peace on Earth」を発表。
[[1996年]]、クリスマス・アルバム「Peace on Earth」を発表。
[[1997年]]、喜多郎は[[ブロードウェイ]]演劇のテクニックと幻想的なストーリーが織り成すユニークなサーカス&ミュージカル「[[サーキュ・インジュヌー]]」の音楽を手がけ、同名のオリジナルスコア・アルバムを発表。また、メイベル・チャン監督作品、映画「宋家の三姉妹」の音楽を手がけ、香港の金像奨、及び台湾の金馬奨で最優秀オリジナル音楽賞を受賞。
[[1997年]]、喜多郎は[[ブロードウェイ]]演劇のテクニックと幻想的なストーリーが織り成すユニークなサーカス&ミュージカル「[[サーキュ・インジュヌー]]」の音楽を手がけ、同名のオリジナルスコア・アルバムを発表。また、メイベル・チャン監督作品、映画「宋家の三姉妹」の音楽を手がけ、香港の金像奨、及び台湾の金馬奨で最優秀オリジナル音楽賞を受賞。
[[1998年]]、喜多郎は[[長野県]]の祭り"[[御柱祭]]"で、その木遣り唄を主題にしたアルバム「GAIA-ONBASHIRA」を発表。同年NHK番組「四国八十八か所」の音楽を担当。同年のアジア・ツアーでは「古事記」収録曲"響宴"が女性を中心とした若者たちからの人気を集め、新しいファン層を広げる。「GAIA-ONBASHIRA」で6度目のグラミー賞ノミネートを果たす。
[[1998年]]、喜多郎は[[長野県]]の祭り"[[御柱祭]]"で、その木遣り唄を主題にしたアルバム「GAIA-ONBASHIRA」を発表。同年NHK番組「四国八十八か所」の音楽を担当。同年のアジア・ツアーでは「古事記」収録曲"響宴"が女性を中心とした若者たちからの人気を集め、新しいファン層を広げる。「GAIA-ONBASHIRA」で6度目のグラミー賞ノミネートを果たす。
1999年、春には"Kitaro 1999 New Millennium World Tour in U.S.A."を行なう。
1999年、春には"Kitaro 1999 New Millennium World Tour in U.S.A."を行なう。
[[2000年]]、アルバム「[[Thinking of you]]」を完成し、翌年2001年度の第43回グラミー賞(ベスト ニューエイジ部門)を受賞する。
[[2000年]]、アルバム「[[Thinking of you]]」を完成し、翌年2001年度の第43回グラミー賞(ベスト ニューエイジ部門)を受賞する。
2008年3月24日 (月) 07:55時点における版
喜多郎 (きたろう/本名:高橋正則、1953年 2月4日 - )は、A型。愛知県 豊橋市 出身。愛知県立豊橋商業高等学校 卒業。
世界的なシンセサイザー 奏者 であり作曲家 でもある。2001年、米音楽界最高峰であるグラミー賞受賞、ノミネート13回。1994年、米映画『Heaven & Earth (監督; オリバー•ストーン)』でゴールデングローブ賞作曲賞受賞。
自然環境からインスピレーションを取り入れた独自のクリエイティヴな作品は、世界でも高い評価を受けている。
毎年夏には富士山 の5合目太郎坊 駐車場にて、日没から夜明けまで約12時間かけた無料イベント富士山讃歌 を行っている。これは年に一度、大地への感謝の気持ちを表現したファンと一体になったイベントである。
田岡由伎 (山口組 三代目組長の田岡一雄 の娘)と1984年に再婚、長男をもうけるが6年後の1990年に離婚。1995年12月に現在の夫人と再々婚、夫人との間に子供はいないが夫人の連れ子が1人いる。
2006年からは、アメリカの北カリフォルニアに在住。
来歴
シンセサイザーとの出会い
1970年代 はじめ、喜多郎は『ファーイースト・ファミリーバンド 』のメンバーとして訪れたヨーロッパ で、ドイツ のシンセサイザー 奏者クラウス・シュルツ と出会う。シンセサイザーにすっかり魅了された喜多郎は帰国後、自分の音楽とシンセサイザーの接点を見いだした。
尚、喜多郎という名称は、高校時代に長髪にしていたため、ニックネームでキタロウ("ゲゲゲの鬼太郎"による)と呼ばれていたことから、"キタロウ"に別の漢字を割り当てて名前をつけたものである(本人の随筆/写真集『喜多郎 Kitaro』による)。
ソロ活動
1978年 、ソロとして活動を開始し、初のアルバム「天界」をリリース。
1979年 には「大地」「OASIS」を発表する。
1980年 、NHK 制作のドキュメンタリー番組 NHK特集 「シルクロード」の音楽を担当し、そのテーマ曲は喜多郎の代表作の一つとなった。同年発売されたアルバム「シルクロード・絲綢之路」「シルクロード・絲綢之路 II」、パルコ劇場 でのライブ録音「イン・パースン」は人気を集め、喜多郎の名が日本中に知られるようになる。
1981年、アルバム「敦煌」さらに「氣」を発表。
1982年 には東映アニメ「1000年女王 」(未CD化)のサウンドトラック を手がけ、初の全国ツアー(30都市)を行なう。1984年 にはアジア ツアーを行ない、台湾 と中国 で演奏した最初の日本人ミュージシャンとなった。
海外進出
1985年 、米国 ゲフィンレコード から6枚のアルバムがリリースされると喜多郎の世界に魅せられるファンが世界で急増する。
1986年 、ゲフィンレコードと全世界の独占契約を結び、アルバム「天空」を発表。
1987年 、尊敬する『グレイトフル・デッド 』のパーカッション 奏者、ミッキー・ハート との共同プロデュースによるアルバム「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」を発表。テーマを"生命・死・そして復活"とし、アルバム「天空」から始まる喜多郎の生命サイクルに対する音楽的探求の表れであった。アルバム発表後、コロンバスのオハイオ・シアター を皮切りに日本人初の全米ツアー(25都市31公演)を行い、ニューヨーク 、シカゴ 、ボストン 、ロサンゼルス をはじめ、多くの都市でチケットが完売を記録、大成功を収める。また、初めてアルバムと連動した同名のビデオ「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」も発表する。
1988年 には同アルバムからの楽曲"ザ・フィールド"でグラミー 賞"ベスト・ニューエイジ・パフォーマンス"にノミネートされる。同年、自身による初のベストアルバム「10イヤーズ/The Best of 10 YEARS 」を発表する。
1989年 2月 よりヨーロッパ・ツアー(15都市16公演)、さらに9月 からは"Kitaro Live World Tour"を行い、北アメリカ、ヨーロッパ、日本と全52都市計55公演を行い、総動員数20万人を記録。
1993年 4月 、ロサンゼルス (U.S.A.)に本拠地のある「ドーモレコード DOMO Records Inc.,(DOMO Music Group)」に移籍。翌年『MANDALA』を発表し、世界中でのコンサートも続ける。新作発表の度にグラミー賞にノミネートされ、2001年度の第43回グラミー賞で『Thinking of You』が7回目のノミネートで受賞し、その後もノミネートされ続け、2008年度で13回目のノミネートに輝く。
日本の心と世界の心、ひとつに
1990年 、日本古来の物語と世界に伝わる伝説との融合を試みた雄大なコンセプトアルバム「古事記」を発表。米国ビルボード 誌のニューエイジ部門アルバム・チャートで日本人初の8週連続第1位を獲得し、アメリカでの人気が不動のものとなる。
同年、米国コロラド州に移住。アルバム発表後のワールド・ツアーでは「古事記」をダイナミックに展開し、そのコンサート模様は、翌1991年にアルバム「Live in America」及びビデオ「KOJIKI : A Story in Concert」として発表される。また「古事記」はグラミー賞ベスト・ニューエイジ・アルバムにノミネートされる。
1993年 、オリバー・ストーン 監督作品映画「天と地(Heaven and Earth )」の音楽監督を務め、同名のサウンドトラック・アルバムを発表。翌年1994年、第51回ゴールデングローブ賞、作曲賞を受賞する。
同年発表したアルバム「ドリーム」で、プログレロック・グループ『イエス 』のヴォーカリスト、ジョン・アンダーソン と共演。同アルバムで喜多郎は3度目のグラミー賞ノミネートを果たす。
1993年 、喜多郎はドーモレコード と契約。
翌年の1994年、アルバム「マンダラ」を発表。この作品は、生活、レコーディング、そしてツアーと、活動の場をアメリカに求めてきた喜多郎のアーティストとしての評価を一層高める。
1995年 に発表したアルバム「an enchanted evening 〜天空への響き」そして同名のライブ・ビデオは2年連続のグラミー賞ノミネートとなる。
1996年 、クリスマス・アルバム「Peace on Earth」を発表。
1997年 、喜多郎はブロードウェイ 演劇のテクニックと幻想的なストーリーが織り成すユニークなサーカス&ミュージカル「サーキュ・インジュヌー 」の音楽を手がけ、同名のオリジナルスコア・アルバムを発表。また、メイベル・チャン監督作品、映画「宋家の三姉妹」の音楽を手がけ、香港の金像奨、及び台湾の金馬奨で最優秀オリジナル音楽賞を受賞。
1998年 、喜多郎は長野県 の祭り"御柱祭 "で、その木遣り唄を主題にしたアルバム「GAIA-ONBASHIRA」を発表。同年NHK番組「四国八十八か所」の音楽を担当。同年のアジア・ツアーでは「古事記」収録曲"響宴"が女性を中心とした若者たちからの人気を集め、新しいファン層を広げる。「GAIA-ONBASHIRA」で6度目のグラミー賞ノミネートを果たす。
1999年、春には"Kitaro 1999 New Millennium World Tour in U.S.A."を行なう。
2000年 、アルバム「Thinking of you 」を完成し、翌年2001年度の第43回グラミー賞(ベスト ニューエイジ部門)を受賞する。
2000年以降の活動
2000年 4月、世界環境会議 において、国際環境議員連盟 (GLOBE:国連が認めた唯一国会議員のためのNGO 組織)より、グローブカウンシルの一員に迎えられ、国際環境アーチストとしての役割を担う。同年7月、NHK開局75周年記念番組「四大文明」の音楽を手がけ、そのテーマ曲"母なる大河"においてカウンター・テナーのスラヴァと共演。同楽曲を含むサウンドトラック「エンシェント」を発表、その後東南アジアツアーを行なう。
また、現代舞踏家玉野黄市 とハルピン派による幻想的な創作舞踊と、喜多郎の神秘的な音楽の共演が斬新だった新潟県 清水園 でのコンサートの映像作品「TAMAYURA」を発表する。
2001年 1月、「四大文明」関連のアルバム「永遠の時を〜An Ancient Journey」を発表。日本では6年振りとなる本格的なコンサートツアー"Sound Odyssey 2001〜featuring ANCIENT〜"を行なう。同年2月、アルバム「Thinking of you」で第43回グラミー賞でベスト・ニューエイジ・アルバム賞を受賞。同年5月、グラミー賞受賞記念盤として2枚組アルバム「KITARO」を発表する。そして、自身の原点とも言えるシルクロードを振り返ることを宣言し、同年8月、そのスタートとして、薬師寺 玄奘三蔵院伽藍にてコンサートを行う。
2002年 1月、アルバム「エンシェント」で 8回目のグラミー賞ノミネートを果たす。同年10月、日中国交回復30周年記念コンサートを、北京天覧館劇場で開催し、満席の中で喝采を博す。
2003年 1月、アルバム「永遠の時を〜An Ancient Journey」は、第45回グラミー賞で9回目のノミネートを果たす。
2001年 9月、アメリカ同時多発テロ が発生。同日喜多郎を乗せアメリカ本土へ向かっていた飛行機 はハワイ に緊急着陸 する。音楽家として世界平和に貢献できるようにと、同年12月 四国へ向かう。人の心に安らぎを与えるといわれる鐘の音を作品に取り入れる為、四国八十八箇所 の寺の鐘の音の録音を開始。およそ10年、全88曲で完成する空海のたびプロジェクトを開始。
2003年 に「空海の旅」を発売。
2004年 、「空海の旅」が、第46回グラミー賞で10回目のノミネートをされる。同年夏、東南アジア ツアーを敢行。8月28〜29日金華山 と長良川 をバックに、チャリティーコンサート「喜多郎〜長良川 を奏でる〜」を岐阜市 の長良川公園 で開催。
2005年 2月「空海の旅2」を発売。
翌年2006年 、「空海の旅2」が、第47回グラミー賞で12回目のノミネートをされ、歴史的快挙となる「空海の旅」シリーズ連続のノミネートを果たした。同年2月1日、喜多郎のワールド・ツアーのキーボーディストでもある「Keiko」とのコラボレーションで制作された「スピリチュアル・ガーデン」をリリース。
2006 後半〜2007年 前半、中国の著名な映画監督:張芸謀 (チャン・イーモウ)監督製作の、中国杭州西湖での水上舞台の音楽を作曲担当した。また、喜多郎の出身地である豊岡市の市制100周年記念作品「早咲きの花(監督:菅原浩志/主演:浅丘ルリ子)」の映画音楽を担当し、花火師の役で出演もした。
2007年 、9月25日には、全米でシリーズ第3弾「空海の旅3」がドーモレコード より発売される。
翌年2008年 、「空海の旅3」が、第50回グラミー賞で13回目のノミネートをされ、「空海の旅」シリーズ3作全てがノミネートされる。
受賞歴
作品
アルバム
1982年 シルクロード(絲綢之路) (NHK特集「シルクロード」サウンドトラック・キャニオンレコード・CD-D50P6243)
1983年 OASIS オアシス (CD・D35R0003・キャニオンレコード)
1983年 敦煌 (CD・D35R0006・キャニオンレコード)
1983年 気 (「気」の内側の〆は「米」・NHK特集「喜多郎&秀星」サウンドトラック・キャニオンレコード・CD-D35R0007)
〜1986年までに発表されたアルバム シルクロード天竺 飛雲 亜細亜
回想 (ベストアルバム・サウンドデザイン発売・CD-P33S20024)
(以上のアルバム発表年はCDの発売年によるもので、レコード・カセットテープの発売と時期がずれている可能性があります)
外部リンク