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范陽祖氏の出身で、父は[[北斉]]の[[僕射]]を務めた[[祖珽]]。
范陽祖氏の出身で、父は[[北斉]]の[[僕射]]を務めた[[祖珽]]。


博学で記憶力がよく、文才があり、広く名を知られていた。体格は小柄であった。
博学で記憶力がよく、文才があり、広く名を知られていた(追記) <ref>{{Cite wikisource|title=資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年)|author=資治通鑑 巻183 |wslanguage=zh}} - 博學強記,文辭贍敏,著名海內</ref> (追記ここまで)。体格は小柄であった(追記) <ref>{{Cite wikisource|title=隋書/卷76#祖君彥|author=隋書 巻76 祖君彦|wslanguage=zh}} - 容貌短小</ref> (追記ここまで)


[[薛道衡]]が隋の文帝[[楊堅]]に推薦したが、[[斛律光]]の謀殺を首謀した祖珽の子であるとして採用しなかった。[[煬帝]]の治世になると、名士を忌み嫌った煬帝によって[[洛陽市|洛陽]]の書佐から(削除) 検校 (削除ここまで)[[東平郡(削除) |宿城県 (削除ここまで)]]令に(削除) 移動となり (削除ここまで)、世間からは祖宿城と呼ばれた。己の才を自負し、その不遇さから常に鬱々としていた。
[[薛道衡]]が隋の文帝[[楊堅]]に推薦したが、[[斛律光]]の謀殺を首謀した祖珽の子であるとして採用しなかった。[[煬帝]]の治世になると、名士を忌み嫌った煬帝によって[[洛陽市|洛陽]]の書佐から[[東平郡]](追記) の書佐および検校宿城 (追記ここまで)令に(追記) 転任し (追記ここまで)、世間からは祖宿城と呼ばれた。己の才を自負し、その不遇さから常に鬱々としていた(追記) <ref>{{Cite wikisource|title=新唐書/卷084#李密|author=新唐書 巻84|wslanguage=zh}} - 薛道衡嘗薦之隋文帝,帝曰:「是非殺斛律明月人兒邪?朕無用之。」煬帝立,尤忌知名士,遂調東都書佐,檢校宿城令,世謂祖宿城。負其才,常郁郁思亂。</ref><ref>{{Cite wikisource|title=資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年)|author=資治通鑑 巻183|wslanguage=zh}} - 吏部侍郎薛道衡嘗薦之於高祖,高祖曰:「是歌殺斛律明月人兒邪?朕不須此輩!」煬帝即位,尤疾其名,依常調選東平書佐,檢校宿城令。君彥自負其才,常鬱鬱思亂。</ref> (追記ここまで)


(削除) [[東平郡]]が (削除ここまで)群雄の(削除) [[翟譲]]によって陥れられると、その配下である (削除ここまで)[[李密 (隋)|李密]]は祖君彦の名を慕って上客として迎え入れ、礼遇した。李密が政権を立てると記室となり、軍書や檄文作成を担い、煬帝の十の罪をならべて糾弾した檄文『為李密檄洛州文』などを作った。
群雄の[[李密 (隋)|李密]]は祖君彦の名を慕って上客として迎え入れ、礼遇した。李密が政権を立てると記室となり、軍書や檄文作成を担い、煬帝の十の罪をならべて糾弾した檄文『為李密檄洛州文』などを作った(追記) <ref>{{Cite wikisource|title=隋書/卷76#祖君彥|author=隋書 巻76 祖君彦|wslanguage=zh}} - 郡陷於翟讓,因為李密所得。密甚禮之,署為記室,軍書羽檄,皆成於其手。</ref><ref>{{Cite wikisource|title=資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年)|author=資治通鑑 巻183|wslanguage=zh}} - 密素聞其名,得之大喜,引為上客,軍中書檄,一以委之。</ref><ref>{{Cite wikisource|title=資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年)|author=資治通鑑 巻183|wslanguage=zh}} - 密使其幕府移檄郡縣,數煬帝十罪,且曰:「罄南山之竹,書罪無窮;決東海之波,流惡難盡。」祖君彥之辭也。</ref> (追記ここまで)


[[王世充]]との戦いにおいて[[偃師区|偃師]]が陥落した際に捕虜となった。王世充が「お前は賊のために国を罵ったが、まだ罵り足らぬか」と詰ると、「[[盗跖]]の門客となれば[[許由]]であっても害することができる(主人のためなら高潔な人物を殺すことさえ厭わない)ものだが、そこまで至らなかったことをただ恥じるのみだ」と悪態をついた。王世充によって打ち据えられ、ついには「筆を弄して余罪を生ずる」という理由で殺害され、遺体は見せしめとして偃師にさらされた。
[[王世充]]との戦いにおいて[[偃師区|偃師]]が陥落した際に捕虜となった(追記) <ref>{{Cite wikisource|title=資治通鑑/卷186#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年)|author=資治通鑑 巻186|wslanguage=zh}} - 世充夜圍偃師;鄭頲守偃師,其部下翻城納世充。初,世充家屬在江都,隨宇文化及至滑台,又隨王軌入李密,密留於偃師,欲以招世充。及偃師破,世充得其兄世偉、子玄應、虔恕、瓊等,又獲密將佐裴仁基、鄭頲、祖君彥等數十人。</ref> (追記ここまで)。王世充が「お前は賊のために国を罵ったが、まだ罵り足らぬか」と詰ると、「[[盗跖]]の門客となれば[[許由]]であっても害することができる(主人のためなら高潔な人物を殺すことさえ厭わない)ものだが、そこまで至らなかったことをただ恥じるのみだ」と悪態をついた。王世充によって打ち据えられ、ついには「筆を弄して余罪を生ずる」という理由で殺害され、遺体は見せしめとして偃師にさらされた(追記) <ref>{{Cite wikisource|title=新唐書/卷084#李密|author=新唐書 巻84|wslanguage=zh}} - 密敗,世充見之,曰:「汝為賊罵國足未?」君彥曰:「跖客可使刺由,但愧不至耳!」世充令撲之。既困臥樹下,世充已自欲盜隋,中悔,命醫許惠照往視之,欲其蘇。郎將王拔柱曰:「弄筆生有余罪。」乃蹙其心,即死,戮屍於偃師。</ref> (追記ここまで)


== 関連項目 ==
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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*『[[隋書]]』巻76 列伝第41
*『[[隋書]]』巻76 列伝第41
*『[[旧唐書]]』巻53 列伝第3
*『[[旧唐書]]』巻53 列伝第3
*『[[新唐書]]』巻84 列伝第9
*『[[新唐書]]』巻84 列伝第9
*『[[資治通鑑]]』巻183(削除) - (削除ここまで)186
*『[[資治通鑑]]』巻183(追記) 、巻 (追記ここまで)186


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2024年6月24日 (月) 08:02時点における版

祖 君彦(そ くんげん、生年不詳 - 618年頃)は、中国の官吏、文人本貫范陽郡 遒県(現在の河北省 保定市 淶水県)。

生涯

范陽祖氏の出身で、父は北斉僕射を務めた祖珽

博学で記憶力がよく、文才があり、広く名を知られていた[1] 。体格は小柄であった[2]

薛道衡が隋の文帝楊堅に推薦したが、斛律光の謀殺を首謀した祖珽の子であるとして採用しなかった。煬帝の治世になると、名士を忌み嫌った煬帝によって洛陽の書佐から東平郡の書佐および検校宿城令に転任し、世間からは祖宿城と呼ばれた。己の才を自負し、その不遇さから常に鬱々としていた[3] [4]

群雄の李密は祖君彦の名を慕って上客として迎え入れ、礼遇した。李密が政権を立てると記室となり、軍書や檄文作成を担い、煬帝の十の罪をならべて糾弾した檄文『為李密檄洛州文』などを作った[5] [6] [7]

王世充との戦いにおいて偃師が陥落した際に捕虜となった[8] 。王世充が「お前は賊のために国を罵ったが、まだ罵り足らぬか」と詰ると、「盗跖の門客となれば許由であっても害することができる(主人のためなら高潔な人物を殺すことさえ厭わない)ものだが、そこまで至らなかったことをただ恥じるのみだ」と悪態をついた。王世充によって打ち据えられ、ついには「筆を弄して余罪を生ずる」という理由で殺害され、遺体は見せしめとして偃師にさらされた[9]

関連項目

ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:作者:祖君彥

脚注

  1. ^ ウィキソース出典 資治通鑑 巻183 (中国語), 資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年) , ウィキソースより閲覧。  - 博學強記,文辭贍敏,著名海內
  2. ^ ウィキソース出典 隋書 巻76 祖君彦 (中国語), 隋書/卷76#祖君彥 , ウィキソースより閲覧。  - 容貌短小
  3. ^ ウィキソース出典 新唐書 巻84 (中国語), 新唐書/卷084#李密 , ウィキソースより閲覧。  - 薛道衡嘗薦之隋文帝,帝曰:「是非殺斛律明月人兒邪?朕無用之。」煬帝立,尤忌知名士,遂調東都書佐,檢校宿城令,世謂祖宿城。負其才,常郁郁思亂。
  4. ^ ウィキソース出典 資治通鑑 巻183 (中国語), 資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年) , ウィキソースより閲覧。  - 吏部侍郎薛道衡嘗薦之於高祖,高祖曰:「是歌殺斛律明月人兒邪?朕不須此輩!」煬帝即位,尤疾其名,依常調選東平書佐,檢校宿城令。君彥自負其才,常鬱鬱思亂。
  5. ^ ウィキソース出典 隋書 巻76 祖君彦 (中国語), 隋書/卷76#祖君彥 , ウィキソースより閲覧。  - 郡陷於翟讓,因為李密所得。密甚禮之,署為記室,軍書羽檄,皆成於其手。
  6. ^ ウィキソース出典 資治通鑑 巻183 (中国語), 資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年) , ウィキソースより閲覧。  - 密素聞其名,得之大喜,引為上客,軍中書檄,一以委之。
  7. ^ ウィキソース出典 資治通鑑 巻183 (中国語), 資治通鑑/卷183#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年) , ウィキソースより閲覧。  - 密使其幕府移檄郡縣,數煬帝十罪,且曰:「罄南山之竹,書罪無窮;決東海之波,流惡難盡。」祖君彥之辭也。
  8. ^ ウィキソース出典 資治通鑑 巻186 (中国語), 資治通鑑/卷186#煬皇帝下義寧元年(丁丑,公元六一七年) , ウィキソースより閲覧。  - 世充夜圍偃師;鄭頲守偃師,其部下翻城納世充。初,世充家屬在江都,隨宇文化及至滑台,又隨王軌入李密,密留於偃師,欲以招世充。及偃師破,世充得其兄世偉、子玄應、虔恕、瓊等,又獲密將佐裴仁基、鄭頲、祖君彥等數十人。
  9. ^ ウィキソース出典 新唐書 巻84 (中国語), 新唐書/卷084#李密 , ウィキソースより閲覧。  - 密敗,世充見之,曰:「汝為賊罵國足未?」君彥曰:「跖客可使刺由,但愧不至耳!」世充令撲之。既困臥樹下,世充已自欲盜隋,中悔,命醫許惠照往視之,欲其蘇。郎將王拔柱曰:「弄筆生有余罪。」乃蹙其心,即死,戮屍於偃師。

参考文献

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