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== 来歴 ==
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[[高知市立城西中学校]]から[[土佐中学校・高等学校|土佐高等学校]]に進学。野球部では[[捕手]]。{{by|(追記) 1952 (追記ここまで)年}}、2年生の時に[[第24回選抜高等学校野球大会]]に出場したが初戦敗退。3年次は主将として、春夏連続甲子園出場。[[第25回選抜高等学校野球大会]]は2回戦で敗退したが、夏の[[第35回全国高等学校野球選手権大会]]では決勝まで進出。[[児玉泰|空谷泰]]を擁する[[愛媛県立松山商業高等学校]]との決勝戦では、9回表に勝利目前[[ファウルチップ]]を落球、直後に空谷に同点打を放たれ、延長13回に決勝点を許し準優勝に終わった。


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== エピソード ==
== エピソード ==
* [[第55回全国高等学校野球選手権大会]]2回戦の[[作新学院高等学校|作新学院]]対[[千葉県立銚子商業高等学校|銚子商]]、作新の[[江川卓 (野球)|江川卓]]が延長12回に押し出し四球を与え作新がサヨナラ負けで敗退した試合の主審を務めていた<ref>{{Cite book|和書 |title=アサヒグラフ ’73年熱戦・甲子園号 |year=1973 |publisher=朝日新聞社 |page=81}}</ref>。
{{by|1988年}}の[[第60回選抜高等学校野球大会]]の神港学園対福島北戦では捕手の本塁上のブロックに対して[[走塁妨害]]([[コリジョンルール]])を適用し、{{by|1992年}}の[[第64回選抜高等学校野球大会]]の決勝戦、帝京対東海大相模戦では打者の2ストライク後の止めたバットによるファウルでのカットをスリーバント失敗で三振とした。どちらも「フェアプレー精神に基づく項目」と説明している。
(追記) * (追記ここまで){{by|1988年}}の[[第60回選抜高等学校野球大会]]の神港学園対福島北戦では捕手の本塁上のブロックに対して[[走塁妨害]]([[コリジョンルール]])を適用し、{{by|1992年}}の[[第64回選抜高等学校野球大会]]の決勝戦、帝京対東海大相模戦では打者の2ストライク後の止めたバットによるファウルでのカットをスリーバント失敗で三振とした。どちらも「フェアプレー精神に基づく項目」と説明している。


== 書籍 ==
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[[Category:日本のアマチュア野球選手]]
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[[Category:土佐高等学校出身の人物]]
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2024年8月13日 (火) 08:35時点における最新版

永野 元玄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県
生年月日 (1936年02月26日) 1936年 2月26日(88歳)
選手情報
ポジション 捕手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
この表について
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永野 元玄(ながの もとはる、1936年 2月26日 - )は、日本高校野球 審判員、元社会人野球選手。高知県出身。

来歴

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高知市立城西中学校から土佐高等学校に進学。野球部では捕手1952年、2年生の時に第24回選抜高等学校野球大会に出場したが初戦敗退。3年次は主将として、春夏連続甲子園出場。第25回選抜高等学校野球大会は2回戦で敗退したが、夏の第35回全国高等学校野球選手権大会では決勝まで進出。空谷泰を擁する愛媛県立松山商業高等学校との決勝戦では、9回表に勝利目前ファウルチップを落球、直後に空谷に同点打を放たれ、延長13回に決勝点を許し準優勝に終わった。

慶應義塾大学では藤田元司とバッテリーを組んだ。藤田からはゲンゲンと呼ばれていた。その後は住友金属で5年間プレーし、1964年から1993年まで30シーズン、甲子園審判員を務めた。1979年第61回全国高等学校野球選手権大会3回戦(箕島対星稜延長18回)の球審も務めている[1] 1994年からは審判委員幹事、以後日本高等学校野球連盟常任理事[2]

エピソード

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書籍

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  • 『球審は永野さん』(大園康志著、ゆいぽおと)

脚注

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  1. ^ 芦部聡 (2018年8月9日). "<白熱座談会>甲子園史上最強公立高を探せ。〜永野元玄/小野塚康之/かみじょうたけし〜". Sports Graphic NumberWEB. 2021年6月2日閲覧。(全文の閲覧には有料会員登録が必要)
  2. ^ 森岡浩『甲子園高校野球人名事典』東京堂出版、2004年、pp.211‐212、ISBN 978-4490106503
  3. ^ 『アサヒグラフ ’73年熱戦・甲子園号』朝日新聞社、1973年、81頁。 

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