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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ファイル:大道寺家累代之墓.jpg|サムネイル|大道寺家累代之墓(弘前市新寺町・貞昌寺)]]
[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])、[[紀伊国]][[牟婁郡]][[藤縄]]<ref>武蔵国の舎人氏、とする異説あり。</ref>の住人・舎人経忠と[[後北条氏]]家臣・[[遠山綱景]]の娘との間に誕生した。幼名は勇丸。
[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])、[[紀伊国]][[牟婁郡]][[藤縄]]<ref>武蔵国の舎人氏、とする異説あり。</ref>の住人・舎人経忠と[[後北条氏]]家臣・[[遠山綱景]]の娘との間に誕生した。幼名は勇丸。


[[永禄]]6年([[1563年]])の[[国府台合戦#第二次国府台合戦(永禄6年・永禄7年/1563年・1564年)|第二次国府台合戦]]において遠山綱景と共に舎人経忠が戦死した。
[[永禄]]6年([[1563年]])の[[国府台合戦#第二次国府台合戦(永禄6年・永禄7年/1563年・1564年)|第二次国府台合戦]]において遠山綱景と共に舎人経忠が戦死した(追記) 。直英の母は実家の遠山家を頼り、北条氏家臣の大道寺政繁と再婚し、直英は政繁の養子となった。その後、4人の異父兄弟(嫡男・[[大道寺直繁|直繁]]、次男・[[大道寺直重|直重]]、三男・弁誉上人<ref>江戸深川本誓寺二世</ref>、四男・[[大道寺直次|直次]])が生まれたが、直英は養子のため、系図などでは最年長ながら五男と記載されている (追記ここまで)


[[天正]]10年([[1582年]])、主君・[[北条氏直]]は[[徳川家康]]の次女・[[督姫]]との婚礼を機に同盟を結ぶ。その頃、[[河越衆]]を率いていた義父・政繁は、[[武蔵国]][[川越城]]だけではなく同盟の結果により北条氏領土として確定した[[上野国]][[松井田城]]を任されており、直英を河越城の城代とし、政繁と次男・直重が松井田城の城代、嫡男・直繁と四男・直次が[[小田原城]]に家臣として居住していた。この間、川越城や松井田城などの諸城を拡張・改修<ref>河越城の三の丸と八幡郭など拡張、松井田城の大道寺郭構築など。</ref>した際、直英もその任に当ったとされる。
直英の母は実家の遠山家を頼り、北条氏家臣の大道寺政繁と再婚し、直英は政繁の養子となった。二男大学は京都の松野家に養子に出された。


天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]が始まると、政繁ら河越衆は松井田城を拠点として、[[中山道]]方面からの豊臣方別働隊の迎撃を担当、直英は他の大道寺一族と共に河越城の守備に当たった。ところが、松井田城は猛攻撃に晒され降伏開城し、大道寺氏は豊臣方の一角として[[(追記) 松山城 (武蔵国)|武蔵松山城 (追記ここまで)]]、[[(追記) 鉢形城 (追記ここまで)]]、(追記) [[八王子城]]の攻略 (追記ここまで)(追記) 参加し (追記ここまで)た。その(追記) ため河越城も降伏開城し、 (追記ここまで)(追記) 山道 (追記ここまで)(追記) 面隊 (追記ここまで)(追記) 大将 (追記ここまで)・[[(追記) 前田利家 (追記ここまで)]](追記) が入城した (追記ここまで)(追記) 戦後、秀吉 (追記ここまで)(追記) 命で政繁は (追記ここまで)(追記) 害し (追記ここまで)(追記) が、家康 (追記ここまで)(追記) 助命懇願によっ (追記ここまで)て、(追記) 北条氏 (追記ここまで)(追記) ら (追記ここまで)(追記) 共 (追記ここまで)(追記) 大道寺政繁の子供らも (追記ここまで)[[(追記) 徳川氏 (追記ここまで)]](追記) へ (追記ここまで)(追記) 預かり (追記ここまで)となった。
政繁と再婚後は、4人の男子を生み、異父兄弟が6人となり、母親から見て6人の異父兄弟は、


その後、直英は家康の九男・[[徳川義直]]に仕えた次男の直重の縁で義直の家中に寄食し、[[駿河国]]に居住した。義直の新領である[[尾張国]]に[[慶長]]14年([[1609年]])から開始された[[名古屋城]]の築城にも携わった。
* 嫡男 隼人直英 津軽藩家老2千石(父・舎人経忠)
* 尾張城築城の築城を協力し、他の兄弟も同様。
* 二男 松野大学信安 津軽藩家老3千石(父・舎人経忠)
* 三男 [[大道寺直繁|直繁]](父・大道寺政繁)
* 四男 新四郎玄蕃([[大道寺直重|直重]])尾張藩家老5千石(父・大道寺政繁)
* 五男 弁譽上人武州本誓寺を開祖(父・大道寺政繁)
* 六男 内蔵介直次(旗本千石)(父・大道寺政繁)
* 孫 直好新太郎(三男 [[大道寺直繁|直繁の]]長男で18歳で松井田城で戦死。
* 曾孫 直好の長男3歳児は豊臣方の目を盗んで母と共に忍者の里に逃げて橘家を起こし、後に大道寺直盛を名乗った。
* >橘姓を9代名乗った後に、大道寺盛直と初代とは逆順を名乗った。
* 孫 大道寺友山(三男 [[大道寺直繁|直繁の]]次男で山鹿素行の弟子


慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣]]が起こり徳川義直も徳川方として大坂に軍を進めると、大道寺直重や直英もこれに従った。その大坂冬の陣の最中、直英は徳川方として出陣中の弘前藩2代藩主・[[津軽信枚]]と出会う。この当時、自領に新たな城の建設を考えていた信枚は、直英が築城技術を習得していることを知り、直英を登用するため義直に交渉。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])3月、家康・義直公認の元、直英は尾張家を退去し津軽家の奉行職となった。当初は5百石(のち1千石に加増され、家老職となる)。直英を得た信枚は、同年8月から待望の新城([[亀ヶ岡城 (陸奥国)|亀ヶ岡城]])建設に着手したが、これは[[一国一城令]]に抵触したことにより計画中止となった。
大浦為信が南部藩家臣の時謀反を起こす。現在の青森県の80か所あった南部藩の家臣居城や耕地を襲撃し、津軽藩を起こそうとしたが、津軽全土を治めるまで25年を要した。その間、他国浪人の召し抱えを行い、その中には南部藩九戸の松野大学信安や易者の沼田面松斎がいた。そして、最後の仕上げに、南部高信の石川大仏ケ鼻城址を落城させた。

この地はツツジの花の名勝地と言われた。

石川大仏ケ鼻城址は「大仏公園」として弘前市石川に残っている。

[[天正]]10年([[1582年]])、主君・[[北条氏直]]は[[徳川家康]]の次女・[[督姫]]との婚礼を機に同盟を結ぶ。その頃、[[河越衆]]を率いていた義父・政繁は、[[武蔵国]][[川越城]]だけではなく同盟の結果により北条氏領土として確定した[[上野国]][[松井田城]]を任されており、直英を河越城の城代とし、政繁と次男・直重が松井田城の城代、嫡男・直繁と四男・直次が[[小田原城]]に家臣として居住していた。この間、川越城や松井田城などの諸城を拡張・改修<ref>河越城の三の丸と八幡郭など拡張、松井田城の大道寺郭構築など。</ref>した際、直英もその任に当ったとされる。

天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]が始まると、政繁ら河越衆は松井田城を拠点として、[[中山道]]方面からの豊臣方別働隊の迎撃を担当、直英は他の大道寺一族と共に河越城の守備に当たった。ところが、松井田城は猛攻撃に晒され降伏開城し、大道寺氏は豊臣方の一角として(削除) ( (削除ここまで)[[(削除) 1614年 (削除ここまで)]](削除) ) (削除ここまで)、[[(削除) 大坂の陣 (削除ここまで)]](削除) が起こり徳川義直も徳川方として大坂に軍を進めると (削除ここまで)(削除) 大道寺直重や直英もこれ (削除ここまで)(削除) 従っ (削除ここまで)た。その(削除) 大坂冬の陣の最 (削除ここまで)(削除) 、直英は徳川 (削除ここまで)(削除) として出陣中 (削除ここまで)(削除) 弘前藩2代藩主 (削除ここまで)・[[(削除) 津軽信枚 (削除ここまで)]](削除) と出会う (削除ここまで)(削除) こ (削除ここまで)(削除) 当時、 (削除ここまで)(削除) 領に新 (削除ここまで)(削除) な城 (削除ここまで)(削除) 建設を考え (削除ここまで)(削除) いた信枚は (削除ここまで)、直(削除) 英が築城技術を習得しているこ (削除ここまで)(削除) を知り、直英を登用するため義直 (削除ここまで)(削除) 交渉。 (削除ここまで)[[(削除) 元和 (日本)|元和 (削除ここまで)]](削除) 2年([[1616年]])3月、家康・義直公認 (削除ここまで)(削除) 元、直英は尾張家を退去し津軽家の奉行職 (削除ここまで)となった(削除) 。当初は5百石(のち1千石に加増され、家老職となる) (削除ここまで)

直英を得た信枚は、同年8月から待望の新城([[亀ヶ岡城 (陸奥国)|亀ヶ岡城]])建設に着手したが、これは[[一国一城令]]に抵触したことにより計画中止となった。内密には、山鹿素行に対して1万石と新城を準備し、招へいの予定だったが、素行は津軽には来ず、藩主の意気に応じ自分の娘姉妹(鶴と亀)を津軽藩に預けた。姉妹の婿たちは津軽藩の家老職に就き、その末裔には建部綾足(俳諧・画家・紀行家)が名を知られる。


元和9年([[1623年]])7月、[[江戸幕府]]2代将軍・[[徳川秀忠]]がその子・[[徳川家光|家光]]と共に、家光の[[征夷大将軍]]宣下のために[[上洛]]するに際し信枚がこれに供奉したが、この際に直英が津軽勢の先手大将として上洛した。[[寛永]]11年([[1634年]])、藩内を二分する古参と新参の家臣団対立([[弘前藩#船橋騒動|船橋騒動]])を直英が治めた、と伝わる。また、津軽家に召抱えられたのち、藩主・信枚の義弟扱いであった[[大道寺直秀|直秀]]を婿養子として嫡子とした。しかし信枚の死後の津軽家の跡目相続に不満を持った直秀は、自身に縁のある断絶した[[福島氏]]の再興を幕府に願い出ることを画策したが([[大道寺直秀#跡目相続について]]を参照)、突如急死した。これについて暗殺説があり、犯人は直秀の実母([[満天姫]])とも、直英ともいわれている。
元和9年([[1623年]])7月、[[江戸幕府]]2代将軍・[[徳川秀忠]]がその子・[[徳川家光|家光]]と共に、家光の[[征夷大将軍]]宣下のために[[上洛]]するに際し信枚がこれに供奉したが、この際に直英が津軽勢の先手大将として上洛した。[[寛永]]11年([[1634年]])、藩内を二分する古参と新参の家臣団対立([[弘前藩#船橋騒動|船橋騒動]])を直英が治めた、と伝わる。また、津軽家に召抱えられたのち、藩主・信枚の義弟扱いであった[[大道寺直秀|直秀]]を婿養子として嫡子とした。しかし信枚の死後の津軽家の跡目相続に不満を持った直秀は、自身に縁のある断絶した[[福島氏]]の再興を幕府に願い出ることを画策したが([[大道寺直秀#跡目相続について]]を参照)、突如急死した。これについて暗殺説があり、犯人は直秀の実母([[満天姫]])とも、直英ともいわれている。
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隼人直英の実弟の松野大学信安は、甲州流兵学系図の中で「山鹿将監」で山鹿素行娘の亭主で「津軽大学3千石」の記載がある。兄の2千石を超えた3千石の理由は、津軽藩の創生期に兄より先に養子へ出された京都から他国浪人で南部藩の九戸へ住んだ事にある。
隼人直英の実弟の松野大学信安は、甲州流兵学系図の中で「山鹿将監」で山鹿素行娘の亭主で「津軽大学3千石」の記載がある。兄の2千石を超えた3千石の理由は、津軽藩の創生期に兄より先に養子へ出された京都から他国浪人で南部藩の九戸へ住んだ事にある。

== 参考文献 ==
*「青森県人名大事典」<ref>{{citation ja|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12188662/1/183 |title=青森県人名大事典 |page=352 |website=東奥日報社/国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>1969年、東奥日報社


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2024年9月7日 (土) 10:03時点における最新版

 
大道寺直英
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文21年(1552年)
死没 寛永19年8月23日(1642年 9月17日)
改名 勇丸(幼名)→大道寺直英
別名 通称:隼人
戒名 玉弓院清月浄心居士
墓所 青森県 弘前市新寺町貞昌寺
主君 北条氏政氏直徳川家康義直津軽為信信枚信義
尾張藩陸奥 津軽藩
氏族 舎人氏大道寺氏(隼人家)
父母 父:舎人経忠、母:遠山綱景
養父:大道寺政繁
兄弟 直英、松野大学[1]
養子:直秀
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大道寺 直英(だいどうじ なおひで)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将弘前藩 津軽家の家臣。舎人経忠の子。大道寺政繁の養子。通称の大道寺隼人で知られる[2]

生涯

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大道寺家累代之墓(弘前市新寺町・貞昌寺)

天文21年(1552年)、紀伊国 牟婁郡 藤縄 [3] の住人・舎人経忠と後北条氏家臣・遠山綱景の娘との間に誕生した。幼名は勇丸。

永禄6年(1563年)の第二次国府台合戦において遠山綱景と共に舎人経忠が戦死した。直英の母は実家の遠山家を頼り、北条氏家臣の大道寺政繁と再婚し、直英は政繁の養子となった。その後、4人の異父兄弟(嫡男・直繁、次男・直重、三男・弁誉上人[4] 、四男・直次)が生まれたが、直英は養子のため、系図などでは最年長ながら五男と記載されている。

天正10年(1582年)、主君・北条氏直徳川家康の次女・督姫との婚礼を機に同盟を結ぶ。その頃、河越衆を率いていた義父・政繁は、武蔵国 川越城だけではなく同盟の結果により北条氏領土として確定した上野国 松井田城を任されており、直英を河越城の城代とし、政繁と次男・直重が松井田城の城代、嫡男・直繁と四男・直次が小田原城に家臣として居住していた。この間、川越城や松井田城などの諸城を拡張・改修[5] した際、直英もその任に当ったとされる。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、政繁ら河越衆は松井田城を拠点として、中山道方面からの豊臣方別働隊の迎撃を担当、直英は他の大道寺一族と共に河越城の守備に当たった。ところが、松井田城は猛攻撃に晒され降伏開城し、大道寺氏は豊臣方の一角として武蔵松山城鉢形城八王子城の攻略に参加した。そのため河越城も降伏開城し、中山道方面隊の大将・前田利家が入城した。戦後、秀吉の命で政繁は自害したが、家康の助命懇願によって、北条氏直らと共に大道寺政繁の子供らも徳川氏への預かりとなった。

その後、直英は家康の九男・徳川義直に仕えた次男の直重の縁で義直の家中に寄食し、駿河国に居住した。義直の新領である尾張国慶長14年(1609年)から開始された名古屋城の築城にも携わった。

慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こり徳川義直も徳川方として大坂に軍を進めると、大道寺直重や直英もこれに従った。その大坂冬の陣の最中、直英は徳川方として出陣中の弘前藩2代藩主・津軽信枚と出会う。この当時、自領に新たな城の建設を考えていた信枚は、直英が築城技術を習得していることを知り、直英を登用するため義直に交渉。元和2年(1616年)3月、家康・義直公認の元、直英は尾張家を退去し津軽家の奉行職となった。当初は5百石(のち1千石に加増され、家老職となる)。直英を得た信枚は、同年8月から待望の新城(亀ヶ岡城)建設に着手したが、これは一国一城令に抵触したことにより計画中止となった。

元和9年(1623年)7月、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠がその子・家光と共に、家光の征夷大将軍宣下のために上洛するに際し信枚がこれに供奉したが、この際に直英が津軽勢の先手大将として上洛した。寛永11年(1634年)、藩内を二分する古参と新参の家臣団対立(船橋騒動)を直英が治めた、と伝わる。また、津軽家に召抱えられたのち、藩主・信枚の義弟扱いであった直秀を婿養子として嫡子とした。しかし信枚の死後の津軽家の跡目相続に不満を持った直秀は、自身に縁のある断絶した福島氏の再興を幕府に願い出ることを画策したが(大道寺直秀#跡目相続についてを参照)、突如急死した。これについて暗殺説があり、犯人は直秀の実母(満天姫)とも、直英ともいわれている。

寛永19年(1642年)、91歳で死去。弘前市内の貞昌寺に葬られた。直英は生前に同寺に義父の政繁の供養塔を建立していて、墓はその傍に建てられたと伝わる。

直英や直秀の跡は、寛永17年(1640年)11月に3代藩主・信義の弟の為久を直秀の娘(喜久)の婿養子として相続された。この後、陸奥大道寺氏(子孫は主に大道寺隼人の名乗りを継承)は代々弘前藩の家老職を勤め、幕末以降も存続した。

隼人直英の実弟の松野大学信安は、甲州流兵学系図の中で「山鹿将監」で山鹿素行娘の亭主で「津軽大学3千石」の記載がある。兄の2千石を超えた3千石の理由は、津軽藩の創生期に兄より先に養子へ出された京都から他国浪人で南部藩の九戸へ住んだ事にある。

参考文献

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  • 「青森県人名大事典」[6] 1969年、東奥日報社

脚注

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  1. ^ 実弟。松野信安(松野久七)の養子となり、後に松野大学と名乗り津軽藩家老を務めた。松野大学は、津軽で起きた2代目藩主の座を争った津軽騒動にて活躍の記録が残る。
  2. ^ 子孫は代々、大道寺隼人を名乗ることが多いため、代々の混同に注意
  3. ^ 武蔵国の舎人氏、とする異説あり。
  4. ^ 江戸深川本誓寺二世
  5. ^ 河越城の三の丸と八幡郭など拡張、松井田城の大道寺郭構築など。
  6. ^ 青森県人名大事典」『東奥日報社/国立国会図書館デジタルコレクション』352頁。

外部リンク

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