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'''裴 秀'''(はい しゅう(削除) 、[[黄初]]5年([[224年]]) - [[泰始 (晋)|泰始]]7年([[271年]])3月 (削除ここまで))は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]](削除) から (削除ここまで)[[西晋]]の(削除) [[ (削除ここまで)政治家(削除) ]] (削除ここまで)(削除) [[地理 (削除ここまで)学者(削除) ]] (削除ここまで)。[[(削除) 魏 (削除ここまで) ((削除) 三国 (削除ここまで))|(削除) 魏]]・西晋に仕えた。[[ (削除ここまで)字]]は'''季彦'''(削除) (きげん) (削除ここまで)。[[本貫]]は[[河東郡 (中国)|河東郡]][[聞喜県]]。父は[[裴潜]]。子は[[裴濬]]・[[裴頠(削除) ]]。弟は[[裴耽 (削除ここまで)]]。妻は[[郭配]]([[郭淮]]の弟)の娘<ref>[[陳寿]]『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書 郭淮伝注『晋諸公賛』</ref>。
|名前 = 裴秀
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|王朝 = [[魏 (三国)|魏]]→[[西晋]]
|称号・役職 = [[司空]]・鉅鹿公
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'''裴 秀'''(はい しゅう)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]](追記) の[[魏 (三国)|魏]]、及び (追記ここまで)[[西晋]]の政治家・学者。[[(追記) 字 (追記ここまで) ((追記) 人名 (追記ここまで))|字]]は'''季彦'''。[[本貫]]は(追記) [[司州]] (追記ここまで)[[河東郡 (中国)|河東郡]][[聞喜県]]。父は[[裴潜]]。子は[[裴濬]]・[[裴頠]]。妻は[[郭配]]([[郭淮]]の弟)の娘<ref>[[陳寿]]『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書 郭淮伝注『晋諸公賛』</ref>。


==生涯==
==生涯==
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[[景元]]元年([[260年]])6月、魏帝[[曹奐]]が即位。新帝擁立に参与した功によって尚書僕射に遷り、爵位は県侯に進み、700戸を増邑された。
[[景元]]元年([[260年]])6月、魏帝[[曹奐]]が即位。新帝擁立に参与した功によって尚書僕射に遷り、爵位は県侯に進み、700戸を増邑された。


兄の[[司馬師]]に後嗣がなかったため、その職責を継いだ司馬昭だが、自分の庶子の[[司馬攸]]を司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていた。しかし裴秀らは嫡子の[[司馬炎]]を立てるよう強く勧め、咸熙元年([[264年]])5月、司馬炎が晋王の世子となった<ref>『晋書』太祖文帝(削除) (司馬昭) (削除ここまで)紀。</ref>。これに先立ち、世子になれないことを恐れた司馬炎は裴秀に対し、「人には(高貴となる)相というものがあるのだろうか?」と尋ねたという。
兄の[[司馬師]]に後嗣がなかったため、その職責を継いだ司馬昭だが、自分の庶子の[[司馬攸]]を司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていた。しかし裴秀らは嫡子の[[司馬炎]]を立てるよう強く勧め、咸熙元年([[264年]])5月、司馬炎が晋王の世子となった<ref>『晋書』太祖文帝紀。</ref>。これに先立ち、世子になれないことを恐れた司馬炎は裴秀に対し、「人には(高貴となる)相というものがあるのだろうか?」と尋ねたという。


同年、諸制度が改革され、[[荀顗]]が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀は官制を改めた。五等爵復活の建議にも功があり、済川侯<ref>裴潜伝注『文章叙録』では広川侯とする。</ref>に封じられた。
同年、諸制度が改革され、[[荀顗]]が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀は官制を改めた。五等爵復活の建議にも功があり、済川侯<ref>裴潜伝注『文章叙録』では広川侯とする。</ref>に封じられた。


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咸熙2年([[265年]])9月、司馬昭が没し司馬炎が晋王の位を継ぐと、裴秀は[[尚書令]]・[[光禄大夫]]となる<ref name="武帝紀">『晋書』(追記) 世祖 (追記ここまで)武帝紀</ref>。同年12月、魏から西晋への[[禅譲]]の儀において要となる役割を担い、その差配は礼式に違うことはなかった。鉅鹿公に封じられ、3000戸を領した。泰始4年([[268年]])正月には[[司空]]に昇進した。


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(追記) [[ (追記ここまで)泰始(追記) (晋)|泰始]] (追記ここまで)7年(追記) [[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[271 (追記ここまで)(追記) ]][[4 (追記ここまで)(追記) 3日]]) (追記ここまで)<ref name="武帝紀" />、48歳で死去。'''元公'''と諡された。死因は「[[五石散|寒食散]]を服用した際、熱燗ではなく誤って冷酒を飲んだため」とされる。同時代の[[皇甫謐]]が伝える記述によると、薬による不測の発作が生じ、何日も体温の高低が繰り返され、呼吸困難に加えて視線も定まらない状態が続いた。左右の者は発作時の解毒法に従い、大量の冷水を飲ませ、さらに冷水浴を施したが回復せず、かえって体温を奪われて水中で絶命したという。


尚書が政治を統べるのは旧例に反し、その役割は[[九卿]]が担うべきと考えていたが、上奏を前に死去した。臨終に先立って記した[[呉 (三国)|呉]]の討伐を訴える草稿は、没後に司馬炎まで届けられた。それを読んだ司馬炎は、病床にあっても国事を憂いていた裴秀の忠節を称えた。[[咸寧 (晋)|咸寧]]年間初め、[[石苞 (西晋)|石苞]]らと並び王公として、晋王朝の廟庭に祀られた。
尚書が政治を統べるのは旧例に反し、その役割は[[九卿]]が担うべきと考えていたが、上奏を前に死去した。臨終に先立って記した[[呉 (三国)|呉]]の討伐を訴える草稿は、没後に司馬炎まで届けられた。それを読んだ司馬炎は、病床にあっても国事を憂いていた裴秀の忠節を称えた。[[咸寧 (晋)|咸寧]]年間初め、[[石苞 (西晋)|石苞]]らと並び王公として、晋王朝の廟庭に祀られた。
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==出典==
==出典==
*[[房玄齢]]等『[[晋書]]』(削除) 巻35 (削除ここまで)裴秀伝
*[[房玄齢]]等『[[晋書]]』裴秀伝(追記) [[s:zh:晉書/卷035#裴秀]] (追記ここまで)
<!--== 参考文献 ==
*[[川原秀城]]『毒薬は口に苦し―中国の文人と不老不死―』([[大修館書店]]、あじあブックス、[[2001年]])
*[[井波律子]]『酒池肉林 中国の贅沢三昧』([[講談社学術文庫]]、[[2003年]])-->


==脚注==
==脚注==
<references />
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2024年3月22日 (金) 11:15時点における最新版

裴秀
西晋
司空・鉅鹿公
出生 黄初5年(224年)
司州 河東郡 聞喜県
死去 泰始7年3月7日(271年 4月3日)
拼音 péi xiù
季彦
諡号 元公
主君 曹芳曹髦曹奐司馬炎
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裴 秀(はい しゅう)は、中国 三国時代、及び西晋の政治家・学者。季彦本貫司州 河東郡 聞喜県。父は裴潜。子は裴濬裴頠。妻は郭配(郭淮の弟)の娘[1]

生涯

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幼くして学問を好み、8歳で文章を綴り、行いには気品と節義があった。生母は身分が低く、正室の宣氏に軽んじられ、来客時には給仕をさせられていた。彼女が気丈な態度でこれに従ったことで宣氏は給仕を止めさせ、人々は裴秀が裴氏の後継と認識するようになった。

官歴は毌丘倹の推挙により、大将軍 曹爽の属官()から始まる。正始5年(244年)に父が亡くなると爵位を継いだが、財産は兄弟に譲った[2] 黄門侍郎の官に欠員が出ると、何晏によって賈充らと共に任用された[3]

正始10年(249年)2月に曹爽が処刑されると免職となるが、のちに廷尉正として復職。司馬昭の属官(司馬)になると軍政について意見し、その多くを採用された。散騎常侍へ転任する頃には魏帝曹髦に敬愛され、討論会に参加し、儒林丈人と称された。

甘露2年(257年)6月、諸葛誕の反乱を討伐する親征に同行。行台(臨時の尚書台)の運営に携わり、謀略に参与した。乱の平定後は尚書・魯陽郷侯に任じられ、1000戸を増邑された。

景元元年(260年)6月、魏帝曹奐が即位。新帝擁立に参与した功によって尚書僕射に遷り、爵位は県侯に進み、700戸を増邑された。

兄の司馬師に後嗣がなかったため、その職責を継いだ司馬昭だが、自分の庶子の司馬攸を司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていた。しかし裴秀らは嫡子の司馬炎を立てるよう強く勧め、咸熙元年(264年)5月、司馬炎が晋王の世子となった[4] 。これに先立ち、世子になれないことを恐れた司馬炎は裴秀に対し、「人には(高貴となる)相というものがあるのだろうか?」と尋ねたという。

同年、諸制度が改革され、荀顗が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀は官制を改めた。五等爵復活の建議にも功があり、済川侯[5] に封じられた。

咸熙2年(265年)9月、司馬昭が没し司馬炎が晋王の位を継ぐと、裴秀は尚書令光禄大夫となる[6] 。同年12月、魏から西晋への禅譲の儀において要となる役割を担い、その差配は礼式に違うことはなかった。鉅鹿公に封じられ、3000戸を領した。泰始4年(268年)正月には司空に昇進した。

泰始7年3月7日(271年 4月3日)[6] 、48歳で死去。元公と諡された。死因は「寒食散を服用した際、熱燗ではなく誤って冷酒を飲んだため」とされる。同時代の皇甫謐が伝える記述によると、薬による不測の発作が生じ、何日も体温の高低が繰り返され、呼吸困難に加えて視線も定まらない状態が続いた。左右の者は発作時の解毒法に従い、大量の冷水を飲ませ、さらに冷水浴を施したが回復せず、かえって体温を奪われて水中で絶命したという。

尚書が政治を統べるのは旧例に反し、その役割は九卿が担うべきと考えていたが、上奏を前に死去した。臨終に先立って記したの討伐を訴える草稿は、没後に司馬炎まで届けられた。それを読んだ司馬炎は、病床にあっても国事を憂いていた裴秀の忠節を称えた。咸寧年間初め、石苞らと並び王公として、晋王朝の廟庭に祀られた。

長男の裴濬が後を継ぎ、散騎常侍となったが、早逝した。裴濬の子は後継に相応しくないとされ、裴秀の次子裴頠がその後を継いだ。

人物

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朝儀を創始し、広く刑罰や政治について意見を述べ、その多くは採用されて故事となった。儒学に通じ、易経楽経についての論文を著した[2] 。土地を管轄する地官としても大きな功を挙げ、当時としては非常に精巧な地図である『禹貢地域図』『地域方丈図』などを作った。考案した製図法『製図六体』は、製図の際の縮尺・距離・方位などの基本方針を定めたもので、中国の地理学史上に多大な貢献をもたらした。

司馬炎からは強い信頼と寵愛を受けた。裴秀は官有の稲田の横領を指示したとして、司隷校尉の李憙から弾劾を受けたことがあったが、司馬炎はこれを庇い罪には問わなかった。

発明家の馬鈞と発石車の改良を巡って議論し、論破するとそれを吹聴したが、傅玄から「馬氏が得意とするのは実際の器用さであって言葉ではない」と非難された[7] 。また、呉の使者として張儼が来訪すると賈充らと共に、彼が知らないことを持ち出して言い負かそうとしたが、敵わなかった[8]

出典

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脚注

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  1. ^ 陳寿三国志』魏書 郭淮伝注『晋諸公賛』
  2. ^ a b 『三国志』魏書 裴潜伝及び注に引く『文章叙録』
  3. ^ 『三国志』魏書 鍾会伝注
  4. ^ 『晋書』太祖文帝紀。
  5. ^ 裴潜伝注『文章叙録』では広川侯とする。
  6. ^ a b 『晋書』世祖武帝紀
  7. ^ 『三国志』魏書 杜夔伝注
  8. ^ 『三国志』呉書 孫晧伝注『呉録』

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