コンテンツにスキップ
Wikipedia

「東方会」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
(12人の利用者による、間の14版が非表示)
13行目: 13行目:
|郵便番号 =
|郵便番号 =
|本部所在地 =
|本部所在地 =
|政治的思想・立場 = [[国家主義]]<ref name="Britannica">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><ref name="sekai">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><ref name="nipponica">大野達三. [https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><br/>[[アジア・モンロー主義]]<ref name="sekai"/><br/>[[統制経済|統制経済論]]<ref name="sekai"/><br/>[[国家社会主義]]<ref name="nipponica"/><br/>[[全体主義]]<small>(1936年以降)</small><ref name="nipponica"/><br/>[[ファシズム]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref>
|政治的思想・立場 = (追記) [[極右]]<ref name="Mypedia">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |title=百科事典マイペディアの解説 |trans-title=The ''Hyakka Jiten Mypedia''{{'}}s explanation |access-date=March 7, 2021 |website=kotobank.jp|language=ja }}</ref><br/> (追記ここまで)[[国家主義]]<ref name="Britannica">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><ref name="sekai">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><ref name="nipponica">大野達三. [https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref><br/>[[アジア・モンロー主義]]<ref name="sekai"/><br/>[[統制経済|統制経済論]]<ref name="sekai"/><br/>[[国家社会主義]]<ref name="nipponica"/><br/>[[全体主義]]<small>(1936年以降)</small><ref name="nipponica"/><br/>[[ファシズム]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A-104155#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2018年9月13日閲覧。</ref>
|機関紙 = 『東大陸』<ref name="sekai"/><br/>『東方時論』<ref name="Britannica"/>
|機関紙 = 『東大陸』<ref name="sekai"/><br/>『東方時論』<ref name="Britannica"/>
|シンボル =
|シンボル =
19行目: 19行目:
|その他 =
|その他 =
}}
}}
'''東方会'''(とうほうかい、{{旧字体|'''東方會'''}})は、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[5月25日]]に[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]を脱党した[[中野正剛]]と[[東則正]]によって結成された[[日本]]の[[国家主義]][[政党]]。
'''東方会'''(とうほうかい、{{旧字体|'''東方會'''}})は、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[5月25日]]に[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]を脱党した[[中野正剛]]と[[東則正]]によって結成された[[日本]]の(追記) [[ファシスト]]団体<ref name=yoshimoto/><ref name=raueru/>、 (追記ここまで)[[国家主義]][[政党]](追記) である。九州を地盤とし、西日本の農村部に勢力を持った<ref name="hori">[[堀幸雄]]『戦前の国家主義運動史』435-438ページ</ref>。昭和17年7月に'''東方同志会'''に改組<ref>[[荒原朴水]]『大右翼史』p.362、363</ref> (追記ここまで)

九州を地盤とし、西日本の農村部に勢力を持った<ref name=hori>[[堀幸雄]]『戦前の国家主義運動史』435-438ページ</ref>。


== 沿革 ==
== 沿革 ==
[[File:Anti-Britain poster by Tohokai.JPG|thumb|160px|東方会の反英ポスター]]
[[File:Anti-Britain poster by Tohokai.JPG|thumb|160px|東方会の反英ポスター]]
[[協力内閣運動]]の失敗により[[立憲民政党]]を離党した[[中野正剛]]は、[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]の結成を主導した。しかし、思想的には国民同盟内をリードしていた中野派も、現役代議士である国民同盟の性質上、他派との意見の相違が少なからず存在しており、行動の自由を得ようと別組織を新たに設けることとした。
[[協力内閣運動]]の失敗により[[立憲民政党]]を離党した[[中野正剛]]は、[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]の結成を主導した。しかし、思想的には国民同盟内をリードしていた中野派も、現役代議士である国民同盟の性質上、他派との意見の相違が少なからず存在しており、行動の自由を得ようと別組織を新たに設けることとした(追記) 。[[1933年]](昭和8年)10月、研究組織としての東方会が創設され、[[稲村隆一]]、[[戸叶武]]、[[風見章]]、[[木村武雄]]、[[杉浦武雄]]、[[石原莞爾]]、[[影佐禎昭]]らがいたという<ref name="有馬">{{Cite journal |和書 |author=有馬学 |title=東方会の組織と政策:社会大衆党との合同問題の周辺 |journal=史淵 |volume=114 |issue= |publisher=九州大学|date= 1977年03月31日|pages=61-85 |naid= |ref=|url=https://doi.org/10.15017/2340998}}</ref> (追記ここまで)

(削除) (昭和8年)に中野派の代議士・元代議士とそのブレーンで構成した政策談話会の東方会を根拠に活動を展開し、 (削除ここまで)国民同盟の分裂が進む中で中野(削除) が (削除ここまで)[[1935年]](昭和10年)に脱退、以降中野派の人々が相次いで脱退して政治団体がつくられてい(削除) く (削除ここまで)
国民同盟の分裂が進む中で中野(追記) も (追記ここまで)[[1935年]](昭和10年)に脱退、以降中野派の人々が相次いで脱退して政治団体がつくられてい(追記) った (追記ここまで)


[[1936年]](昭和11年)政事結社の届出を行い、正式に政党として成立したが、綱領や規約、役員が決定されるのは翌年5月になってからだった<ref>前掲永井論考、p.127</ref>。結成直後から軍官僚と翼政会首脳は東方会を警戒した<ref>[[中谷武世]]『戦時議会史』「中野正剛の死とその背景(上)」</ref>。
[[1936年]](昭和11年)政事結社の届出を行い、正式に政党として成立したが、綱領や規約、役員が決定されるのは翌年5月になってからだった<ref>前掲永井論考、p.127</ref>。結成直後から軍官僚と翼政会首脳は東方会を警戒した<ref>[[中谷武世]]『戦時議会史』「中野正剛の死とその背景(上)」</ref>。


中野派は大衆組織への志向をもっていたことから、広汎に大衆に働きかけを行ってい(削除) く (削除ここまで)<ref>前掲永井論考、pp.130</ref>。(削除) この過程の (削除ここまで)(削除) で東方会 (削除ここまで)(削除) 旧 (削除ここまで)[[(削除) 左翼 (削除ここまで)]](削除) 系人物を取込んでいき、 (削除ここまで)[[1939年]](昭和14年)には[[社会大衆党(削除) ]] (削除ここまで)との合同を(削除) 画策 (削除ここまで)したが、(削除) 失敗する (削除ここまで)ことになった。
中野派は大衆組織への志向をもっていたことから、広汎に大衆に働きかけを行ってい(追記) った (追記ここまで)<ref>前掲永井論考、pp.130</ref>。中(追記) 野 (追記ここまで)(追記) 幅広い党派での合同運動の構想をもっており、特に国民同盟や (追記ここまで)[[(追記) 社会大衆党 (追記ここまで)]](追記) とは (追記ここまで)[[1939年]](昭和14年)には(追記) 具体的な協議に入っていたが、国民同盟総裁の (追記ここまで)[[(追記) 安達謙蔵]]は党内に反対者が続出しているとして2月8日に不参加を回答した<ref name="有馬" />。残る (追記ここまで)社会大衆党との合同(追記) 協議は進み、同党は2月9日の常任中央執行委員会で東方会との合同実現 (追記ここまで)(追記) 基本方針とすることを承認 (追記ここまで)(追記) た<ref name="有馬" />。そして新党の結党大会の日程決定まで至っ (追記ここまで)たが、(追記) 社会大衆党内で旧日労系(旧[[日本労農党]]系)が主導して議論が進行していた (追記ここまで)こと(追記) から、社民系(旧[[社会民衆党]]系)が人事問題で反発し、さら (追記ここまで)(追記) 同党の[[安部磯雄]]が不参加を表明したことで合同構想の破綻は決定的と (追記ここまで)なった(追記) <ref name="有馬" /> (追記ここまで)

[[1940年]](昭和15年)に[[新体制運動]]が起こると東亜建設国民連盟に参加して新体制運動を推進していった。[[1940年]](昭和15年)に新体制運動への合流のために文化団体への改組が東方会で内定していたが開催された臨時全国大会において正式に解党と思想団体の改組が決定した(1939年10月に政治結社東方会を解散し、思想団体'''振東社'''として再結成<ref name=hori/>)。(削除) 尚 (削除ここまで)、この間に中野は[[大政翼賛会]]常任総務に就任した。
[[1940年]](昭和15年)に[[新体制運動]]が起こると東亜建設国民連盟に参加して新体制運動を推進していった。[[1940年]](昭和15年)に新体制運動への合流のために文化団体への改組が東方会で内定していたが開催された臨時全国大会において正式に解党と思想団体の改組が決定した(1939年10月に政治結社東方会を解散し、思想団体'''振東社'''として再結成<ref name=hori/>)。(追記) なお (追記ここまで)、この間に中野は[[大政翼賛会]]常任総務に就任した。

しかし、[[近衛文麿]]が翼賛会は「政事上の結社ではない」と明言したことに対し、不満をもった中野は[[1941年]](昭和16年)に常任総務を辞任し、翼賛会を脱退、政事結社としての東方会を再興した。その後、1942年(昭和17年)に[[東条英機内閣]]下で執行された[[第21回衆議院議員総選挙]]([[翼賛選挙]])では[[翼賛政治体制協議会]]からの推薦を拒否して独自候補を擁立した。反官的、反政府的選挙運動を展開し、当選者は立候補者47名中6名に留まり、議席数を後退させた<ref name=hori/>。選挙後の翼賛会加入議員は449人に達し、加入していない議員は東方会の6人を含め11人に減少した<ref>解党し翼賛政治会に参加を決定(昭和17年5月24日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p577 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。中野ら4人(ほかは[[中村又七郎]]、[[本領信治郎]]、[[三田村武夫]]){{efn|不参加は[[薩摩雄次]]と[[湧上聾人]]。}}は議会における実質的な発言権の確保から[[翼賛政治会]]に参加し<ref>古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年)、p.184</ref>、再び東方会を解消して、思想結社へと再改組を行った。


その後、中野は翼賛政治会を脱退して次第に反東条姿勢を強め、最終的に反東条工作を画策していくことになる([[堀幸雄]]は翼賛会離脱の原因として、大政翼賛会内での日本主義派との主導権争いを挙げる<ref name=hori/>。)。これを受けて[[1943年]](昭和18年(追記) )10月 (追記ここまで)に中野正剛以下3名、同志会員が一斉検挙された([[中野正剛事件]])。中野は釈放されたものの、(追記) 間もなく (追記ここまで)割腹自殺(追記) した (追記ここまで)。これによ(追記) って、東方会は (追記ここまで)解散する。
しかし、[[近衛文麿]]が翼賛会は「政事上の結社ではない」と明言したことに対し、不満をもった中野は[[1941年]](昭和16年)に常任総務を辞任し、翼賛会を脱退、政事結社としての東方会を再興した。その後、1942年(昭和17年)に[[東条英機内閣]]下で執行された[[第21回衆議院議員総選挙]]([[翼賛選挙]])では[[翼賛政治体制協議会]]からの推薦を拒否して独自候補を擁立した。
反官的、反政府的選挙運動を展開し、当選者は立候補者47名中6名に留まり、議席数を後退させた<ref name=hori/>。選挙後の翼賛会加入議員は449人に達し、加入していない議員は東方会の6人を含め11人に減少した<ref>解党し翼賛政治会に参加を決定(昭和17年5月24日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p577 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
議会における実質的な発言権の確保から[[翼賛政治会]]に参加し<ref>古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年)、p.184</ref>、再び東方会を解消して、思想結社へと再改組を行った。


==綱領==
その後、中野は翼賛政治会を脱退して次第に反東条姿勢を強め、最終的に反東条工作を画策していくことになる([[堀幸雄]]は翼賛会離脱の原因として、大政翼賛会内での日本主義派との主導権争いを挙げる<ref name=hori/>。)。これを受けて[[1943年]](昭和18年(削除) )未明 (削除ここまで)に中野正剛以下3名、同志会員が一斉検挙された([[中野正剛事件]])。中野は釈放されたものの、(削除) その夜に (削除ここまで)割腹自殺。これによ(削除) りに (削除ここまで)解散する。
#正義国際の建設により国民生活の活路を開拓すべし。
#国際非常時の克服に傾注し全国民均等の努力と犠牲とに{{ruby|愬|うった}}ふべし。
#政治によりて広義国防を担任し、軍部をして安んじて狭義国防に専念せしむべし。
#生産力の急速なる拡大強化を目標として[[統制経済]]の動向を是正すべし。
#[[全体主義]]に則り、階級的特権と階級闘争とを排除すべし。
#農民、労働者、中小商工業者、俸給勤務者の生活を保障し、国家活力の源泉を涵養すべし。<ref name=yoshimoto>『現代の発見 第3巻』、吉本隆明「日本ファシストの原像」</ref>


==思想的位置==
==思想的位置==
[[堀幸雄]]によれば、東方会は[[アドルフ・ヒトラー]]の『[[我が闘争]]』を研究するなど「最も[[ナチズム]]に近い右翼」であった<ref name=hori/>。[[ピエール・ラヴェル]]によれば、代表の中野が「ヨーロッパのファシズムをはっきりと支持」していた東方会は、「あまり留保をつけなくてもファシストと呼ぶことができる唯一のウルトラナショナリストの組織」である<ref>ピエール・ラヴェル [https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00000290.pdf ファシズムという語を日本のウルトラナショナリズムに適用しないことについての簡潔な説明]</ref>。
[[堀幸雄]]によれば、東方会は[[アドルフ・ヒトラー]]の『[[我が闘争]]』を研究するなど「最も[[ナチズム]]に近い右翼」であった<ref name=hori/>。[[ピエール・ラヴェル]]によれば、代表の中野が「ヨーロッパのファシズムをはっきりと支持」していた東方会は、「あまり留保をつけなくてもファシストと呼ぶことができる唯一のウルトラナショナリストの組織」である<ref(追記) name=raueru (追記ここまで)>ピエール・ラヴェル [https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00000290.pdf ファシズムという語を日本のウルトラナショナリズムに適用しないことについての簡潔な説明]</ref(追記) >。[[吉本隆明]]によれば、「自ら誇示して日本で最初で唯一のファシスト政党」<ref name=yoshimoto/ (追記ここまで)>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references />
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
54行目: 63行目:
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20060822014821/http://www.touhoukai.jp/ 東方会]:東方会の後継団体を自称していた[[右翼団体]]。[[党員]]の高齢化に伴い活動停止。URL消失。
* [https://web.archive.org/web/20060822014821/http://www.touhoukai.jp/ 東方会]:東方会の後継団体を自称していた[[右翼団体]]。[[党員]]の高齢化に伴い活動停止。URL消失。
* 『[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/238436 東方会の成立]』 - [https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/ 京都大学学術情報リポジトリ紅]
* 『[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/238470 東方会の展開]』 - 京都大学学術情報リポジトリ紅


{{Japanese-history-stub}}
{{戦前日本の政党}}
{{戦前日本の政党}}
{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうほうかい}}
{{DEFAULTSORT:とうほうかい}}
[[Category:東方会|*]]
[[Category:日本のファシズム政党]]
[[Category:昭和時代戦前の政治団体]]
[[Category:昭和時代戦前の政治団体]]
[[Category:昭和時代戦前の政党・会派]]
[[Category:昭和時代戦前の政党・会派]]
64行目: 76行目:
[[Category:1936年設立の政党・政治団体]]
[[Category:1936年設立の政党・政治団体]]
[[Category:1944年廃止の政党・政治団体]]
[[Category:1944年廃止の政党・政治団体]]
[[Category:中野正剛]]

2024年10月4日 (金) 00:56時点における最新版

日本の旗 日本政党
東方会
東方会の党旗
成立年月日 1936年 5月25日
解散年月日 1944年 3月23日
解散理由 主宰者である中野正剛自殺及び一斉検挙のため消滅
後継政党 東方同志会[1]
政治的思想・立場 極右 [2]
国家主義 [1] [3] [4] [5]
アジア・モンロー主義 [4]
統制経済論 [4]
国家社会主義 [5]
全体主義(1936年以降)[5]
ファシズム [6]
機関紙 『東大陸』[4]
『東方時論』[1]
テンプレートを表示

東方会(とうほうかい、旧字体:東方會)は、1936年(昭和11年)5月25日国民同盟を脱党した中野正剛東則正によって結成された日本ファシスト団体[7] [8] 国家主義 政党である。九州を地盤とし、西日本の農村部に勢力を持った[9] 。昭和17年7月に東方同志会に改組[10]

沿革

[編集 ]
東方会の反英ポスター

協力内閣運動の失敗により立憲民政党を離党した中野正剛は、国民同盟の結成を主導した。しかし、思想的には国民同盟内をリードしていた中野派も、現役代議士である国民同盟の性質上、他派との意見の相違が少なからず存在しており、行動の自由を得ようと別組織を新たに設けることとした。1933年(昭和8年)10月、研究組織としての東方会が創設され、稲村隆一戸叶武風見章木村武雄杉浦武雄石原莞爾影佐禎昭らがいたという[11]

国民同盟の分裂が進む中で中野も1935年(昭和10年)に脱退、以降中野派の人々が相次いで脱退して政治団体がつくられていった。

1936年(昭和11年)政事結社の届出を行い、正式に政党として成立したが、綱領や規約、役員が決定されるのは翌年5月になってからだった[12] 。結成直後から軍官僚と翼政会首脳は東方会を警戒した[13]

中野派は大衆組織への志向をもっていたことから、広汎に大衆に働きかけを行っていった[14] 。中野は幅広い党派での合同運動の構想をもっており、特に国民同盟や社会大衆党とは1939年(昭和14年)には具体的な協議に入っていたが、国民同盟総裁の安達謙蔵は党内に反対者が続出しているとして2月8日に不参加を回答した[11] 。残る社会大衆党との合同協議は進み、同党は2月9日の常任中央執行委員会で東方会との合同実現を基本方針とすることを承認した[11] 。そして新党の結党大会の日程決定まで至ったが、社会大衆党内で旧日労系(旧日本労農党系)が主導して議論が進行していたことから、社民系(旧社会民衆党系)が人事問題で反発し、さらに同党の安部磯雄が不参加を表明したことで合同構想の破綻は決定的となった[11]

1940年(昭和15年)に新体制運動が起こると東亜建設国民連盟に参加して新体制運動を推進していった。1940年(昭和15年)に新体制運動への合流のために文化団体への改組が東方会で内定していたが開催された臨時全国大会において正式に解党と思想団体の改組が決定した(1939年10月に政治結社東方会を解散し、思想団体振東社として再結成[9] )。なお、この間に中野は大政翼賛会常任総務に就任した。

しかし、近衛文麿が翼賛会は「政事上の結社ではない」と明言したことに対し、不満をもった中野は1941年(昭和16年)に常任総務を辞任し、翼賛会を脱退、政事結社としての東方会を再興した。その後、1942年(昭和17年)に東条英機内閣下で執行された第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会からの推薦を拒否して独自候補を擁立した。反官的、反政府的選挙運動を展開し、当選者は立候補者47名中6名に留まり、議席数を後退させた[9] 。選挙後の翼賛会加入議員は449人に達し、加入していない議員は東方会の6人を含め11人に減少した[15] 。中野ら4人(ほかは中村又七郎本領信治郎三田村武夫)[注釈 1] は議会における実質的な発言権の確保から翼賛政治会に参加し[16] 、再び東方会を解消して、思想結社へと再改組を行った。

その後、中野は翼賛政治会を脱退して次第に反東条姿勢を強め、最終的に反東条工作を画策していくことになる(堀幸雄は翼賛会離脱の原因として、大政翼賛会内での日本主義派との主導権争いを挙げる[9] 。)。これを受けて1943年(昭和18年)10月に中野正剛以下3名、同志会員が一斉検挙された(中野正剛事件)。中野は釈放されたものの、間もなく割腹自殺した。これによって、東方会は解散する。

綱領

[編集 ]
  1. 正義国際の建設により国民生活の活路を開拓すべし。
  2. 国際非常時の克服に傾注し全国民均等の努力と犠牲とに(うった)ふべし。
  3. 政治によりて広義国防を担任し、軍部をして安んじて狭義国防に専念せしむべし。
  4. 生産力の急速なる拡大強化を目標として統制経済の動向を是正すべし。
  5. 全体主義に則り、階級的特権と階級闘争とを排除すべし。
  6. 農民、労働者、中小商工業者、俸給勤務者の生活を保障し、国家活力の源泉を涵養すべし。[7]

思想的位置

[編集 ]

堀幸雄によれば、東方会はアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』を研究するなど「最もナチズムに近い右翼」であった[9] ピエール・ラヴェルによれば、代表の中野が「ヨーロッパのファシズムをはっきりと支持」していた東方会は、「あまり留保をつけなくてもファシストと呼ぶことができる唯一のウルトラナショナリストの組織」である[8] 吉本隆明によれば、「自ら誇示して日本で最初で唯一のファシスト政党」[7]

脚注

[編集 ]

注釈

[編集 ]
  1. ^ 不参加は薩摩雄次湧上聾人

出典

[編集 ]
  1. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
  2. ^ "百科事典マイペディアの解説" [The Hyakka Jiten Mypedia's explanation]. kotobank.jp. March 7, 2021閲覧。
  3. ^ 大辞林 第三版 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
  4. ^ a b c d 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
  5. ^ a b c 大野達三. 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
  6. ^ デジタル大辞泉 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。
  7. ^ a b c 『現代の発見 第3巻』、吉本隆明「日本ファシストの原像」
  8. ^ a b ピエール・ラヴェル ファシズムという語を日本のウルトラナショナリズムに適用しないことについての簡潔な説明
  9. ^ a b c d e 堀幸雄『戦前の国家主義運動史』435-438ページ
  10. ^ 荒原朴水『大右翼史』p.362、363
  11. ^ a b c d 有馬学「東方会の組織と政策:社会大衆党との合同問題の周辺」『史淵』第114巻、九州大学、1977年3月31日、61-85頁。 
  12. ^ 前掲永井論考、p.127
  13. ^ 中谷武世『戦時議会史』「中野正剛の死とその背景(上)」
  14. ^ 前掲永井論考、pp.130
  15. ^ 解党し翼賛政治会に参加を決定(昭和17年5月24日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p577 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  16. ^ 古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年)、p.184

関連項目

[編集 ]

外部リンク

[編集 ]
保守党派
(有産政党)
自由党系
改進党系
その他
革新党派
(無産政党)
労働農民党
その他
国粋主義政党

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /