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'''負の世界遺産'''(ふのせかいいさん)とは、[[世界遺産]]のうち、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件を指す<ref>[[青柳正規]]監修『ビジュアルワイド世界遺産』小学館、2003年、p.63;世界遺産アカデミー『世界遺産検定公式ガイド300』毎日コミュニケーションズ、2010年、p.42 ほか</ref>、日本国内での用語である。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が公式にそのような分類をしているわけではなく、明確な定義は存在しない。
'''負の世界遺産'''(ふのせかいいさん)とは、[[世界遺産]]のうち、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件を指す<ref>[[青柳正規]]監修『ビジュアルワイド世界遺産』小学館、2003年、p.63;世界遺産アカデミー『世界遺産検定公式ガイド300』毎日コミュニケーションズ、2010年、p.42 ほか</ref>、日本国内での用語である。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が公式にそのような分類をしているわけではなく、明確な定義は存在しない。
また、[[英語]]での定訳もなく、{{en|Legacy of Tragedy}} と訳す者がいる一方で<ref name = furuta />、簡潔に英訳することの困難さも指摘されており、こうした分類が(削除) 、 (削除ここまで)世界遺産委員会の審議で特筆されることもな(削除) い (削除ここまで)<ref name = inaba>[[稲葉信子]]「『負の世界遺産』という言葉から考えること」(『世界遺産年報2011』)</ref>。
また、[[英語]]での定訳もなく、{{en|Legacy of Tragedy}} と訳す者がいる一方で<ref name = furuta />、簡潔に英訳することの困難さも指摘されており、(追記) 少なくとも2010年代初頭までは (追記ここまで)こうした分類が世界遺産委員会の審議で特筆されることもな(追記) かった (追記ここまで)<ref name = inaba>[[稲葉信子]]「『負の世界遺産』という言葉から考えること」(『世界遺産年報2011』)</ref>。
世界遺産の関連書では、主に登録理由の一部ないし全部が[[平和]]への希求や[[人種差別]]の撤廃などの歴史と密接に結びついている物件が挙げられている。物件によってはその多面的な要素から、正の遺産とも負の遺産とも位置付けられる可能性も指摘されている<ref>日本ユネスコ協会連盟『世界遺産年報2002』pp.58-59</ref>。例えば、「[[海商都市リヴァプール]]」は[[大英帝国]]の繁栄を伝える物件として登録されたものであり、世界遺産の関連書などでも負の遺産と位置付けられてはいないが、その発展と繁栄が黒人奴隷を商品とする[[三角貿易#大西洋三角貿易|三角貿易]]で形成されたという側面に注目し、「負の遺産」と位置付ける見解なども存在する<ref name = taneda>種田明「[(削除) http (削除ここまで)://ci.nii.ac.jp/naid/110007587080 リヴァプール、海商都市の歴史観光]」静岡文化芸術大学研究紀要、vol.10、2009年</ref>。<!-- これ以外の「見方を変えれば○しろまる○しろまるも負の世界遺産である」という主張を追加される場合は、その「見方」が直接示されている出典を必ず添えてください。そうでない限りは独自研究となり、ウィキペディアに書くことはできません -->
世界遺産の関連書では、主に登録理由の一部ないし全部が[[平和]]への希求や[[人種差別]]の撤廃などの歴史と密接に結びついている物件が挙げられている。物件によってはその多面的な要素から、正の遺産とも負の遺産とも位置付けられる可能性も指摘されている<ref>日本ユネスコ協会連盟『世界遺産年報2002』pp.58-59</ref>。例えば、「[[海商都市リヴァプール]]」は[[大英帝国]]の繁栄を伝える物件として登録されたものであり、世界遺産の関連書などでも負の遺産と位置付けられてはいないが、その発展と繁栄が黒人奴隷を商品とする[[三角貿易#大西洋三角貿易|三角貿易]]で形成されたという側面に注目し、「負の遺産」と位置付ける見解なども存在する<ref name = taneda>種田明「[(追記) https (追記ここまで)://ci.nii.ac.jp/naid/110007587080 リヴァプール、海商都市の歴史観光]」静岡文化芸術大学研究紀要、vol.10、2009年</ref>。<!-- これ以外の「見方を変えれば○しろまる○しろまるも負の世界遺産である」という主張を追加される場合は、その「見方」が直接示されている出典を必ず添えてください。そうでない限りは独自研究となり、ウィキペディアに書くことはできません -->
いわゆる「負の世界遺産」の場合、[[世界遺産登録基準]](6)を含むか、それのみが適用されて登録されているのが一般的である。
いわゆる「負の世界遺産」の場合、[[世界遺産登録基準]](6)を含むか、それのみが適用されて登録されているのが一般的である。
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1980年の第4回世界遺産委員会で基準(6)のみで登録することの是非が議題に上り<ref>[[岡田保良]]「『関連性』-世界遺産登録にあたっての評価基準(vi)をめぐって」(『世界遺産年報2011』)</ref>、基準(6)のみの登録自体が、特に負の遺産とは位置付けられていない「[[ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ]]」(1981年)、「[[リラ修道院]]」(1981年)、「プエルトリコの[[ラ・フォルタレサ]]と[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン国定史跡]]」(1983年)の3件の後、一時的に途絶えた。
1980年の第4回世界遺産委員会で基準(6)のみで登録することの是非が議題に上り<ref>[[岡田保良]]「『関連性』-世界遺産登録にあたっての評価基準(vi)をめぐって」(『世界遺産年報2011』)</ref>、基準(6)のみの登録自体が、特に負の遺産とは位置付けられていない「[[ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ]]」(1981年)、「[[リラ修道院]]」(1981年)、「プエルトリコの[[ラ・フォルタレサ]]と[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン国定史跡]]」(1983年)の3件の後、一時的に途絶えた。
次に基準(6)のみで登録されたのは[[原爆ドーム]](1996年)だが、その登録に際して委員会は紛糾し、[[アメリカ合衆国]](削除) は (削除ここまで)[[戦争遺跡]]を世界遺産に含めること(削除) 自体 (削除ここまで)に否定的な見解を示した<ref>[http://whc.unesco.org/archive/repco96x.htm#annex5 WH Committee: Report of 20th session, merida 1996:ANNEXV STATEMENTS BY CHINA AND THE UNITED STATES OF AMERICA DURING THE INSCRIPTION OF THE HIROSHIMA PEACE MEMORIAL (GENBAKU DOME)]。</ref>。このときの決議は、あくまでも平和希求の象徴として評価に基づいており、評価基準の適用に当たっては「戦争」との関連は直接的に示されていない<ref name= inaba />。
次に基準(6)のみで登録されたのは[[原爆ドーム]](1996年)だが、その登録に際して委員会は紛糾(追記) し、[[中華人民共和国|中国]]は日本以外のアジア諸国の被害を過小評価しようとすることに利用されることへの懸念を示 (追記ここまで)し、[[アメリカ合衆国]](追記) も日本の「友人」としての立場を主張しつつも、 (追記ここまで)[[戦争遺跡]]を世界遺産に含めることに(追記) は (追記ここまで)否定的な見解を示した<ref>[http://whc.unesco.org/archive/repco96x.htm#annex5 WH Committee: Report of 20th session, merida 1996:ANNEXV STATEMENTS BY CHINA AND THE UNITED STATES OF AMERICA DURING THE INSCRIPTION OF THE HIROSHIMA PEACE MEMORIAL (GENBAKU DOME)(追記) (追記ここまで)](追記) ユネスコ世界遺産センター{{en icon}} (追記ここまで)。</ref>。このときの決議は、あくまでも平和希求の象徴として評価に基づいており、評価基準の適用に当たっては「戦争」との関連は直接的に示されていない<ref name= inaba />。
そして、この件を境に基準(6)は他の基準との併用を原則とする旨の条件付けがなされたが、その条件付けは[[ロベン島]]の登録(1999年)にあたって早速問題になった。事前審査を行った[[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]]は基準(6)について顕著な普遍的価値を認めたものの、同時に提案されていた基準(3)については否定的評価を下したからである。ICOMOSは基準(3)をご都合主義的に盛り込むことに難色を示していたが、委員会の審議は、基準(3)も適用することで決着した<ref>[[松浦晃一郎]]『世界遺産 ユネスコ事務局長は訴える』講談社、2008年、p.106</ref><ref name = inaba />。
そして、この件を境に基準(6)は他の基準との併用を原則とする旨の条件付けがなされたが、その条件付けは[[ロベン島]]の登録(1999年)にあたって早速問題になった。事前審査を行った[[国際記念物遺跡会議|ICOMOS]]は基準(6)について顕著な普遍的価値を認めたものの、同時に提案されていた基準(3)については否定的評価を下したからである。ICOMOSは基準(3)をご都合主義的に盛り込むことに難色を示していたが、委員会の審議は、基準(3)も適用することで決着した<ref>[[松浦晃一郎]]『世界遺産 ユネスコ事務局長は訴える』講談社、2008年、p.106</ref><ref name = inaba />。
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負の世界遺産には明確な定義はなく、[[稲葉信子]]などは自身が使用することに否定的な見解を示している。その一方で、教育現場などでは一定の意義を有する用語だとも指摘している<ref name =inaba />。過去には私立中学の入試問題でも、負の世界遺産に関する問題が出題された<ref>佐滝剛弘『旅する前の「世界遺産」』文春新書、pp.3-5</ref>。
負の世界遺産には明確な定義はなく、[[稲葉信子]]などは自身が使用することに否定的な見解を示している。その一方で、教育現場などでは一定の意義を有する用語だとも指摘している<ref name =inaba />。過去には私立中学の入試問題でも、負の世界遺産に関する問題が出題された<ref>(追記) [[ (追記ここまで)佐滝剛弘(追記) ]] (追記ここまで)『旅する前の「世界遺産」』文春新書、pp.3-5</ref>。
== 負の世界遺産の例 ==
== 負の世界遺産の例 ==
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| [[ファイル:Kilwa_Kisiwani_Fort.jpg|100px]]||[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群]]<ref name = furuta>[[古田陽久]]『世界遺産ガイド―文化遺産編― 2010改訂版』シンクタンクせとうち、2010年、p.48</ref>||[[タンザニア]]||(3)||牢獄の遺跡などを含む。
| [[ファイル:Kilwa_Kisiwani_Fort.jpg|100px]]||[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群]]<ref name = furuta>[[古田陽久]]『世界遺産ガイド―文化遺産編― 2010改訂版』シンクタンクせとうち、2010年、p.48</ref>||[[タンザニア]]||(3)||牢獄の遺跡などを含む。
| [[ファイル:61 - Carthagène - Décembre 2008.jpg|100px]]||[[(削除) カルタヘナ (コロンビア)| (削除ここまで)カルタヘナの港、要塞(削除) 群と (削除ここまで)建造物群]] <ref name = furuta />||[[コロンビア]]||(4)(6)||南米各地で略奪された[[アメリカ大陸の先住民族|先住民]]の財宝の積出港となった。
| [[ファイル:61 - Carthagène - Décembre 2008.jpg|100px]]||[[カルタヘナの港、要塞(追記) 、歴史的 (追記ここまで)建造物群]] <ref name = furuta />||[[コロンビア]]||(4)(6)||南米各地で略奪された[[アメリカ大陸の先住民族|先住民]]の財宝の積出港となった。
| [[ファイル:Potosi03.jpeg|100px]]||[[ポトシ#世界遺産|ポトシ市街]]<ref name = furuta />||[[ボリビア]]||(2)(4)(6)||その過酷な労働から「人を食う山」と恐れられた[[銀]]鉱山の下で発達した町。[[2014年]]に「[[危機にさらされている世界遺産]]」に登録された。
| [[ファイル:Potosi03.jpeg|100px]]||[[ポトシ#世界遺産|ポトシ市街]]<ref name = furuta />||[[ボリビア]]||(2)(4)(6)||その過酷な労働から「人を食う山」と恐れられた[[銀]]鉱山の下で発達した町。[[2014年]]に「[[危機にさらされている世界遺産]]」に登録された。
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| [[ファイル:Gambia 2010 - St. James island 0003.jpg|100px]]||[[クンタ・キンテ島と関連遺跡群]]<ref name = kentei300 />||[[ガンビア]]||(3)(6)||[[ゴレ島]]とともに[[奴隷貿易]]の拠点となった。
| [[ファイル:Gambia 2010 - St. James island 0003.jpg|100px]]||[[クンタ・キンテ島と関連遺跡群]]<ref name = kentei300 />||[[ガンビア]]||(3)(6)||[[ゴレ島]]とともに[[奴隷貿易]]の拠点となった。
| [[ファイル:Liverpool_Pier_Head.jpg|100px]]||[[海商都市リヴァプール]]<ref name = taneda /><ref> [http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards593.html NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー <nowiki>[海商都市リバプール]</nowiki> ]</ref>||[[イギリス]]||(2)(3)(4)||奴隷を含む三角貿易で栄えた港。
| [[ファイル:Liverpool_Pier_Head.jpg|100px]]||(追記) <del> (追記ここまで)[[海商都市リヴァプール]](追記) </del> (追記ここまで)<ref name = taneda /><ref> [http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards593.html NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー <nowiki>[海商都市リバプール]</nowiki> ]</ref>||[[イギリス]]||(2)(3)(4)||(追記) <del> (追記ここまで)奴隷を含む三角貿易で栄えた港(追記) 。</del>※(注記)[[2021年]]に登録が抹消された (追記ここまで)。
| [[ファイル:Stari Most September 2004 4.jpg|100px]]||[[スタリ・モスト|モスタル旧市街の古い橋の地区]]<ref>世界遺産アカデミー『世界遺産検定公式基礎ガイド2008年版』毎日コミュニケーションズ、2008年、p.71</ref><ref name = kentei300 />||[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]||(6)||民族・宗教対立によって破壊された橋。内戦終結後に再建された平和と共存の象徴でもある。
| [[ファイル:Stari Most September 2004 4.jpg|100px]]||[[スタリ・モスト|モスタル旧市街の古い橋の地区]]<ref>世界遺産アカデミー『世界遺産検定公式基礎ガイド2008年版』毎日コミュニケーションズ、2008年、p.71</ref><ref name = kentei300 />||[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]||(6)||民族・宗教対立によって破壊された橋。内戦終結後に再建された平和と共存の象徴でもある。
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| [[ファイル:Le Morne2.jpg|100px]]||[[ル・モーン・ブラバン|ル・モーンの文化的景観]]<ref name = kentei300 />||[[モーリシャス]]||(3)(6)||脱走した奴隷たちが自由を求めて戦った場所。
| [[ファイル:Le Morne2.jpg|100px]]||[[ル・モーン・ブラバン|ル・モーンの文化的景観]]<ref name = kentei300 />||[[モーリシャス]]||(3)(6)||脱走した奴隷たちが自由を求めて戦った場所。
| [[ファイル:Bikini beach area.jpg|100px]]||[[ビキニ環礁|ビキニ環礁の核実験場跡]]<ref>[[古田陽久]] [[古田真実]] 『世界遺産事典2014』シンクタンクせとうち、2013年、p.80</ref><ref>[[世界遺産アカデミー]]監修『すべてがわかる世界遺産大事典〈上〉』マイナビ、2012年、p.23</ref>||[[マーシャル諸島]]||(4)(6)||1954年[[3月1日]]の核実験で多数の漁船や島民が(削除) 、 (削除ここまで)[[放射(削除) 能 (削除ここまで)]](削除) を含んだ (削除ここまで)死の灰を浴びた。
| [[ファイル:Bikini beach area.jpg|100px]]||[[ビキニ環礁|ビキニ環礁の核実験場跡]]<ref>[[古田陽久]] [[古田真実]] 『世界遺産事典2014』シンクタンクせとうち、2013年、p.80</ref><ref>[[世界遺産アカデミー]]監修『すべてがわかる世界遺産大事典〈上〉』マイナビ、2012年、p.23</ref>||[[マーシャル諸島]]||(4)(6)||(追記) 繰り返し行われた[[核実験]]により地域汚染を引き起こしたほか、 (追記ここまで)1954年[[3月1日]]の核実験で(追記) は (追記ここまで)多数の漁船や島民が[[放射(追記) 性降下物 (追記ここまで)]](追記) ( (追記ここまで)死の灰(追記) ) (追記ここまで)を浴びた。
| [[ファイル:PortArthurPenitentiary.jpg|100px]]||[[オーストラリアの囚人遺跡群]]<ref>[[古田陽久]] [[古田真実]] 『世界遺産事典2014』シンクタンクせとうち、2013年、p.78</ref>||[[オーストラリア]]||(4)(6)||かつて[[大英帝国]]が築いた刑務所などの建造物群。
| [[ファイル:PortArthurPenitentiary.jpg|100px]]||[[オーストラリアの囚人遺跡群]]<ref>[[古田陽久]] [[古田真実]] 『世界遺産事典2014』シンクタンクせとうち、2013年、p.78</ref>||[[オーストラリア]]||(4)(6)||かつて[[大英帝国]]が築いた刑務所などの建造物群。
(削除) <!-- (削除ここまで)物件は登録年順に並べてあります。新規に加える場合は誰が負の遺産と位置付けているのか、出典を明記して下さい。 -->
物件は登録年順に並べてあります。新規に加える場合は誰が負の遺産と位置付けているのか、出典を明記して下さい。 -->
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*[[世界遺産]]
*[[世界遺産(追記) ]] - [[記憶の場所 (追記ここまで)]]
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[[Category:世界遺産]]
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2023年7月30日 (日) 09:45時点における最新版
負の世界遺産(ふのせかいいさん)とは、世界遺産のうち、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件を指す[1] 、日本国内での用語である。ユネスコが公式にそのような分類をしているわけではなく、明確な定義は存在しない。
また、英語での定訳もなく、Legacy of Tragedy と訳す者がいる一方で[2] 、簡潔に英訳することの困難さも指摘されており、少なくとも2010年代初頭まではこうした分類が世界遺産委員会の審議で特筆されることもなかった[3] 。
世界遺産の関連書では、主に登録理由の一部ないし全部が平和への希求や人種差別の撤廃などの歴史と密接に結びついている物件が挙げられている。物件によってはその多面的な要素から、正の遺産とも負の遺産とも位置付けられる可能性も指摘されている[4] 。例えば、「海商都市リヴァプール」は大英帝国の繁栄を伝える物件として登録されたものであり、世界遺産の関連書などでも負の遺産と位置付けられてはいないが、その発展と繁栄が黒人奴隷を商品とする三角貿易で形成されたという側面に注目し、「負の遺産」と位置付ける見解なども存在する[5] 。
いわゆる「負の世界遺産」の場合、世界遺産登録基準(6)を含むか、それのみが適用されて登録されているのが一般的である。
- (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
ただし、独立記念館、リラ修道院、ランス・オ・メドーなども基準(6)のみで登録されているが、一般に負の世界遺産とは見なされていない。このように基準(6)が適用されている物件がただちに負の世界遺産といえるわけではないが、基準に付けられた但し書きの存在によって、現在では基準(6)のみを理由として推薦できるのは、負の遺産に分類されうる物件だけとも言われている[6] 。
なお、上でも述べたように、世界遺産登録理由で直接強調されていなくとも、その物件の負の側面に注目して「負の世界遺産」と位置づけられることがあり、その場合には基準(6)を含んでいないことがある。この点、下に掲げるリストも参照のこと。
世界遺産条約に基づき世界遺産が登録されるようになったのは、第2回世界遺産委員会(1978年)からである。その年に登録された最初の世界遺産12件の中に、「負の世界遺産」とされる「ゴレ島」が含まれていた。
翌年には、「アウシュヴィッツ強制収容所」と「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」が登録された。なお、前者の登録については、類似物件の登録を今後制限する旨の付帯決議が盛り込まれた[7] 。
1980年の第4回世界遺産委員会で基準(6)のみで登録することの是非が議題に上り[8] 、基準(6)のみの登録自体が、特に負の遺産とは位置付けられていない「ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ」(1981年)、「リラ修道院」(1981年)、「プエルトリコのラ・フォルタレサとサンフアン国定史跡」(1983年)の3件の後、一時的に途絶えた。
次に基準(6)のみで登録されたのは原爆ドーム(1996年)だが、その登録に際して委員会は紛糾し、中国は日本以外のアジア諸国の被害を過小評価しようとすることに利用されることへの懸念を示し、アメリカ合衆国も日本の「友人」としての立場を主張しつつも、戦争遺跡を世界遺産に含めることには否定的な見解を示した[9] 。このときの決議は、あくまでも平和希求の象徴として評価に基づいており、評価基準の適用に当たっては「戦争」との関連は直接的に示されていない[3] 。
そして、この件を境に基準(6)は他の基準との併用を原則とする旨の条件付けがなされたが、その条件付けはロベン島の登録(1999年)にあたって早速問題になった。事前審査を行ったICOMOSは基準(6)について顕著な普遍的価値を認めたものの、同時に提案されていた基準(3)については否定的評価を下したからである。ICOMOSは基準(3)をご都合主義的に盛り込むことに難色を示していたが、委員会の審議は、基準(3)も適用することで決着した[10] [3] 。
その後、基準(6)の但し書きは上記のように表現が若干緩和されたが、ロベン島の登録以降で基準(6)のみによって登録されたのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ初の世界遺産となった「モスタル旧市街の古い橋の地区」とモーリシャス初の世界遺産となった「アープラヴァシ・ガート」のみである(2010年の第34回世界遺産委員会終了時点)。これらは後掲のリストの通り、負の遺産に分類されることがある。
負の世界遺産には明確な定義はなく、稲葉信子などは自身が使用することに否定的な見解を示している。その一方で、教育現場などでは一定の意義を有する用語だとも指摘している[3] 。過去には私立中学の入試問題でも、負の世界遺産に関する問題が出題された[11] 。
負の世界遺産に公式な定義や分類が存在しない以上、何を負の遺産と見なすかについては論者によって異なる。以下では、世界遺産の関連文献で負の遺産と位置付けられるか、それに準ずる負の教訓を含む物件と分類されているものを登録年順に挙げる。