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'''服部 武雄'''('''はっとり たけお''' [[天保]]3年([[1832年]]) - [[慶応]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1867年]][[12月13日]]))。通称は'''三郎兵衛'''。
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[[播州]][[赤穂藩]]出身。[[新選組]] 諸士調役兼監察、のち[[御陵衛士]](高台寺党)。
'''服部 武雄'''(はっとり たけお、[[天保]]3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]<ref>『篠山藩京都御留守居日録』丹波古文書の会、2021年 280頁</ref>〈[[1833年]][[1月12日]]〉 - [[慶応]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]〈[[1867年]][[12月13日]]〉)は、[[新選組]]隊士<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_105694/ (2022年5月2日閲覧)]</ref>・[[御陵衛士]]。通称は'''三郎兵衛'''。諱は'''良章'''。


== 来歴 ==
大柄(削除) の人物 (削除ここまで)で、[[(削除) 新選組 (削除ここまで)]](削除) 隊 (削除ここまで)(削除) 1、2 (削除ここまで)を争う[[剣術]]、[[柔術]]、[[槍術]]の相当の(削除) 達人で隊内でも (削除ここまで)使い手として名を馳せ(削除) 、天才剣士の[[沖田総司]]よりも強かったとも言われてい (削除ここまで)る。
[[天保]]3年([[1832年]])、[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]に生まれる。「殉難録稿」他には奸臣を斬って出奔した旨が記されているが、可能性は皆無といえる。


新選組に加盟し、[[元治]]元年10月の編成では[[尾形俊太郎]]の五番組に属す。慶応元年の春、諸士調役兼監察・[[撃剣師範]]。慶応元年11月、[[近藤勇]]の[[長州藩|長州]]出張に随行する。慶応2年9月、[[三条制札事件]]では、目付役として活躍する。慶応3年3月、[[伊東甲子太郎]]らと離脱して[[御陵衛士]]を結成する。同年11月18日、[[油小路事件]]で落命。享年36。


なお、[[近江屋事件|坂本龍馬が殺された時]]、服部武雄は次の弔歌を捧げている。
*[[元治]]元年10月に[[伊東甲子太郎]]らと入隊と思われるが明らかでない。同年の編成で[[尾形俊太郎]]の五番組に属す。
*慶応元年の春 諸士調役兼監察に任命される。同時に[[撃剣師範]]となる。
*慶応元年11月 [[近藤勇]]の[[長州藩|長州]]出張に随行する。
*慶応2年9月 [[三条制札事件]]では、目付役として活躍する。
*慶応3年3月 [[伊東甲子太郎]]らと[[新選組]]を離脱。[[御陵衛士]]に参加する。
*同年11月18日、[[油小路事件]]で落命。享年36。


<blockquote>「坂本立<ref>[[ママ (引用)|原文ママ]]</ref>馬主横死の由を聞きて 尋ぬべき人もあらしのはげしくて 散る花のみぞおどろかねぬる」(『近世殉国一人一首伝』)</blockquote>
用意周到な彼は、暗殺された[[伊東甲子太郎]]の屍骸を引き取りに行く際、全員武装を主張したが受け入れられなかった。[[藤堂平助]]らが四方から囲まれて討ち取られ、[[三木三郎]]、[[加納鷲雄]]、[[富山弥兵衛]]、[[篠原泰之進]]らが逃げたのに対し、ただ一人武装していた服部は、塀を背にして最期まで孤軍奮闘、獅子奮迅な戦いぶりで新撰組隊士を一人で苦しめたようだ。しかし、刀が折れたところを[[原田左之助]]によって討たれたといわれ、その身体には20余りの傷を負い、両手に刀を握り締め大の字になって斃れていたと伝わる。


== 備考 ==
「就中服部氏の死状は最も物美事(削除) 【 (削除ここまで)もののみごと(削除) 】 (削除ここまで)である。....手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。....其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」(事件後の現場を目撃した桑名藩士・小山正武の証言)
(追記) * (追記ここまで)大柄で(追記) 剛力 (追記ここまで)、[[(追記) 二刀流 (追記ここまで)]](追記) の達人でもあり、組 (追記ここまで)(追記) 一二 (追記ここまで)を争う[[剣術]]、[[柔術]]、[[槍術]]の相当の使い手として名を馳せる。
* 油小路事件では、暗殺された伊東の屍骸を引き取りの際、[[鎖帷子]]を着込む武装を主張したが受け入れられず、黙ってただ一人密かに鎖帷子を着ていた。[[鈴木三樹三郎]]や[[加納鷲雄]]、[[富山弥兵衛]]、[[篠原泰之進]]らが逃走した際、服部は塀を背にして多勢の新選組を相手に最期まで孤軍奮闘している。御陵衛士の研究家である[[市居浩一]]は、「逃走が困難になる鎖帷子を着た服部は、いざという時は同志を逃がすために最後まで敵を引きつけ、討死する覚悟をしていたのであろう」と指摘している。
(追記) * (追記ここまで)「就中服部氏の死状は最も物美事(追記) ( (追記ここまで)もののみごと(追記) ) (追記ここまで)である。....手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。....其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」(事件後の現場を目撃した(追記) [[ (追記ここまで)桑名藩(追記) ]] (追記ここまで)士・(追記) [[ (追記ここまで)小山正武(追記) ]] (追記ここまで)の証言)

== 参考文献 ==

市居浩一『高台寺党の人びと』/人びと文庫/刊行年1977

==登場作品==
* '''映画'''
** [[新選組血風録 近藤勇]](1963年、[[東映]])- 演:[[遠山金次郎]]

* '''テレビドラマ'''
** [[燃えよ剣#1970年版|燃えよ剣]](1970年、[[テレビ朝日]])- 演:[[芦田鉄雄]]
** [[新選組始末記]](1977年、[[TBS]]) - 演:[[上田耕一]]
** [[燃えよ剣#1990年版|燃えよ剣]](1990年、[[テレビ東京]])- 演:[[桑名良輔 (俳優)|桑名良輔]]
** [[新選組血風録 (テレビドラマ)#1998年版|新選組血風録]](1998年、テレビ朝日)- 演:[[谷口高史]]
** [[壬生義士伝#テレビドラマ|壬生義士伝]](2002年、テレビ東京)- 演:[[阿藤快]]
** [[新選組!]](2004年、[[日本放送協会|NHK]])- 演:[[梶浦昭生]]<ref>[https://thetv.jp/program/0000001259/43/ 新選組!(2022年5月2日閲覧)]</ref>

* '''Vシネマ'''
** [[実録 新選組]](2006年)- 演:[[山口粧太]]

* '''漫画'''
** [[るろうに剣心]]北海道編
** [[ちるらん 新撰組鎮魂歌|ちるらん新選組鎮魂歌]]
** [[ABURA]](2022年8月-、[[マンガワン]])

* '''ゲーム'''
** [[英傑大戦]](2022年)- 声:[[東地宏樹]]
** [[Fate/Grand Order]](2023年) - 声:[[山野井仁]]

== 脚注 ==
{{reflist}}


その凄まじさは幕末の抗争の中でも1,2を争うものだと伝えられている。
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[[Category:新選組隊士]]
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[[Category:御陵衛士]]
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[[Category:武術家]]
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[[Category:(削除) 1832年生 (削除ここまで)]]
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[[Category:暗殺された人物]]
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曖昧さ回避 この項目では、新撰組隊士について記述しています。俳優の同名の人物については「服部武雄 (俳優)」をご覧ください。
曖昧さ回避 元プロ野球選手の「服部武夫」とは別人です。

服部 武雄(はっとり たけお、天保3年12月22日 [1] 1833年 1月12日〉 - 慶応3年11月18日1867年 12月13日〉)は、新選組隊士[2] 御陵衛士。通称は三郎兵衛。諱は良章

来歴

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天保3年(1832年)、播磨 赤穂藩に生まれる。「殉難録稿」他には奸臣を斬って出奔した旨が記されているが、可能性は皆無といえる。

新選組に加盟し、元治元年10月の編成では尾形俊太郎の五番組に属す。慶応元年の春、諸士調役兼監察・撃剣師範。慶応元年11月、近藤勇長州出張に随行する。慶応2年9月、三条制札事件では、目付役として活躍する。慶応3年3月、伊東甲子太郎らと離脱して御陵衛士を結成する。同年11月18日、油小路事件で落命。享年36。

なお、坂本龍馬が殺された時、服部武雄は次の弔歌を捧げている。

「坂本立[3] 馬主横死の由を聞きて 尋ぬべき人もあらしのはげしくて 散る花のみぞおどろかねぬる」(『近世殉国一人一首伝』)

備考

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  • 大柄で剛力、二刀流の達人でもあり、組中一二を争う剣術柔術槍術の相当の使い手として名を馳せる。
  • 油小路事件では、暗殺された伊東の屍骸を引き取りの際、鎖帷子を着込む武装を主張したが受け入れられず、黙ってただ一人密かに鎖帷子を着ていた。鈴木三樹三郎加納鷲雄富山弥兵衛篠原泰之進らが逃走した際、服部は塀を背にして多勢の新選組を相手に最期まで孤軍奮闘している。御陵衛士の研究家である市居浩一は、「逃走が困難になる鎖帷子を着た服部は、いざという時は同志を逃がすために最後まで敵を引きつけ、討死する覚悟をしていたのであろう」と指摘している。
  • 「就中服部氏の死状は最も物美事(もののみごと)である。....手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。....其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」(事件後の現場を目撃した桑名藩士・小山正武の証言)

参考文献

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市居浩一『高台寺党の人びと』/人びと文庫/刊行年1977

登場作品

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脚注

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  1. ^ 『篠山藩京都御留守居日録』丹波古文書の会、2021年 280頁
  2. ^ (2022年5月2日閲覧)
  3. ^ 原文ママ
  4. ^ 新選組!(2022年5月2日閲覧)

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