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3月10日はグループホームへ介助に行った。2人は実家に帰っていたので、2人の女性と10時から4時まで、過ごした。
友人が茎わかめととザーサイの炒め物、明日葉の胡麻和えなどを持って慰問にきてくれた
お昼は、お餅を2枚づつ、焼いて明日葉のごま和えをしょう油の代わりに使った。なんとも言えずおいしかった。友人が作ってくれた、ちょぴりの野菜炒めを付け合せに食べた。
友人はおにぎりを持ってきていた。
その帰り、メロウのミニオフ会「あんこう鍋を食べる会」に参加した。
11日は障害者とのお茶の会があって、全盲の方と割り稽古。手取り足取りだったが、よくなさった。感服。
12日は活動ホームへ。53歳くらいの女性とボールペンの組み立てをやった。本体を渡し、スプリングを入れてもらい、芯も頼む。そのあとは私がキャップを閉め、検査。
眠くなりそうだと一回り散歩する。
13日はぱそこんと俳句の会。
14日はやはいパソコン1日。
15・16日はグループホームへ泊り。4人の女性と過ごした。泊りは4時から、翌日の10時まで18時間束縛される。
「ケーキの日はいつだ。○しろまる○しろまるちゃんはダンスだぞ」
「イチゴ刈りはいつだ。そうか次の日曜か」
「あやこ、これ持っていけ、色が嫌いだ。赤じゃないもん」
とブラウスをくれる。
他の3人にはこういうおしゃべりはない。
夜は1人の女性のベッドサイドに寝て、世話をする。起き出してきて、我が布団に潜り込む時がある。大きな体なので、私は布団からはみ出して寝ることになる。
17日はボランティアでやっているコーヒフレンドというグループの交流会で、葛西臨海公園へ福祉バスで行った。11名が障害者で、世話をするのだった。
21歳の男性は、私にスカートを穿いてきてくださいと要望したので、スカートで出かけた。上から下まで眺めて喜んでくれた。
18日はグループホームへ。動物の出てくるテレビを見て、みんなで大笑いをした。
19日は活動ホームへ。職員の男性が1人休みだったので、5人の男女の面倒を見ながら、彼らたちが組んだボールペンの検査をした。「出来上がらなければ、明日の八景島行きはないのよ」と女性の職員の冗談を真に受けた、のんこさんは、
「あやこさん、ほんと終わらなかったら行けなくなるの」
と真剣。
「そうよ。組み立て早いんだからがんばろう」
と私も冗談を言った。終わることはわかりきっていたのだ。
20日、52名を乗せた福祉バスは八景島へ。半数が障害者だった。17日から始まった、シロイルカ4頭と4人の女性たちのショーを見ることができた。すばらしかった。
21日は家にいた。たったひとりで。
でも、遊んでいられない。ある共同募金10万円をもらったグループの会計報告、活動報告を作った。募金を頂くのはありがたいが、あとの始末が大変なところだ。
22日は91歳のボーイフレンドの絵を渋谷へ見に行った。おしゃべりの時間が短く帰ってこなければならなかった。
グループホームへ泊りなのだ。私が寝ないので、寝つかれないらしく起き出してきてしまうので、10時半に布団に入った。でも、なぜか寝付けない。1時間おきくらいに時間を確認してしまった。朝9時半、みんなを作業所に送り出して、ほっとする。
その足で、図書館で校正をやって時間をつぶし、もうひとつの俳句の会へ回る。帰りは先生を含めてちょっとビールなど飲んで帰ってきた。
今日は24日、家にやっといられる。とほっとしたのだが、21日だけで終わらなかった、会計報告、1年間分を整理、計算しなければならないので、昼までかかった。
俳句へ体が悪く出席できない女性の、投句もやらなければ。
今、3時。なんにもやる気がせず、「陽だまり」にこんなことを打込んだ。これから3時のお茶にしよう。
お抹茶をいただくことにします。
こんなにして、毎日が暮れて行く。何かを切り取らねば自分の時間が持てないと考えもするが、これが自分の時間なのだ。とも思う。でもやっぱり、新聞を読む時間もなく、日記さへ、記録さへ打込む時間がないのだ。
午後、出かけた。家に戻ったのは5時を回っていた。洗濯物を取り込んだり、1つのグループの会計などをやっていたとき、携帯電話が鳴った。
出てみると友人。パソコンがいうこときかない。ワードの画面が出ない。と言う。でも、携帯電話の電波が悪いらしく電話は切れた。私から彼女のいる会社へ電話した。
なんでワードの画面が出ないのか、いろいろ聞いてみた。聞いているうちに「10%という数字が出ている」と言ったので、
「▲さんかくをクリックして、100%をクリックして」と答えた。「出たわっ」
「文字を大きくしたい」
と言う。範囲指定してと言ってもわからない。
「文字の頭にカーソルを当てて押しながら動かすの」
「できたわ。でも、2段目をやると、上が消えちゃった」
もうやっていられないと思ったがしかたない。
「上から下へ下ろすんだけど、離さないのよ」
「できたわ」
「文字の間を開けたいんだけど」
「上の段の一番終わりの文字の後ろにカーソルを当てて、エンターキーを押すのよ」
「できたわ。書いとく」
「どうしたの。なにをやるの」
「社長が文章書いてって言うのよ」
「そんなことわからない人になんで頼むの」
「そうよね」
何を言っても怒らない彼女である。
「ごめんね。電話代、こんど払うね」
「いいわよ。そんなこと」
「時間ある、食べに行こう」
と約束ができた。
数分もしないうちに電話がまた鳴る。話さないうちに切れた。会社の電話を使えばいいのに、自分の質問なので会社の電話は使えないらしい。律儀な人なのだ。また、こちらから電話した。
「字の下に線が引かれちゃったわ」
「プレビューで見てみて、引かれてる」
「うん、ある」
「文字を範囲指定して、明朝の文字のある横のほうに、Uの字があるでしょ。クリックして、消えた」
「消えたわ」
何をどうしたのやら、仕事でパソコンを操っているが、会計ソフトや注文を受けるなど、動かしているだけなので、こうなるのだ。
一からやらなければと思うのに、やる気はない。パソコンなど買うつもりなどもうとうないのだ。
1時間以上話してやっと解放された。
この間も、日曜日に会社へ行き、見てあげたのだ。1時間もかかって出かけ、10分もかからずに終わったのだった。あとは飲んで駄弁った。
26年前に解散した会社の同僚で、つきあっている女性なのである。
「また、わからなかったら、お願いね」
の言葉で別れた。
今後は、どんなことになるのやらである。
作成 2006年07月13日
コウモリというと、一般にマイナスイメージが強いのは2600年も前に生きたギリシャのアイソーポス(イソップ)のせいで、そんなものに未だに振り回されているほうがよっぽど可笑しい。
ちなみに、中国では瑞獣である。すなわち、蝠=福 桃=寿∴蝠+桃=福寿で、最高にめでたい。(正月の吉祥画について書いたメロウサロン#8494参照)吉祥画は他にもあって「福寿吉慶(清代)」では、絵の中に二羽の蝙蝠が飛び交い飛び切りの福を現し、ひとりの子供の持つ扇が善と同音、もう一人の子供の手にある戟(吉と同音)と磐(慶と同音)が、合わさって、吉慶となる。いずれの絵でも、蝙蝠は主役級の扱いである。
第一、コウモリは動物学的に云って、哺乳類、あっしら人間の仲間であもある。さらに、蚊や蛾を食べるので、益獣ともいえる。今、手元の、「中文字典」をみると、蝙蝠の項に、「...夜間在空中飛、捕食蚊、蛾等」などとある。また、哺乳類の翼手目でもある。翼手目といえば、キリスト教の天使なども、翼手目と云えない事もない。来年のえとである、「ネズミに似た」動物という説明も多い。
コウモリというと、あっしらはすぐ、こうもり傘を思い浮かべる。西洋文化が入る前は、和傘一本だったので、わざわざ洋傘という必要がなかったが、以後は洋傘和傘と分けて使うようになったらしい。コウモリと言うと英国紳士の身だしなみとか言われ、紳士の手にはかならずコウモリがあった。ステッキ代わりに、天気でも持ち歩いたようだ。
なぜ、コウモリと呼ぶかについては色々説もあるようだが、あっしは、万延元年遣米使節の一人が言い出してそれが、定着したという説を取りたい。広げた感じがコウモリにそっくりだったとか。
ちなみに、一行の木村攝津守(咸臨丸艦長)は、お土産に一本買い求めたという。こんなんが、今残ってて、オークションにでも出たら、一体いくらくらいの値がつくのか、あっしには想像できません。たぶん、何億円かな。
さき、コウモリに似ているからコウモリ傘説のほかに、被り物の意味でかんむり→コウモリ説も捨てがたい。もし、被り物だとしても、あっしには、かかわりがないわけではない。
紋次郎のトレードマークは、15センチの長楊枝と縞の合羽だけじゃない、そう、例の「三度笠」がなけりゃさまにならないようで...。笠も傘も、元々同じ紋やけん。ほな、さいなら。(^_-)-☆
唐辛子 紋次郎 殿 机下
拝啓
時宜を得たる御解説有難く御禮申上侯。
抑々、波素懇に闖入せんとせし折に藩弗の要請有り、即、右翼左翼に不偏の蝙蝠を選びたる処、傍らの亡妻よりの異議ありて
蝙蝠の蝙を変に換えしが、更に助言有り、偶々当時流行の歌曲
ぽんぽこりん参照にて語尾をリンと定め集りの意にて林を添加
せる次第に御座侯。
結果、珍名なる故か野風などにて検索の折には筆頭に掲出さる
る効果を生み得て侯。
感謝の微意を表明致し度く依而如件。
変蝠林(1917-) 謹言
今年5月、ジョグジャカルタは大きな地震に襲われ、ある地域では壊滅的な被害が出た。
政府に金が無く復旧に手が差延べられず困り果てている貧困層を見かねたB氏はボランティア組織"Mitra Banboo"を結成し,住民の拠所となる竹の家をつくっておくろうという運動だ。
ある日、場所の選定に行くので一緒に行かないかとB氏に誘われた。建築士の端くれとして願ってもないこと。Mitra BanbooのTシャツを着て同行した。
被害は地盤断層と関係しているのかある部落に入ると壊滅的な惨状を呈していた。でもその中で亀裂程度で立っているのは鉄筋コンクリートの家だけで、レンガ造の家で無傷ななものは一軒もなかった。
いつの世でもどこの国でも災害を真っ先に蒙るのは貧困層と決まっているようだ。
既にバンブーハウスが建設され礼拝場として使っているある部落を訪れた。震災後半年経っているのに村は瓦礫が片付けられた程度で村人はテント 暮らしだった。南国で暖かいのと人々の明るさが救いだった。テントはUnicefからの援助だった。
写真は建設作業中のバンブーハウス。80平米ほどの家で建設費は10,000,000ルピア位だと聞いた。材料費と運送費だけであろうが。
傍観するだけに忍びず貧者の一灯として百万ルピア(≒1万4千円)献金させてもらった。
先ほどB氏から、5軒分の資金が用意できたので直ぐ建設をする予定だ、もちろんtombo-sanの献金を含めてとうれしいメールが入った、
1日家にいられるので、るんるんしていた。今日は19日、7日以来のことだ。
パスポート用の戸籍謄本をもらいにいこうと考えた。どこへいけばいいかなと思いながら、他にも用事があったので、近くの役所へ行った。
係員が言った。
「本籍地はどこですか?」
「川崎です」
「それでは川崎の出張所へ行かなければ」
と場所を教えてくれた。弟の家の近くだった。どうせ行くならと、弟に連絡いっしょに行ってもらった。
「筆頭人はどなた?」
「夫です」
「それではご主人の本籍地へ取りに行かないと」
参った。無駄足を踏んでしまった。よく考えればわかることなのに。前回のパスポートから時は経ってるし、免許証もあまり眺めたことないし、私の本籍は川崎とばかり思っていた。
考えてみれば、私って結婚してたんだぁー。
弟に言われた。
「善紀さんに、川崎の出張所へ行ったなんて言えないね」
って。
弟宅に戻り、飲んでふらふらと、帰ってきた。半分はこれが目的で弟を誘ったのだ。なにを頼んでも断られたことはない。弟を神様みたいに子どものころから思っている。
23日、抄本を取りに区役所へ行った。抄本なら本籍地でなくてもだいじょうぶなのだ。パスポートは抄本でもいいとわかっていながら、「謄本を」と言ったばかりに回り道をした。 (2005年5月)
私が住む栃木県は関東平野の北端に当たり、県の北西部には日光火山群・高原火山群・群那須火群が南北に連なり、2000m級の山が数多く、スリー・シーズン登山を楽しむのに好都合である。
10年くらい前までは、冬でも出かけたものだが、最近寒さや強風の中の登山はおっくうになり、宇都宮市内の低い山か、茨城県北部の山々に足が向くようになって来た。
栃木の山域は火山性であるが、茨城県の方はそうではなく、準平原性の古い地層である。全体に礫岩の山が多く、久慈川沿いの景色はゆったりのんびりしているが、近づいてみると、低いとは言え、もろい岩が侵食を受けて怪異な山容を見せる場所も多い。
紅葉見物+足慣らし の目的で、ブラリと奥久慈男体山に出かけて見ることにした。有名な袋田の滝がある月居山から南に伸びる尾根の南端にある山である。
久し振りに行くことにしたので、アプローチの所要時間を甘く見てしまい、家事を済ませてから走り出し、途中で間食を買ったりトイレに寄ったりして、登山口に着いたら11時近くになってしまった。
数台分しかスペースが無い駐車場はもちろん満杯、途中の山道のカーブ毎に路傍駐車が多い。平日だと言うのに登っている人が多いと見える。軽自動車のメリットを生かして適当な場所に車を停め、ストレッチをしてから歩き始めた。もう辺りの紅葉は終わりかけているものが多い。
雑木林から杉林、また雑木林と急な登りをこなして行くうちに、時々下って来る人とすれ違う。岩場が連続する辺りになると、山慣れないらしい夫婦者を時々追い越すようになる。鎖が随所に設置してあるが、私は鎖は使わない主義だ。もっぱらダブルストックを活用し、必要なときは岩角に手をかけて登る。
鎖を止めてある鉄棒などは岩に穴を穿けて打ち込むか、セメントで固めてあるが、隙間に雨水がしみ込んで凍ることを繰り返すうちに抜ける可能性がある。道路の陥没によって車が事故を起こすと、管理する自治体や国が責任を問われるが、登山路の鎖が抜けて事故が起きても、誰も補償はして呉れない。
余談はさて置き、1時間半足らずの良いペースで頂上に着いた。余りの好天に空がかすみ、富士山どころか筑波山も見えない。関東には男体山・女体山が対を成す山がいくつかある。一番高いのは日光の男体山、これもここから見えるはずだが今日はダメ。日光の男体山と対を成すのは女体山ではなく、女峰山、栃木産の苺の銘柄の名の由来である。
同じような高さの山頂が二つある山を双耳峰と言うが、筑波山はその双耳峰で、頂上はそれぞれ男体山と女体山と呼ばれる。ここ奥久慈男体山の相手は、通常長福山と呼ばれる、すぐ近くの山である。
来る途中で買った草餅を食べながら一服、遠く北東の方向を見ると日立市と思しき方角の山の上に、風力発電の風車が数基並んでいた。ありゃりゃ、何時の間に出来たのか、今回初めて見た。小狭い頂上の広場は数人ずつのグループが休んでは下って行く。
登りは西側の健脚コースをとったが、下りは南側の一般コースに向かう。一般コースと言っても、下り始め数百米は断崖絶壁の縁を歩く狭い道、ころんだりしたら奈落へ真っ逆さま。しばらく前に新聞で事故が報じられていたが、崖っぷちの草むらに花が供えてあった。
ほとんど葉が落ちた広葉樹林のところどころカエデの紅が残っている。今年はどことも余り紅葉が良くないと言われているが、ここも例年に較べるとやや見劣りがする。石ころの多い雑木林を下って杉林になったらすぐ登山口に着いた。
車を停めた場所に向かう途中、アザミがポツポツと咲いていた。よし、コレを撮って絵を描いて、こんど出す本の表装に使おう・・・
朝には、帰りは大子の道の駅に寄って、温泉に入って帰ろうと思っていたが、二時半と時間が早いのでそのまま宇都宮に向かい、今話題のホッピーを仕入れて帰り、自宅で湯上りの一杯を楽しんだ。翌日、翌々日 別に足も痛くないので しめしめ
スキーシーズンに向けて 更に鍛えるべし。
朝、4時近くになるとどこからかアザーン(朝の礼拝への誘い)の朗誦が聞えてきて眠から起こされる。やがて近隣のモスクからも美声を競うかのように拡声器に乗って流れてくる。あの方向なら新しく建ったP村のモスクからだな、と判るようになる。唱い手は互いに競演しているのだろう。
食堂横のMushola(礼拝室)でB氏が跪いて敬虔な祈りを捧げていたが、今日の礼拝は、Mitra Banboo仲間のS氏が昨夜泊まって礼拝に加わったからか、いつも静かな礼拝だったのが声を出しての朗誦になった。まだ外は真っ暗な深夜、老人二人がメッカの方に向かって祈る姿は近寄り難い。滞在中ついに礼拝の写真は撮ることができなかった。
一日に5回の祈りがあって、Subul;4時, Duhur;12時, Azhar;16時, Magrid;日没時,Ishak;夜8時という。
B氏が、2年前夫婦で2週間サウジアラビアのにメッカに巡礼で行ったというので、わたしも四国遍路(Shikoku Pilgrimage)に6週間、と余計なことを言ってしまって後の説明で苦労した。いい加減な英語ながら歳を重ねてきたもの同士、はなしが通じたのが嬉しかった。
B氏に今度は日本へと誘ってみたら「インシャラー!」呟いたと。
Insha Allah! (それがアッラーの御心ならば、アッラーがそれを許してくだされば)
いい言葉だ。この一言でムスリムの人は気持ちを切り替えることができるのだろう。
ラマダン明けの祭りが終わる頃には三々五々帰って山荘は遂にB氏と二人だけになった。
B氏は山好きな小生の意をくんでディエン高原に連れて行ってくれた。そこは標高2000メートルの火口原にあるジャワ島最古の遺跡があるヒンドゥー教の「神々の座」である。高原を散策すると天上の世界で在りし日の栄華が偲ばれた。赤道近くとは思えない涼風に上着がほしいくらいだった。あちこちに寺院遺跡があってそこここに石が惜しげもなく転がっていた。
ジャワ島には3676mのMt.Mahameruを筆頭に8座あり、スマトラ島には3805mの富士山より高い山もあることを初めて知った。
案内書には島の東にあるMt.Bromoがいいと出ていたので是非とも行かねばとB氏に言ったら異国の老人をひとり旅させるのが心配になったのか、旅行社に連れていってくれた。結局運転手付きの車を一泊2日でチャーターすることになった。Mt.Bromoの山麓まで車で9〜10時間かかる遠距離だ。若いときに一度訪れたというB氏も行きたくなったのか同行することになった。翌朝、7時に車が山荘へ迎えに来た時B氏に何か言ったら「...Yes, sir」と運転手に聞えるような声で言った。茶目っ気のあるご仁だ。
ジャワの道路はオートバイで溢れている中、カミカゼ運転でぶっ飛ばす。ホテルには暗くなったころ着いて夜明け前、ジープをチャーターして登った。トヨタの車で1978年製というから驚いた。深夜険しい山道を運転するのは曲芸だ。
外輪山の外側にそびえるバナンジャカン山から眺めた星空から朝焼けのへのセレモニーは圧巻だった。徐々に姿を現してくる火の山ボロモは神が創ったとしか言いようがない大パノラマだった。
- Joyful Note -