フランクフルトの鉄道駅に行くには別に空港の外へ出る必要はない。歩いているうち、誰でも出札口へたどり着ける。荷物のある人は荷物用の車に上乗りして、移動することも出来る。出札係は親切な男で、往復を買うと安くなるからと勧めてくれた。
清潔感のあるIC(ドイツではイーシーでなく、これをイーツィと発音する)、乗り心地はたしかにいいんだが、難を云えばすこしスピードが速すぎる。せっかく風光明媚なライン川に沿って走るのに、その景色を十分に楽しめないのがチョッと残念だった。車両はコンパートメント式なのだが、昔のと違って、真ん中がうす空きで、完全に閉めるわけには行かない。防犯上は、たしかにこの方がいいんだろうが...。
この頃ヨーロッパでも、日本のやり方を真似たのか、車内アナウンスがあり、その放送によって、列車がやがてコーブレンツに着くことが分かった。駅前のタクシーに「ホテル・ディールス」というべきだったが、生まれつきアバウト人間のうえ、正確な名前を忘れていたので、つい「ヴィールス」と云ってしまった。日頃コンピュータウィルスの脅威に曝されているせいもあっただろう。これは下手をすると、病院か保健所へでも、連れて行かれるのではと、戦々恐々としていたが、そういう名前のホテルはこの町にはないらしく、チャンと正しいホテルへ送り届けてくれた。さすがドイツである。
きょうのホテルはなんと四つ星。ライン川にかけられた大橋を渡った川向こうにあり、閑静ないいホテルだ。チェックインして部屋へ通ると、えらく暑い。廊下のドアの辺りまで、強い日差しが差し込んでいる。これは堪らぬと、早速ライン川の川風を求めて、外へ出る。フロントで聞くと、通船はもう最終が出たあとだという。どうしようかと思っているところへ、渡りに船と、泊り客のかっこいいビジネスマンタイプの男が現れ、これからダウンタウンへ繰り出すところなので乗せてやると、申し出てくれた。
マーチャンと行くと、こういう困ったときには、必ず助け舟が出ることになっている。この町の盛り場でもあろうか、ツェントゥルム・プラッツというところで降ろしてくれた。ベルリンの出身だといっていたが、名前は聞かなかった。通行人にモーゼル川に出る道を聞き、モーゼル川とライン川の合流点を目指す。ここはドイツ語でドイチェス・エック(ドイツの角)と呼ばれ、一見の価値がある。
合流点に立つと、誰しも何がしかの感慨を抱くはずである。この地点を際立たせるためか、ドイツやEUや、そのほか色とりどりの旗が立ち並び、目の前を大きな遊覧船がひっきりなしに通るので、観ていて飽きるということがない。
旗のある場所の近くには、父なる川ラインを見下ろす形で、ウィルヘルム一世の銅像がある。ここへ上がると眺めが抜群によく石段が何百段かあり、旅の疲れの代表のような、我々にはとても無理と諦める。
その代わり、マイン川沿いのガストホーフのオープンテラスで、ドイツで初めてにして最後の、夕食をとることにする。ここまで来る間に見かけたビアガルテン(ビアガーデン)は、ニッポンでのように、ただ申し訳程度にそこここに貸し植木を並べたような代物ではなく、文字通り森の中にあって、みな愉しそうにジョッキ(ビアマグ)を、傾けていた。
またオープンテラスの話に戻るが、事前にあたりを偵察すると、食事の量がかなり多そうだったので、これならと「イタリア風サラダ」というのをえらんだ。しかし、これも実はイタリア風「ドイツサラダ」に過ぎなかった。マーチャンがその上にザワークラウトを二人分も頼んだので、当然のことながら、沢山余してしまった。付け合せのジャガイモとて、半端な量ではない。
チョッと大げさに云えば、「多摩御陵を幾分小さくしたくらいの」大きさはあった。巨大なソ−セージは、半分しか食えなかったが、たしかに美味であった。それから、ここのワイングラスは、チョッとゴツイが、特徴のある形をしていた。これはモーゼルワイン専用の、名物グラスだそうだ。
「日本人は胃袋が小さくて」というのを、うろ覚えのドイツ語でやってみたら、ベイシックな動詞、ハーベンの変化形を早速直されてしまった。帰りは、歩いて帰るには余りにも遠すぎたので、店でタクシーを呼んでもらった。翌朝のヴァイキングは、さすが四つ星と思わせる出来栄えだった。
まだ見たいところ、行きたいところは山ほどあったが、旅に未練はつき物、十分満足してフランクフルト行きの列車の乗り込んだ。波乱に富んだ我々のリグーリア旅行も、ついに終わりとなった。
ここまでご愛読くださった皆様、長い間ほんとうに有難うございました。心から「グラッツェ・ミッレ」と申し上げたい。 (FINE)
やっぱ、締めはマーチャンかな、これっきゃない。なお、いうならこのシャンじゃなかった、写真、マーチャンが出てくると、何もかも、影が薄くなって、霞んでしまう、ということの証明でもあります。 これにて、写真の方も打ち止めと致しまするぅ。バハハ〜イ。(^_-) また、いつか会おうぜ。
白兎山人 さん、すみませ〜ん。あや さんとマーチャンしか読んでくれないものと思って、山人さんの書き込みを見落としていました。埋め合わせにはなりませんが...。ドイツ料理はこの絵の方がいいかも。では、陽気に乾杯!
一歩車内に足を踏み入れると、おやおやもう席に座っている人がいます。どこかで見かけたような顔です。ああ、マーチャンではありませんか。でもこの絵は四人掛けがよく分かると思います。これがコンパートメントです。(まだ、ご存じない方のために。)廊下側から写しました。ドアにご注目ください。以前は普通に閉まりましたが、例のテロ対策のため今では、真ん中がぱっくりと開いて、両側の固定された無粋な仕切りに変貌しています。
きようの宿は手配済みなので、世界中の切手集めに狂奔?するマーチャンの希望で、モンテカルロ(モナコの首都)へと向かう。紋手軽櫓、おっと失礼、モンテカルロの駅は、こんな所にあっていいのかと誰でも心配になるほど、高い所にある。
下界に出ようと思えば、延々と続く階段を黙々と降り続ける必要がある。やっと地べたに下りてもまだ、安心は出来ぬ。下界も坂だらけ、リュックを背負った旅行者には、どうみても向いていない。
それに、こちとらには郵便局を探す仕事、銀行を探す仕事が控えている。考えてみたら、その前に、インフォーメーションを探す仕事もあった。駐車場のガードマンのような男に聞いたが、どうも要領を得なかった。まずシティーマップさえあればというわけで、お土産屋でplan de villeなるものを手に入れる。それを見ても、インフォーメーションは簡単には見つからなかった。
そのうち、足が痛くなり、歩くのがかなりしんどくなってきた。悪いことは続くもので、今度は急に尿意を催して来た。
意を決して、今度は本格的に案内所探しをすることにした。すると、何のことはない。その時いた公園のはずれにチャンとあるではないか。銀行の方は休みで、結局利用できなかったが、トイレは坂下の豪華ホテルメトロポールの前面に入り口を持つ、高級ショッピングセンターの中にあった。
艱難辛苦の末、また銀行探しを再開。ところが、ある銀行の掲示を見て、どこも閉まっている理由が一遍に分かった。今日はキリスト教の祝日、ペンテコステの日(五旬節)だったのだ。駅へ行くエレベータも、付き合ったのか、運行中止なので、またえらい思いをして駅まで上がった。構内の喫茶でまず口を癒し、向かいの売店でお土産を物色した。
何といっても、ここはモンテカルロ。モンテカルロといえば、F-1レースだ。F-1レースの文字の入ったT-shirt、これはマーチャンも買った。マーチャンご執心の郵便切手は、ついに手に入らずじまいだったが、こうなっては致し方ない。今日の宿のあるディアノ・マリーナへ向かうべく、エスカレータでホームへ降りる。
ここの駅ホームには、乗客用にベンチが並べてあるのだが、その配置が一風変わっている。電車の進行方向と直角に、背中合わせに置かれている。従って、ホームの時計も、同じ方向を向いている。エスカレータを利用する人には見やすい。これは確かだ。旅の専門家であるマーチャンが、前夜投宿先のホテルから、宿を電話で予約してくれたディアノ・マリーナの地でも、なお不思議はつづいた。だが、これは次回のお楽しみに回すことにした。(つづく)
まめなリリアーナは、食事中にも、あす乗る予定の国鉄時刻表をタイプアップして食卓に届けてくれる。だが、当日は当てにならぬイタリア国鉄など利用せず、ホテルのまん前にある、バス停で待つことにした。ところが、いつまで待っても、バスの来る気配がない。
そこへ丁度うまい具合に、ホテルの中から、宿で働いているらしい、シニョーラ(奥さん)が現れた。私らの窮状を見て、これから買い物に行くので、よかったらインペリアまで送って上げましょう、と申し出てくれた。好意に甘え道々片言で話しているうち、実は連れが最近パソコンの入門書を出版したことを、どうしても話したくなり、シドロモドロながらも、何とか挑戦だけはした。
とこうするうち、インペリアの町へ入り、シニョーラは国鉄の駅前で車を止めてくれた。有り難いことである。インペリア駅でつくづく思った。ああ、いよいよリグーリアともお別れか。いや、リグーリアどころかイタリアともお別れなのだ。でも、イタリア政府からリグーリア州については、その東西ともに、卒業証書をもらったような紋だから、悔いはない。とは云うものの、ボルディゲーラに立ち寄れなかったことは、チョッと心残りだ。ここは印象派の画家も度々描いている風光明媚の地で、また車窓から見たところでは、海岸は丁度開かれていた市で賑わっていたようだ。う〜ん、チョッと残念な気もする。
このままニースへ行ってもよかったのだが、留守番をしている97歳になるオバーチャンに、何かお土産がほしい(この時はまだ、健在だった)。しかも電車は鈍行(treno locale)、仏伊国境の町ヴェンティミッリャも見たい。そこで善は急げで、早速この駅で降りる。歩くにはまず身軽に、ということで荷物を預ける算段をする。
あちこち見回すと、あったあった。bagagli a manoの看板が。長い廊下を歩いて、そこまでやって来ると、肝心の係員が見当たらない。シャッターのようなものも降りている。ガラス張りのところから事務所をうかがうと、誰もいない。こりゃアカンワと何気なく脇を見ると、ちいさく、用のあるものはこれ(ボタン)を押すように、と張り紙がある。
騙されてもいいとボタンを押してみると、係員は背後の廊下のほうからやって来た。なるほど、そういう仕掛けになっていたのか。たぶん、客が少ないから、テレビのサッカー試合でも観ていたのだろう。
やっと身軽になったので、駅前の郵便局で切手を買い、アメリカとニッポンへ葉書を出す。町をぶらつきながら、オバーチャンのお土産を探すが、これがなかなか見つからない。三軒目にお土産屋ではなく、お誂え向きの「おもちゃ屋」を発見。カエルのおもちゃで、お腹を押すとアイラブユ〜というオモシロ玩具に決めた。声を出すだけではない、お腹に貼り付けた、馬鹿でかい、真っ赤なハートの上には、Sono pazzo di te!!!(おいらはあんたに首っ丈)と書いてある。
すっかり気に入って(もっとも貰う方でなく、やる方だけが気に入っただけの話かも知れないが)早速包んでもらう。その後、運動具店に立ち寄り、サッカーのサポーターの必需品、シャルパを子供の土産に買う。受け取ったとき息子が妙な顔をしていたのを覚えている。サッカーは知っていても、まだ当時のニッポンでは、シャルパなどもって観戦する人はいなかったのだ。PARMAという字が大きく染め抜かれた品物を見て、レジのおばさん、こりゃ間違いなく日本人やな、と云った感じで、にやりと笑った。
ついに我々一行はフランスのニースに到着した。私は暇つぶしに、空港の構内に陳列してある、レーシングカーの写真を撮った。おそらく過去に華々しい栄光に包まれたことも何度かあったのだろうが、私には分からない。その後搭乗した飛行機は無事フランクフルトへつき、我々はそこから、ドイツの誇るDB(IC)で、今夜の宿、コーブレンツへと向かった。(つづく)
今度の旅では聞いたことのない駅がよく出てくる。以前は、ローマだのフィレンツェだの、ヴェネツィアやミラノだったが......。
ディアノ・マリーナ駅に降り立つと、幸い駅前に暇そうなタクシーが数台、客待ちをしていた。私は一言、「ホテル・リリアーナ」と叫んだ。運ちゃんは心得顔にすぐ車を発進させた。駅前は素敵なオレンジの並木道で、どの枝もたわわに実をつけている。さりげなく運転の様子を観察していると、直進すればすぐ海なのに、なぜか車は右に曲がってしまう。あれよあれよと思っていると、今度もまた右に曲がる。おいおい、どうかしたんじゃないの、とすこし不安になってくる。電車の踏み切りに出る。信号待ちの時間が、待つ身にとっては何時間にも思えてくる。やっと走り出したはいいが、今度は坂をどんどん登ってゆく。
(ディアノ)マリーナって海じゃなかったの?オリーブ畑のつづく山道を、いい加減登ったところで、車はやっと止まってくれた。降りてみると、こじんまりとした瀟洒なペンシオーネがそこにあった。この家族的なホテルチェーンは、Logis d'Italiaといって、イタリア各地にネットワークを張り巡らせているらしい。
このホテルの主人リリアーナさんは、なかなか達者な英語を操って、色々と説明をしてくれる。ただ、やたらとpossibilityという単語を使うのが、チョッと気になったが...。希望の部屋を聞かれたとき、何泊もする訳ではないので、張りこんで、ヴェランダつきの、いい部屋を選択した(朝食つき58ユーロ)。新聞を読みたいと申し出ると、彼女はいま主人が読んでいるので、後でお持ちする、答えた。
すこし休んでから、近所の探訪に出かけることにした。ここも山の上だが、まだてっぺんではなく、この上にも村落があるようだ。この一帯を歩くと、オリーブやレモンの畑が実に多い。その内、地元民のための小さな教会を見つけた。18世紀の創建だそうだ。行く先々で村人に出会い、挨拶をすると皆が皆、爽やかな挨拶を返してくれる。
さらに上の方には、村人の共同墓地があった。この辺りからの眺めは最高だ。上がった甲斐があるというもの。はるか彼方になるが、ディアノマリーナの、美しい蒼い海が見渡せる。
午後七時半、夕食をとるべくホテルの食堂へ向かう。ここがまた、総ガラスになっていて、先ほどよりさらに真近かに海を眺められる。それが山の稜線をたどってのことなので、海と山が一遍に堪能できるのだ。贅沢な宿、と云ってもいいかも知れない。泊り客のほとんどがドイツ人で、中には子連れで来ている人たちもいる。その子供たちが、さすがドイツ人だけあって、実にお行儀がよい。
相席になったドイツ人夫婦は、聞けばバーデン・ヴュルテンブルク州の出身だという。食事は定食で、サラダに始まり、パスタは二種類のものから各自好きなものをチョイス、メインはチキンの香草焼きとホーレン草のソテー。デザートはパンナコッタだった。(つづく)
こちらの都合で、「大変な話」にはひとまず待合室で休憩してもらって、きょうは愉しい話から行くことにする。でまず、ホテルであるが、これがかなりのオールドファッション、往年のフランス映画にでも出てきそうなご面相をしている。中へ入ると、なお驚く。古い鳥かご型の三人乗りエレベーターが遠来の客を歓迎してくれるし、廊下は非常に暗い。自分の部屋など、あんまり廊下が暗いので番号が読み取れぬ始末。一人が、前の二重扉を押さえている間に、隙を見て番号を読みとるしかない。一人旅の場合は一体どうするのか。室内の調度も古く、しかも極めて簡素。マーチャン先生はたちまち不機嫌になる。
もっとも、広い世間には文明の利器を嫌悪する手合いもいて、「サンマルコ広場の大鐘楼はエレベーターでしか上に登らせてもらえず、これは悔し涙にくれながら乗った」なんという変わった御仁もいることはいるのだ。(林 丈二「イタリア歩けば...」)
時計を見るとそろそろ飯どきなので、潮の香りのするサレヤ広場へと繰り出す。ここは丁度神田の古書店街のように、食い物屋が道路の両側にずらっと並んでいて、大いに食欲をそそる。むしろ目移りがして選択に迷うくらいだ。一渡り観察も終わったので、先ほど目をつけておいた店に腰を下ろす。
ニースに来たら、生牡蠣を食わなくっちゃ。生牡蠣は、大きさ(#1から#8まである)と個数を選んで注文する。身はレモンかワインヴィネガーをかけて食す。もちろん牡蠣だけでなく、ご当地名物のニース風サラダ、いわゆるサラードゥ・ニソワーズもオーダーした。菜っ葉は5〜6種類がてんこ盛り、黒オリーブの実が5〜6粒、うで卵一個分、赤ピーマン、ツナ、アンチョビなどがのっており、ケッコウ質量ともに満足のいく内容だった。オープンテラスも開放感があって、なかなかいいものだ。ワインも、銘柄ものを選んだので気分も上々。
ほろ酔い気分で帰る途中、フランス人のムッシューにツーショットを撮ってもらったが、いい記念になった。マーチャンの機嫌もその頃には直っていた。あっしもスタンドで、「フランス・ソワール紙」を買うと、ニッポンの武 豊が、フランス競馬で大活躍の記事が載っていたので、満更でもなかった。そこまでは、まだ良かったのだが、その後がいけない。
アクシデントが起こったのは、夜中の一時だった。突然、火災報知器のけたたましい音が全館に鳴り響いた。ドアから次々飛び出す多国籍の顔、顔、顔。宿のスタッフは何をしているのか、一向に上がって来ない。本当に火事なら大変、とても不安になる。しかし、そのうち、大音響の方もさすがに鳴り疲れたのか、辺りは又もとの静寂に戻った。
騒音が止まったのはいいが、とたんに室内が停電になり、トイレの水も流れなくなった。夜が明けてもこの状態はマッタク改善されてなかった。下のフロントへ云っても埒が明かない。ただ大仰に、両手を広げて悲しそうな顔をするだけである。
実に無責任。なぜ報知器のスイッチだけ切ってくれなかったのか。そんなことを云っていても仕方がないので、まず顔を洗う算段をする。マーチャンは駅のトイレなら、水が使える、という。ところが行ってみると、生憎駅はテロでもあったのか、厳重警戒中で、銃を持った兵士が入り口を固めている。
そこで、あっしは駅前のキオスクで水を買うことを提案。大きなポリビンを買って帰り、なんとか洗顔を済ませる。その後、一階の食堂へ行き、まだ電灯のつかぬうす暗がりの中で、コンチネンタル・ブレックファーストを摂る。
ところが、食事を終えて部屋へ戻ったとたん、待っていましたとばかり、電気がついた。まるで山奥のホテルへでも泊まった気分だ。「なにが、ボー・ソレイユ・ホテル(麗しの太陽ホテル)だ。ふざけるな。」「こんなホテルは、だいたい、月なきみ空のむらくもホテルとでも改名したらいいんだ」などと二人はしばらくの間、このケッコウな名前の三ツ星ホテルを呪い続け、紹介してくれたあの、一見品のよさそうに見えるマダムに、恨み言をぶつけるのだった。(つづく)
夕食の前にサービスのシャンパンがついてきたが、こうしたことは今までの旅行では絶えてなかった。卓上のオリーブオイルのボトルは封をしてあったが、これはたぶん極上のオイルを産するこの町の、控えめの宣伝だったのかもしれない。
一夜明けると、そこには大変な一日が待っていた。我々は日本を発つ前にはインターネットなどでの一応の調べは終えていた。その結果、かの地は未曾有のmaltempo(悪天候)で、北部だけでなく、イタリア全土が大きな被害を受けているようだった。そちらにばかり目が行ったせいか、もう一つの難敵のことをすっかり忘れていた。
宿のチェックアウトを済ませた我々は、国鉄デイヴァマリーナの駅へ向かった。歩いて数分で行ける距離なのは本当にありがたい。ところが駅のまん前に張り紙がしてある。それによると、国鉄は24時間ストを構え、電車は午後の6時まで動かないらしい。冗談ではない。町の人も困るだろうが、旅行者はもっと困る。またまた今出たばかりのホテルへ舞い戻った。そのときあっしには何もいい案が浮かばなかったが、さすが旅の名人であるマーチャンは、このホテルにタクシーサービスがあることを調べ上げていた。
この国ではストが途中で中止になることはまず、太陽が西から出ても起こりえない。すこし遠いが、ジェーノヴァまでやってもらうことになった。運転手は、どこから都合したのか、バンタイプのフォード(六人乗り)を引き出してきた。そしてジェーノヴァをゲノヴァと発音する、一風変わった運転手はエンジンキーを入れるや否や、たちまちスピードを上げ、勝手知ったる近道をひた走りに走った。今までの船の上からの眺めと違い、崖上の自動車道路から見下ろすリグーリア海岸の景色も、また格別の風情があった。道中、一箇所だけ幅の狭いトンネルで、十数分ほど待たされたが、あとは順調で、目的地までは40分ほどでつき、寡黙な運転手とは、そばに凱旋門のあるバスターミナルで別れた。
ここで旅行者風の、英語を話す若い女の子の二人づれから、11時半にこの場所から、ニース行きの空港間連絡シャトルバスがでると云う、貴重な情報を仕入れた、発車までには多少時間の余裕があったので、近くの公園を写す。公園には、あのアメリカ大陸発見の功労者、イタリアの英雄、クリストファ・コロンブスが航海に使った帆船をかたどった、シャレた花壇があった。バスの切符を買う段になると、切符は乗ってから買えという。バスは目的地到着まで3時間、料金は2500円であった。
スカイバスという名のこのバスは、ニース空港行きだが、市内のバスターミナルまで行ってくれたのはありがたかった。実は今夜はすでにインペリアの宿が取れていたので、できる事ならそこで行って欲しかったが、それは無理な注文だろう。ストのお陰でまたまたフランスのニースへ泊まることになってしまった。旅先では何が起こるか予測が出来ない。とにかく宿が決まらぬことには落ち着いて旅を続けることも出来ない。何はおいても宿ということで、とにかく国鉄のニース駅へと急いだ。ここには珍しくインフォーメーションがなく、仕方なく屋外の案内所で今夜のベッドを斡旋してもらうことにした。カウンターに座った、一見ひとの好さそうなマダムは、駅に近い方がいいかと聞き、それでよいと答えると、駅前の「ボー・ソレイユ」(Hotel Beausoleil)というホテルを推薦してくれた。
駅前というが、歩けば5〜7分はかかる。海に近いせいか、ホテルの所在地がアサリ街とは笑わせるが、とにかくこれが大変なホテルだったのだ。 (つづく)
ラ・スペッツィアの町をぶらつく。ここは軍港だ。水兵が五、六人オープンテラスで談笑している店があった。ドアに近づくと、さりげなくガラスの上に書いてある数字を見て驚いた。1900年創業とある。とくに自己主張をする様子もなく、こんな店がラ・スペッツィアにはあるのだ。ニッポンだったら、そこら中のグルメブックに、仰々しく写真入りで紹介されることだろう。旅の疲れで、あまり食欲もなかったが、衆議一決、この店で食事をすることに決めた。
翌朝は、ホテルで朝食を認め、今回の旅行の超目玉と云うべき、チンクエテッレ観光に出発した。海岸に向かって歩き始めると、途中に美術館もあり、なかなか文化的だ。また、海岸近くには植物園もあり、珍しい花木もあったようだ。事前に調べた情報では、ほかに国立の交通博物館もあるはずだ。創立が1986年なので、大して古いとはいえないが、ロコ(蒸気機関車)をはじめ、バス、トロリーなどを集めてあるので、一見の価値はあると思う。乗り物マニアの中でもまだ見学した人はいないらしく、その種の本にも載っていないようだ。もし、当地を訪問される方があれば、その際にここを一度訪問されてはいかが?
さて、この紀行を書くに当たって、題を「リヴィエラ紀行」としないで、「リグーリア紀行」としたのには、別に深い意味はない。イタリアの北西部、長靴の足を入れるところにあるこの一帯は、リグーリア海に面しており、ジェノヴァを境にして、西の半分をリヴィエラ・ディ・ポネンテ、東半分をリヴィエラ・ディ・レヴァンテと呼ぶことは、みなさん、すでにご存知のことと思うが、この辺には、青銅器時代にはかなりの数のリグーリ人(先住民)がいて、そのためリグーリアという地名が残ったことはご存知であろうか?そのリグーリアが頭に引っかかって、この名を選らんだにすぎない。
ラ・スペッツィアといえば、もう少し行くだけでヴィアレッジョ(トスカーナ州)だ。ピサへ行ったとき、ここまで足を伸ばしたことがある。チンクエ・テッレは文字通り五つの村(土地)で、リオマッジョーレに始まり、マナローラ、コルニーリャ、ヴェルナッツァ、モンテロッソ・アル・マーレに終わる。チンクエテッレめぐりの船会社はConsorzio Marittimo turistico という名で、切符を買って乗り込むと、見晴らしのよい上甲板席を占めた、客の大半はドイツからの観光客で、その次に多いのがフランス人だ。快晴の空の下、船は大勢の賑やかな話し声を乗せて出港する。
まもなく始まったアナウンスは、どういうわけか、フランス語とイタリア語だけで、ドイツ語がなかった。上得意のドイツ人は最初はおとなしく座っていたが、やがて黙っていられなくなったと見えて、そのうちの一人がマイクをもらうと、母国語で説明を始めた。陽気なドイツ人(あっしはドイツ人というのはみな、謹厳なとっつきにくい人ばかりと思っていたが)の中に、たまたまイタリア語を話す人が混じっていたので、当方も片言で応戦する。
スペッツィア湾は一名を詩人の湾というらしく、パンフレットにGolfo dei Poetiと書いてあった。このようなピクチュアレスクな風景のなかでは、われわれでさえ、ハイネの詩の一節でも朗誦したくなるものだ。そこで何と、五十年前に教わった「麗しき五月に」を怪しげなドイツ語で披露してみた。その結果は惨憺たるもので、発音が成ってなかったのか、それとも彼らに詩心がなかったのか、すっかりシカトされてしまった(むしろ「詩かと?」というべきか)のは残念だった。(つづく)
翌朝の朝食はビュッフェスタイルで、好きなものを取って席まで運ぶ。変わっていたのは、ジュース類。自分で果物を選び、絞って作る。まず、ナイフでオレンジなどを半分に切り、絞り機を操作して下のグラスに受ける。これがなかなかの力仕事で、一回の絞りではほんの僅かしか、ジュースが出来ない。ところがこれが、ドイツ人の手に掛かると、さすが大男だけあって、一遍で相当量のジュースが出来る。最初は感心して眺めていたが、感心してばかりいても仕方がないので、当方も勇気を出して大奮闘する。オレンジは大きいのを二個使って、一杯分できれば上等だ。
ここでチョッと残念だったのは、ヌテッラという名の、おいしいという評判のジャムをパスしたことだ。目の端にはチャンと捉えていたのだけれど、つい他に目が移って、キープするのを忘れてしまった。大好物のデーツは確保できたのでよかった。
パンやジャムにも、いろいろ種類があった。台の上には、オーブントースターやフライパンも用意してあり、ベーコンエッグやトーストなども、自分で作れるようになっていた。
この宿は気に入ったので、二人で相談して連泊を決めた。今日は世界的に有名な観光地、ポルトフィーノを訪問する予定だったので、朝食後国鉄の駅へ向かう。不思議なことに、駅では切符を売っておらず、駅員に聞くと、なにやらいうバルか、ホテル・クレリアで買えという。
何のことはない、今出てきたばかりのホテルへ舞い戻ってみると、なるほどホテルのバルのカウンターに、発券機があった。アンナが等級、行き先、片道往復の別、人数、日にちなどを入力すると、機械の下方から券が出てくる。ニッポンでは考えられないことだ。
相変わらず続く、晴天の車窓からの眺めは素晴らしく、サンタ・マルゲリータ駅はすぐだった。駅からは海岸までのだらだら坂を、のんびりと下り、海岸からはバスでポルトフィーノへと向かう。バス券は海岸通りのバス発着所で買う。今まではバルやタバッキで買うことが多かったが......。
このあたりから、少し雲行きが怪しくなってきたが、何とかもちそうだ。終点から海岸までは、魅力的な店舗がいくつも立ち並ぶ、ゆるやかな坂を降る。下には美しい、絵葉書のような景色が一行を待っていた。小さな港にもかかわらず、黄色や茶や、ピンクと色とりどりの、丈の高い建物が、互いに身を寄せ合うように建ち、白い帆を立てた幾艘ものヨットが蒼い海にぷかりぷかりと浮かんでいた。また、どなたがご利用になるのか、ブランドショップが軒を連ねている。脇に「デルフィーノ」という名のレストランがあった。これは、古代ローマのプリニウスの「イルカの港」という命名に由来するものと思われる。
折角ここまで来たのだからと、山道をたどって、サン・ジョルジュ寺院を訪れる。この頃になると、少し雲が多くなってきたので、見晴台からの眺めはいまいちだったが、気分は最高だった。ここの外壁に、イタリア一の大出版社の創業を成し遂げた、アルノルド・モンダドーリの名が記されていたが、何かこの地にゆかりでもあったのだろうか?教会付属の墓地も垣間見られたが、ケッコウ足も疲れていたので、この辺で諦め下山する。
海岸へ戻ると、リグーリア州がひと目で分かる切地を売っていたので、記念に買い求める。行きはバスだったが、帰りは船着場で切符を買い、海路を行くことにした。これで風景が二倍楽しめるわけだ。空模様はいよいよ怪しくなってくる。何とか向こうへつくまでもって欲しいものだ。
サンタ・マルゲリータ港が視野に入ってくる頃には、すこし波も高くなり、船も少々揺れだしたが、心配するまでもなく、そのうち無事着岸した。そろそろ腹も減ってきたので、手近な店で昼食のパスタを食う。デイヴァ・マリーナの宿へ戻る車中では、今回の旅では初めてのニッポン人旅行者に会う。若い女の二人ずれで、聞けば、これからモナコで行われるF-1レースの観戦に行くという。
ホテルへ戻ると、フロント脇に「インターネットデキマス」と書いてあったので、挑戦してみたが、文字化けして思うようにいかなかった。宿泊客は「一時間以内は無料」の由。(つづく)
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愉しい船旅にもいつかは必ず終わるときがあり、我々一行はマナローラで下船する。直ちに懸案の宿探しを開始。まず船着場に最も近いホテルからアタックする。あっさり断られ、仕方なく重いリュックを担いだまま、気を引き締めて先へと進む。坂をあがり、一つトンネルを抜けると、ホテルや海の家が道路沿いに櫛比している。これはしめたと片っ端から声をかけてみるが、どこへ行っても「満室」のつれない返事しか返ってこない。
バックして、今度は山手方面を探すが、やはり色よい返事はもらえない。今日の宿は心配ないので、諦めて国鉄の駅に向かう。これがなかなか分からなかった。ニッポンのように、角々に詳細な案内図があるわけじゃあなし、「駅方面」の矢印さえない。そればかりか、駅そのものが大体駅の顔をしていないのだ。もちろん最後にはめでたく見つかり今晩の投宿地である、デイヴァ・マリーナまでの切符を買う。
客のマッタクいないうら寂しい出札口には、中年の女の職員がひとり座っていて、乗車ホームを尋ねる我々に気さくな感じで三番線だと教えてくれた。
それがどうしたことか、検札の車掌によると、行き先と正反対の電車に乗っていたそうで、幾ら抗弁しても受け付けてくれず、乗り越し料金を払わせられた。そんなのありい、と思ったが、ここはイタリアなのだからしょうがない、と諦めることにした。
ちいさなちいさな、デイヴァマリーナ駅を出て宿まで行こうとしたが、なにせ初めて土地、どちらへ向いて歩き出したものやら。考えていても埒が明かぬ。そこで駅前から電話をかけ、助太刀を頼むことにした。この「クレリア」というホテルは、私がインターネットで見つけた三ツ星ホテルである。電話を受けてすぐ車を転がして迎えに来てくれたのは、アンナと名乗る中年女で、この人と旦那の二人が経営者の、ごく家族的な、プティホテルである。門からは一応、スウイミングプールらしきものも見え、感じのよさそうな宿である。
チェックインの際、私が、イタリアのカンツォーネは昔から好きだった、と云うと、アンナが即座に、わたしは坂本竜一の音楽が好き、と応じて来たのには正直チョッと驚いた。さらに、日本語のゴミバコを知っていたのにもビックリさせられた。部屋が決まり、一休みすると、すきっ腹を慰めるべく、外へ出て食い物屋を探すが、生憎とシエスタの時間にぶつかったらしく、開いている店はどこにもない。
よんどころなく、やっと見つけた観光案内所で、相談すると、バールを一軒、教えてくれた。この店はイタリアならどこにでもあるような、ジュークボックスなどが置いてある小さな店だが、パニーノを注文すると、パニーノはないがトウラメッツズィーノならあると答えた。ドリンクで取ったオレンジジュースの甘いこと。イタリア男はよくこんな甘い奴を飲めるなあ、と感心しながら皿の上にひょっと目をやると、なんと砂糖の小袋が三つものっている。彼らの甘い物好きにはただただ呆れるばかり。
泊まりはハーフペンションなので、夕食つきである。止せばいいのにカニのスパゲッティを頼んだのが運のつき。食べるのに一苦労した。マーチャンと同じにすればよかったのだ、後で悔やむこと、悔やむこと。
ワインはホテル名の入った素朴な陶製の壷。なかなか風情があってよかった。ニッポンではよく見かけるが、イタリア本土では意外と見かけない、グリッシーニもちゃんと出してくれた。ボーイなどが何人もそこらを歩き回る店と違って、こじんまりとした家族経営のこんなホテルも、たまには悪くないな、とその時つくづく思った。(つづく)
みなさん、こんにちは。もう三年ばかり前になりますが、5月15日から23日にかけて、主にイタリアを旅行してきました。以下はその旅行記です。
飛行機:ルフトハンザ・ドイツ航空
ルート:成田→フランクフルト(ドイツ)→ニース(フランス)→リグーリア州(イタリア)→ニース→フランクフルト→
コーブレンツ(ドイツ)→フランクフルト→成田
運良く好天に恵まれ、お陰でフランクフルトからニースへ飛ぶエアバスの窓からは、スイスアルプスの山容が実にはっきり、そして美しく見えた。ニース空港では、外へ出るすぐの所にバスのたまりがあり、とても分かりやすかった。暫くしてやって来たバスは、紺碧の海を横目に、プロムナード・デザングレに沿って走り出し、公園のようなところで我々を降ろして行ってしまった。
ここのホテルは連れの旅行名人、いわずと知れたかのマーチャンであるが、彼女がガイドブックから選んで予約してくれたホテル・マッセナという名のホテルだ。バスを降りたところに偶々いた男が、まず土地もんに見えたので、渡りに船と案内を請うと、その男が実際のホテルと反対の方角を教えてくれたので、重いリュックにひいひい云いながら一時間半も歩かせられる羽目になった。どうも後から思うと、皮膚の色などから判断して土地もんではなく、ガストアルバイターようだ。
確かに紛らわしい名前の美術館が近くにあり、またこのホテルが、マッセナ広場にないという事情もあって、余計見つけるのが遅くなってしまった。ところが、着いてみると意外といいホテルで、ホテルのロビーに一歩足を踏み入れた途端、マッセナという名前の謎も氷解した。ナポレオンの信任厚かったマッセナ公爵の肖像画が、ロビーに掛かっていたからである。
翌朝はホテルの美味いプティ・デジュネ(朝食)をすませ、荷物をフロントに預けると、有名なプロムナードとやらを散策することにした。きのうに引き続き、きょうも快晴で、海はあくまでも蒼い。海岸からすぐそれと分かる豪華ホテル、「ネグレスコ」などをカメラに収める。
海に向かってもモアイの像のように一列に並んだ椅子は、座ろうとすと、大半が破損したり、薄汚れていた。散策を終え、宿に戻ると、チェックアウトし、タクシーを呼んでもらう。今回の10日ほどの旅の間に、ホテルのボーイにチップをやったのは、後にも先にもこのとき限りである。リュックの客は荷物を部屋へ運んで貰えないからである。
タクシーの運転手は陽気な男で、あっしが片言のフランス語を使ったせいで、やさしいフランス語で盛んに話を続けてくれる。SNCF(フランス国鉄)のニース駅に着くまでしゃべりっ放しだった。それは客サービスなのだからいいとしても、トランクに自分で入れた我々の荷物のことをすっかり忘れ、「オールヴォア」とか云って、さっさと発進しようとする。「おいおい、荷物、荷物!」と大声を出すとやっと思い出し、トランクを開けてくれた。
世界中の旅行者が、別に大した宣伝をしなくても、寄せては返す波のように、毎日毎日雲霞のようにやってくる土地に暮らしていると、観光地ボケして、こんな人間が増えてしまうのだろうか、困った紋だ、困った紋だ。(つづく)
- Joyful Note -