四季折々の佇まいを見せる
情緒あふれる博士生誕の住まい
「仁科芳雄博士生家」は仁科芳雄博士が高等小学校を卒業する14歳まで過ごしたお屋敷です。江戸中期から後期の備中南部の庄屋建築の様式を踏襲しており、その屋敷構えは簡素なつくりの中に、地方の名家らしい風格を備えています。
仁科家は庄屋として代々、浜中村(現・浅口郡里庄町浜中)を治めていました。仁科芳雄博士の祖父・仁科存本(ありもと)は河川工事などの土木事業に優れており、要請を受けて岡山藩の支藩・鴨方藩の領地にあった寄島(現・浅口市寄島町)の干拓と塩田開発を手掛けました。その功績が認められ天保13年(1842年)に摂津麻田藩の飛び領地の代官に任ぜられ、浜中村・上新庄村・下新庄村・小田郡関戸村の4か村を支配しました。存本は新たに代官屋敷と中屋敷を建て、庄屋時代からの居宅は元屋敷と呼ばれるようになりました。
仁科芳雄博士は、存本の4男で農業と製塩業を営んでいた仁科存正(ありまさ)と津禰(つね)の第8子4男として呱々の声をあげ、多感な少年時代を元屋敷で過ごしました。博士の勉強部屋は2階にあり、勉強の合間に西の窓から海を眺めていたと伝えられています。博士は元屋敷を心のふるさととして、郷愁と愛着を持ち続けました。
里庄町は博士の長兄・仁科亭作の子孫から元屋敷を昭和53年(1978年)に一括譲り受け、解体修復し「仁科芳雄博士生家」として昭和57年(1982年)から一般に公開しています。江戸時代の庄屋住宅で現存するものは少なく、建築史の上からも重要な建築物です。また、生家は里庄町の史跡として指定されています。郷土の生んだ偉大な科学者である博士の遺徳を顕彰し、長く後世に伝え青少年の励みにするとともに、いささかでも我が国の科学の進展に寄与できればと願っています。
敷地内には庭門があり、その瓦には仁科家の家紋が入っています。少年時代に身体を鍛えるために父と兄弟たちと行った冷水まさつにちなむ井戸が今も残り、豊かに水を湛えています。お風呂には明治30年代製と推測される瀬戸焼のタイルが数多く貼られ、特に手書きのタイルは貴重なものです。博士もその花を愛でたとも言われている梅の老木も今に残り、冬のつばき、早春の梅、陽春の「新種の桜」、新緑のさつきを経て初夏の泰山木と、お屋敷は四季折々の佇まいを見せてまいります。
なお、代官屋敷は昭和の終わりから平成の初めにかけて解体され、その跡地は住宅地になっています。一方、中屋敷は明治時代に笠岡市の威徳寺に移され、現在も残っています。