もっと驚くのは、輝かしい歴史を物語る過去の建築様式に町のあちこちで出会えること。ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ......。さらに、フランスを中心に華麗な花を開いたアール・ヌーヴォーの動向とも関連づけられる、十九世紀末から古都を新しい潮流で彩った、いわゆる「ウィーン分離派」の建築群があり、二十世紀後半に世界的な流行を見た「ポストモダン」と呼ばれる斬新な折衷スタイルに基づく建築もいくつか見られる。あたかも、過去の建築様式の博覧会場のような観をこの古都は呈している。
ウィーン分離派は過去の芸術様式からの「分離(セセッション)」をめざした芸術運動。建築、美術、工芸、グラフィックデザインにまたがる総合的な取り組みが展開され、同時代の日本にも多大の影響を残した。いや、分離派自体が日本美術を糧としている。一八七三年に開かれたウィーン万国博に出品された日本の伝統工芸品が、新しい方向性を模索していた運動の担い手たちに新鮮な衝撃を与えたのである。なお、運動のテーゼ、「時代には時代の芸術を、芸術には芸術の自由を」は、二十世紀の新興芸術運動(アヴァンギャルド)を予告するものとなった。
ウィーン分離派の建物は、百年前後は経過しているにもかかわらず、貴重な遺産として大切にされていることは、旧東京都庁舎のような戦後の名建築でさえ簡単に毀すことを恥じない日本とは大違いである。実際、次代に伝えるために現在修復中の建物がじつに多かった。分離派建築の傑作で西郊にある「アム・シュタインホーフ教会」(オットー・ヴァーグナー設計)は全面改修のため閉鎖中ということで諦めざるをえなかった。同じヴァーグナーによる、ガラスの天井から光が降り注ぐ内部空間をもち、モダニズムを先駆ける「郵便貯金局」は、見学こそできたが、外壁と内部空間を修復中だった。同時代の建築家で、装飾を徹底して排したことから運動とは一線を画したアドルフ・ロース設計の「ロース・ハウス」も外側に足場が組まれていた。