「なんとなくできてしまったという印象がある」障害基礎年金についての研究。『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
補章の「3穴があいているので埋める・塊を作る」より「政策系」の1。出て来る高阪悌雄は
http://www.arsvi.com/w/ty09.htm
「「所得保障」と「社会サービス」...がどのような理由で分けられるのかという理論的な問題」については立岩・堀田『差異と平等――障害とケア/有償と無償』
http://www.arsvi.com/ts/2012b1.htm
そして『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』
http://www.arsvi.com/ts/2010b1.htm
にも書いたはず。フェイスブック上のこの文章と同じ文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162187.htm
■しかく政策系
それにしても、普通に社会保障だとか社会福祉だとか言われている領域は、社会政策学とか社会福祉学がやってくれている、はずである。かつてあまり研究者の層がなかった社会学でもこの種の領域の研究者が一定でてきている。よいことだと思う。それでも、すこし混んできたかなというぐらいではないだろうか。まだやっておいてよいことはたくさんあって、大学の教員用人材は過剰なのだが、研究している研究者は足りないといった具合だ。
政府系の、審議会であるとかそんなものに名を連ねているような人が、これはわずかな数だが、おり、そこで決まったことを短くして伝えるといった仕事をしている人たちがいる。もちろんそれはそれで大切な仕事で、それが専業の人がいてもいっこうにかまわないのだが、他にもすることはある。他方に現在の動向に対する反対・批判勢力ももちろんいる。その人たちも必要だ。ただ、今はその批判の「型」もそうきちんとは伝承されていない面もありながら、それでも大方決まった筋で言われる。
その型はいったん置いておいて、もっと言われてよいこと、その手前で調べられてよいことがある。そして、看板を立ててまわるのが私たちの仕事ではないのだから、それらをすることを社会福祉学だと言っても、福祉社会学だと言ってもよい。実際そんなところで仕事をしている人たちが多数いる。ただ、序章に述べたことを繰り返せば、人と人に差がないなら差をめぐってなにかする必要もない。だから「分配的正義」の問題を考えることは、最初からこの生存学なる企みの本体の重要な部分である。
それは、大きくは「所得保障」と「社会サービス」という具合に分けられることがある。これがどのような理由で分けられるのかという理論的な問題もあって、それをついて述べたこともあるが、それはここでは略し、まず、前者の一部をなす年金、そのなかに障害基礎年金について。政策の本流からも少し離れ、そして定形的な批判からもこぼれる部分がいくらかあって、そしてそれが、ある人たちの生活にとってはそれなりに大きな部分を占めているということがある。障害基礎年金は1985年に始まったのだが、その時に生きてはいた者から見ても、なんとなくできてしまったという印象がある。これは厚生省のある部分と障害者運動のある部分がそのころ接触をもったというが一因ではあるらしいのだが、それだけとも考えられない。それを調べるといった仕事がある。高阪悌雄がそうしたところを追っている(高阪[2015][2016])。私たちが1980年代に行った厚労官僚(故人)へのインタビュー記録も使ってもらった。社会に起こっていることのたいがいはそうだが、結局どの要因がどれだけ作用しているかを特定することはできないだろう。それにしてもやっておけるところまでやっておく仕事はできる。」