「...使われるようになり、使われなくなっているのか、そのことを巡って何が言われてきたのか」という段落の上の段落についてはまた別の回に。
仲口路子は
http://www.arsvi.com/w/nm09.htm
(現在の所属は異なる)。そこには出てこないが仲口[2013]は
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009428282
杉島優子「胃ろうをめぐる二〇一四年度診療報酬改定は高齢者に何をもたらしたのか」は『生存学』第8号
http://www.arsvi.com/m/sz008.htm
に掲載。買ってください。
さてこれは『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
補章の「3穴があいているので埋める・塊を作る」より「ケア場」の6。
フェイスブック上のこの文章と同じ文章が
http://www.arsvi.com/ts/20162186.htm
「
■しかく3 穴があいているので埋める・塊を作る
■しかくケア場
[...]
そしてそこここに穴が空いているのには理由があり、事情がある。それは序章でも述べたことに関わる。業界の人たちが自分たちの領分外のものを避けてきた、あるいはその取り分を巡って綱引きをしたり、あるいは譲り合いをしてきた、その経緯がある――その一端について『現代思想』での連載に記すことにした。所謂「医療的ケア」を巡る綱引きが長く続いて、実際には遅くとも1980年代にはなされていた(家族でない)介助者による痰の吸引等はすべきでないことと否定された、という以前にその事実自体が記されないといったことが起こった。また、「ソーシャルワーク」という言葉が廃れ気味になった間に用語として使われるようになった「相談支援」が機能してないことにも理由・事情ががある。その事情は、この補章の終わりに出てくる萩原浩史の仕事からも知らされるし、私もそれですこし勉強して『精神病院体制の終わり』に書いた。空いている所以がわかれば自動的にそこが埋まるわけではない。ただ、それでも知っておく意味はあるということだ。
そしてここでは、一つひとつの機器・技術がどのように、誰に、使われるようになり、使われなくなっているのか、そのことを巡って何が言われてきたのか、診療報酬等、制度がどのように変わってきているのかを、いちいち、細かに見ていかねばならない。胃ろう(PEG)を巡って、仲口[2013]、杉島[2015a][2015b]――著者はいずれも看護学の研究者・教員――があるが、こうした研究がさらになされ、拡大される必要がある。」