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『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』

田島 明子 20090625 三輪書店,212p
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障害受容再考―「障害受容」から「障害との自由」へ

このHP経由で購入すると寄付されます

しかく田島 明子 20090625 『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』,三輪書店,212p. ISBN-10: 4895903389 ISBN-13: 978-4895903387 1890 [amazon]/[kinokuniya] (注記)

しかく内容紹介

著者による紹介 → http://d.hatena.ne.jp/fugu1/20090628

リハビリテーションに対して固執したり意欲の感じられない患者さんを見たとき、つい「障害受容ができていなくて困った」と感じたことはありませんか?どうすれば障害を受容できるのか、そして一度受容できればそれは一生続くものなのか、そもそも障害を受容することは本当に必要なのか?日頃なんとなく使ってしまう「障害受容」の意味を突き詰めることで、私たちが本当に支援しようとしているものの姿が見えてくる。
本書は気鋭の作業療法士が障害学的な視点からリハビリテーションの意味の再構築を図る本格的リハビリテーション論である。(三輪書店による紹介より)
https://ssl.miwapubl.com/products/detail/1053

障害に対峙しリハビリテーションの明日を拓く!!
リハビリテーションは一体人の何を支援しようとしているのか?今障害の意味に正面から向かい合うことで、リハビリテーションの新たな地平が見えてくる。(本書帯より)

しかく目次

はじめに

第一章 なぜ「障害受容」を再考するのか ...1

第二章 日本における「障害受容」の研究の流れ ...13

第三章 「障害受容」は一度したら不変なのか ...37

第四章 南雲直二氏の「社会受容」を考える ...61

第五章 臨床現場では「障害受容」はどのように用いられているのか ...95

第六章 「障害受容」の使用を避けるセラピストたち ...113

第七章 教育の現場では「障害受容」をどのように教えればよいのか ...131

第八章 「障害受容」から「障害との自由」へ――再生のためのエネルギーはどこに? ...147

補遺 ...187

おわりに ...205

しかく話したこと

だいやまーく田島明子 20100920 奈良県作業療法士会平成22年度教育部研修会 9:30-12:30
於:「障害受容」再考〜障害の価値/自由、リハビリテーションの意義、セラピスト‐クライエントの関係〜
cf.http://d.hatena.ne.jp/fugu1/20100921
パワーポイント

しかく言及・紹介

くろまる田村文彦(作業療法士:愛媛医療専門大学校)
2009「本の紹介:障害受容再考--「障害受容」から「障害との自由」へ」『OTジャーナル』43-10:1150

ポケットサイズの大きさながら、実に「重たい」内容の著書である。タイトルもさることながら、「リハビリテーションは一体人の何を支援しようとしているのか?」という帯封に記されている文字に「ハッ」としてしまう。本書を一読しての感想は、著者は「ことば(定義された用語)」を本当に大切に使用しているということである。作業療法と生活は密接不可分の関係であるが、「生活」は日常語であるが、「暮らし」との違いを知るためには、「ことば」に拘ることは重要であろう。
本書を手に取った時に、著者名を見て個人的に軽い衝撃を感じた。数年前に、著者が修士論文執筆のためのデータ収集をされている際に、アンケートに回答したことを思い出したからである。その当時は、研究テーマの独創性に驚きを覚えたのであるが、実は、本書はその修士論文に加筆修正が施されたものであり、件の論文の内容と見比べてみても格段に内容が精査されている。
第一章は、著者が「障害受容」に疑問を持った経緯について、障害受容に導くための支援という立場ではなく、そのような画一的な支援の有り様とは正反対の立場から、「なぜ『障害』を『受容』することが良い支援だと思うのか?」について書かれてある。第二章では、1970年前後から現在に至るまでの、リハビリテーション医療の実践場面における「障害受容」についての諸説(研究・言説)が整理されており、これは我が国におけるリハビリテーション医療に関する本格的な学術研究の蓄積と時期を同じくしており、著者曰く、我が国におけるリハビリテーション医療の「現代史」でもある。第三章では、視覚障害のある男性のライフストーリーを通して、障害受容に関する肯定的自己像と否定的自己像の形成という観点から考察されており、他者(社会)が持つ障害の否定観(感)がクローズアップされている。第四章では、著者のクライエントであった方へのインタビューを通して、障害を得た事による苦しい感情経験の原因についての探求から、障害の「社会受容論」について三通りの結論が見出されている。とりわけ、自助グループに関する帰属と構造に関しては、対症療法的な方法論であることが指摘されている。第五章では、臨床現場の作業療法士に対するインタビュー結果から、臨床現場における障害受容の使用法や問題点についての考察、さらに第六章では障害受容という用語を使わない(使いたくない)という作業療法士のそれに対するイメージや理由の分析結果から、「障害との自由」という概念が提案されている。著者によれば、この第五章と第六章は、本書のタイトルについて実証的に検討した部分であり、本書における中核をなす部分であるとされている。第七章では、「教育の現場ではどのように教えれば良いのか」として集約されており、リハビリテーション医療の功罪や方法論上の難点こそが語られるべきであると提案されている。第八章は、「障害との自由」に関する著者の直感が言語化されており、「できないことの表象」「個人の変容にのみとらわれることの閉塞感」「他なるものとは何か」という三つのエレメントに対して、読者からの論評が求められている。
作業療法の臨床場面における個々の出来事が、「理論としてどのパラダイムに属するものか?」「ひとにとって作業とは何か?」「作業をするとは何か?」、これらは、「障害により失われた日常の回復はどのように始まるのか?」ということと同義であり、作業療法士として永続的に考えるための視点であることは間違いない。この意味からしても、本書の与える影響は少なくないであろうし、特に、卒業を間近に控えた作業療法学生にとっては有意義な内容であると思う。

くろまる安原荘一氏による紹介 → http://blogs.yahoo.co.jp/taronanase/58130761.html

くろまる佐藤元美氏による紹介 → http://motomix1955.at.webry.info/200907/article_7.html

佐藤元美氏ブログ:
藤沢町民病院と佐藤元美の仕事
http://motomix1955.at.webry.info/

くろまる遠藤尚志先生より頂戴したお便り
cf:遠藤尚志 http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/endotakashi.htm

このたびは御著「障害受容再考」をご恵送いただき、本当にありがとうございました。いっきに読み終えました。

障害をもって生活している人たちとのインタビュー、数多い文献のレビューなど、この本の基礎となる部分のお仕事をかいま見ていただけに、ついに「田島ワールド」が姿をあらわしたことに、深い感銘を受けました。ああでもない、こうでもない、と議論が行き来するのは、あらゆる言説を相対化するための大切な道のりだったのですね。そんなことを今になって知りました。

リハビリテーションの営みがこれまで無視してきた「何のためのリハビリテーションか」という側面に、まっこうから勝負を挑んだ貴重なお仕事だと思います。現在の到達地点から何が見えるのか、引き続き聞かせて下さい。

「障害との自由」「内在−外在の交通可能性」というキーワードが分かりにくいと思いました。それは読者を引き込み、考えさせるための新概念であり、そのための苦心の造語であったとは思いますが。英語で言うとどうなるのでしょうか。英語で思想が語れるか!と叱られそうですが、英語は個々の語の概念が比較的明確であり、概念間の関係を語る際の厳密性も日本語より高いことがあります。まさか「外在=実在」ではないでしょう。そんなことを考えながら、抵抗なく楽しく読みました。

第8章を読んだ後、福田恆存の「人間・この劇的なるもの」という本のことを思い出しました。昭和29年に書かれたものですが、今でも読む人がいるらしく、新潮文庫か中公文庫で出ている筈です。生きることの意味を、人はいつも求めるのですね。

(遠藤 尚志)

くろまる野崎泰伸氏(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)

「リハビリテーションの現代史」からみる「障害受容」という語りへの違和感

この社会で起こっている出来事や規範を相対化することが社会学のなりわいの1つであるとすれば、この本はりっぱに社会学の本である。「りっぱに」と述べたのは、予想するにたぶん書店では医療関係、リハビリ関係の棚に並ぶだろうからだ。そして、「間違えて」手に取った人も、「間違えて」読んでしまってよい、そんな本である。
それでは、この本は社会のなにを相対化しようとしているのか。それは言うまでもなく、「(ひとりで)できるということ/できるようになること(の価値)」の相対化である。そのような主題は立岩真也の『私的所有論』に通ずるものがある。著者は、そのような価値、「障害を受容する」という言葉の使われ方に対する違和感を、作業療法士という「現場」において持ち続けてきたのである。
その違和感とは何か。ひとことで言えば、その言葉が「障害をもつ者の存在」という価値をないがしろにしている、と言うのである。言い換えれば、障害者に対してリハビリを強要し、それでもなお残る障害を「受容」することを社会の側が要請することは、障害者の人としての価値に否定的なまなざしを与えるということである。
著者は、そのことを説得的に示すために、二つの手法によって分析する。一つ目は、日本のリハビリテーション業界において「障害受容」が歴史的にどのように語られてきたのかを文献によって明らかにすることである。いまひとつは、双方の当事者――障害をもつ者とセラピスト――の語りから、「障害受容」に関する違和感を抽出することである。とりわけ後者は、実際に現場に身を置いた著者であるからこそ、完成度の高いライフヒストリー、聞き取り調査が行われたのだろうと推測する。
最後に、著者が「障害との自由」あるいは「他なるもの」として描きだそうとした発想は、現代における哲学的思考とも連なるものである。私見だが、著者が苦心して描きだそうとしているもの、それは決して肯定的な言語によっては表出できないような〈何者か〉としか言いようのないものではなかろうか。私が主体的に「他なるもの」を発見するというのではなく、この世界のほうから私に「他なるもの」が(否が応でも)到来する。そのように理解すれば、「他なるもの」とはいまだかつて私の理解の範疇にはないもの、すなわち肯定的に描くことが不可能であるような〈何者か〉である、といえるであろう。この世界はけっして肯定的な命題だけによっては埋め尽くされない。しかしながら、その埋め尽くされ得ない残余、つまり肯定的な表現では「語り得ない」〈何者か〉は、まさにこの本が実行しているように、「示され得る」のではなかろうか。
著者は、現在の形のリハビリテーション(に関する語り)を批判しているが、だからと言ってそれをやめてしまえとは思っていない。「(ひとりで)できるということ/できるようになること(の価値)」から解放されたリハビリテーションの存在可能性を著者は信じている。私もまたそう信じている。その具体的な像は示されていないが、著者の今後も続くであろう真摯な研究に期待したい。それはまた、「開発」や「発達」などが、西洋帝国主義や発達保障論とは別の形、別の語り方で存続可能だし、そのように意味を変更しなければならないと思っている私とも共振するものがあったことを付け加えておく。

くろまるhttp://d.hatena.ne.jp/kakomu/20090706/1246880523

くろまる青木慎太朗 20090826 「書籍情報『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』」『週刊アイリンク』第259号
発行:視覚障害者のための情報検索サイト・アイリンク
<http://www.eyelink.jp>

田島明子著『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』
三輪書店、212ページ、1890円
とりわけリハビリテーションの現場において私たちは、自分自身の障害を受容するよう求められることがある。それは時としてつらく、しんどく、うっとうしい経験である。しかし、そもそも障害は受容しなければならないものなのだろうか?
本書は、作業療法士として長年の現場経験をもつ著者のこうした疑問から出発している。学校では、障害は受容させなければならないと教えられたが、現場ではたらくうちに、そのこと自体が障害者を苦しめていることに気づく。
そして、障害受容という言葉が、どういう場面で誰によって使われているのかを探し始める。こうした作業の成果が示されている本である。
この本を読むと、障害を受容させたり/させられたりしなくてもよいのだと自信をもって言えるようになる。そして、そこにあった不快さも、ぬぐい去ることができるだろう。
なお、視覚障害等で活字を読むことができない読者に対し、出版社より全文のテキストデータが提供される。
紹介:青木慎太朗氏(羽衣国際大学非常勤講師)
URL: http://www.arsvi.com/b2000/0906ta.htm

くろまるhttp://blog.goo.ne.jp/yukari125/e/7a1092a552a80deb0cb0955af147dd9d

くろまるhttp://blogs.yahoo.co.jp/tetoratewalk/6621923.html

くろまる立岩 真也 2009年10月25日 『看護教育』50-10(2009-10)
http://www.arsvi.com/ts2000/20090010.htm

くろまる川口有美子
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kawaguchi/archives/2009/09/(紀伊国屋書店書評空間)
http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20091001(川口氏ブログ−What's ALS for me?−)


くろまる渡邉慎一氏(横浜市総合リハビリテーションセンター、作業療法士)
2009『地域リハビリテーション』4-9:761

15年前に作業療法士となって働き始めた著者は、障害受容できていないという支援者がやけに元気に見え、障害受容という言葉がクライエントから元気を奪っていくように感じたという。本書では、このような医療従事者の言動や自身の臨床経験から生じた疑問に正面から向かい合い研究を積み重ねてきた著者が、一つひとつ答えを積み上げていく経過を丁寧に解説してくれる。
わが国のリハビリテーションは、1965年に理学療法士及び作業療法士法が施行された以後、欧米からの治療技術やサービス提供システムを学びながら現在までその対象を障害児・者から高齢者まで広げつつ普及してきた。1970年代には治療技術はおおよそ体系化され、この時期に障害受容という言葉が、機能訓練の阻害因子の一つとして広く使われ始めた。本書を読み終えて当時を振り返ると、「障害」自体が比較的・相対的な概念であるのにそれを受け入れることを意味する「障害受容」という言葉について当時から違和感を持っていた人は少なからずいたと思う。
それに応えるように発表された上田敏先生の障害受容の定義や諸段階は有名であるが、著者はこの定義の解釈や臨床での使われ方について問題を指摘するとともに、教育の場での教え方の工夫について提言している。
リハビリテーションはその人らしい生活を支援することであると言われて久しいが、臨床現場において、本人が行う自己決定を尊重し、そこに寄り添いながら生活遂行を支援していくことができているのだろうか。もう一度、障害受容という言葉を再考することで、専門職のサービスのあり方を見直してみよう。

くろまるhttp://ameblo.jp/tampopo87/entry-10393516822.html

著者の吉備国際大学講師の田島明子さんは私のお友達です。長年の研究をまとめて出版された本を頂きました。この本は、身体に障害を持たれる方に、自身の障害の状況を受け入れること(障害受容)についての定説に対して田島さんが、クライエントのお話や仲間のセラピストの考えを交えて、「障害受容」という考えを改めて考察をし、どう感じるべきかを論じています。
この本を読むまでは、「障害を持たれている方」の生き方の話だと思っていました。
田島さんが、まとめているのは「障害」というのは障害を持たない人に比べて、ある事柄について「できないこと」ことを言い、それを持つ人たちが「できないこと」をあきらめたり、できるように挑戦したり、他人にやってもらったりすることなどの何がその人にとっての「快」と思われるのか、というところに価値があるわけです。
他にも重要な論点は多くありますが、この点について私なりに解釈したのが以下のとおりです。
この本では、「(可能性のない)機能回復への固執」するクライエントに対して、「障害受容ができていない」というのはセラピストの「押しつけ」であるとも言っています。要は、「できること」、「できないこと」の差は大きなものでなくて、その訓練に固執することが「生きる力」になるのでれば専門家とはいえ排除できるものではないということだと思いました。私は、人生を楽しく過ごすためには、できないことに執着せずに「あきらめる」ことが大事だし、自分のできないことを受け入れることも大事なのだと思ってきました。「あきらめる」ことや「潔さ」は、日本人の美学と思われています。
「できないこと」があるのは「障害」の有無には全く関係ありません。だれにでも本当に苦手なことがいっぱいあります。私は、歌が下手なのでカラオケでは歌いません。英会話ができないので外国旅行はしません。絵が下手ので絵を描くこともありません。(あきらめが良いからです)。また、「できないこと」に執着しない生き方は、「勝間和代を目指さない」方が良いと「しがみつかない生き方」の中で香山リカさんも言っています。
でも、それは違うのですよね。ライフプランを考えて行く上で、「しがみつく生き方」がもしかしたら、必要な人もいるのではないでしょうか。目指すものは個人の自由ですし、何を生きがいにできるかが大事なのだと思います。
私たちが、長い老後を過ごすのに、「何ができるか」より「何をしたいか」の方が大事なことなのです。その「何をしたいか」が本人でも意外とわからないのです。できないことにしがみつかいない生き方も選択肢ですが、できないことにしがみつく生き方も選択肢だと思います。私自身、「あきらめ」は良い方ですし、物事は「ありのまま受け入れる」ものわかりの良い性格です。これが一番いいと自分で思っていましたが、今日から訂正します。一人ひとりの「生きる」感じ方を大事にして、お話を聞けるFPを目指します。
これから、老後を迎える世代の方にお願いです。お年頃になるまでに、「したいこと」をちゃんと整理してくださいね。
田島さんの本は、内容豊富です。障害のない方でも、お歳を召してきたり、病気になったときにもライフプランに活かせること何点かありました。また別の機会にお話しさせてください。

くろまるhttp://recovery.at.webry.info/200911/article_13.html

この本は、身体障害領域や高齢者領域で作業療法を実践していた著者(現在は大学教員)が、様々な出会いときっかけの中で「障害受容」に対して感じたことを、大学院で指導を受けながらまとめた論文がベースです。「社会学」になれていない方には言い回しや文章が多少分かりにくい天があると思いますが、「障害受容」という言葉(あるいはその使われ方)に疑問を感じている方には、何らかの感銘がある本ではないかと思います。
確かに、hiroが学生だった頃は、「障害受容」とは障害を持っているとそこに至らなければならない的な印象がありましたが、本の中でも書かれているように、「リハビリがうまくいかないときの理由」として用いられていたり、「現実吟味がうまくいっていない時」に使われていると、ふり返ると思うこともあります。「障害を受けた時に、こういうプロセスがあるらしい」までは言えても、「障害を受容させることがその人にとって望ましいこと」では決してないと思います。
ということで、「障害受容」という言葉に興味のある方はご一読下さい。

くろまる畑野秀樹氏(地域包括ケアセンターいぶき)
HP:http://www.biwa.ne.jp/~hatabo
[habatoのパーソナルな−−ケアセンターいぶきHP(健康・福祉のまちづくり)]
の中の掲示板にて
http://8615.teacup.com/hatabo/bbs
(habatoの掲示板、20091201付)

『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』
http://www.arsvi.com/b2000/0906ta.htm

今読んでいる本ですが、
障害のある人に、障害を受け入れさせること(受容すること)が望ましいことなのか
どうか?
私たちは容易に「あの人は障害を受容できていない」と言ってはいないか?
考えさせられます。

くろまる樋端佑樹(といばな ゆうき)氏(JA長野厚生連 安曇総合病院精神科)

ブログ:http://blog.goo.ne.jp/toip_hokkaido
(★リカバリー専門★ 〜Mind the Gap!〜 地域医療の現場から人間社会を見つめる精神科医師Pのつぶやき。)
http://blog.goo.ne.jp/toip_hokkaido/e/80d5caa3e069acb7cba7ecb8d2e92422
(2009年12月21日)

「障害受容再考」(田島明子著、三輪書店)という本を読んでみた。

自分も中途の身体障害の方や高次脳機能障害の方が抑うつ的になったり、世の中に居場所を見つけられなかったり、あげく自殺企図されてしまったりという経験もあり、いまは精神科で見えない障害の評価や支援のあり方をもとめてさまよっている。

自分も治療者が障害の受容(死の受容もそうですね。)をせまるのは、治療者が専門性を盾にして逃げている態度、あるいは価値観を押し付け、コントロールしようとする態度であり違和感は感じていた。

本書は作業療法士である田島明子氏がこれまでの「障害受容」をめぐる言説をまとめ、また当事者や治療者からの聞き取りを行い、そして思索した集大成の本だ。
いろいろ考えるヒントがつまっていた。

「ケアやリハビリテーションはリカバリーの手段に過ぎない。」とは私もふだんから言っていることである。
キュアが不可能な障害に関しては、治療者や支援者は共感しようと努め、ケアを提供し、寄り添うことしか出来ず、セルフヘルプグループやピアカウンセリングを通じた当事者同士のかかわりや居場所の発見こそがリカバリー(障害を自分の一部として位置づけ前向きに生きていくこと。あきらめ、開き直り。)には有効な手段だろうと思っていたが、この本の中ではそう単純なものでもないと指摘している。

確かに他の当事者との出会いは救いにはなるかもしれないが、その人がそれまでに生きてきた物語(あるいは自己肯定の場、重要な他者との関係)がそう簡単に再構築できるはずもない。

「時薬」と「人薬」が効果をあらわすのには時間もかかる。

また、いったん肯定的な自己像が形成されても、過去のスティグマ経験を思い起こさせる環境や言動がトリガーとなり再燃する可能性があることを聞き取りの例から述べているが、これは精神障害でしばしば経験することだ。

そうなってみて初めて経験するさまざまな体験世界、思い描いていた将来とのギャップ。未知なる他者である疾病や障害、失われたものを自分の物語の中にどう位置づけ、物語を書き換えていくことができるか。

再生のエネルギーは「障害受容」が見捨ててきた、内在的な障害感、そして内在、外在の交通可能性の中にこそあるのではないかと著者は述べ、「障害との自由」という言葉がよいのではないかと主張している。
「できないこと」は否定的価値か?と問い、能力の回復・改善の軸をはずしたリハビリテーションの可能性について言及しセラピストとクライアントが身体世界を旅するというたとえが出てくる。

この世界の意味はすべて体を介して生まれてくる。
体を考えることは自分自身を考えること。

なるほど治療者は体とこころの通訳、そして旅の同行者ともいえるかと思った。

くろまる熊谷晋一郎 2009 『リハビリの夜』 医学書院 p87

「作業療法士の田島明子は「障害受容」という言葉が、日本のリハビリの現場でどのように使用されているかについて指摘している。田島によれば、クライエントが「機能回復に対する固執」を見せたときと、「(復職支援などの際に)自分の能力や適性に対する認識が(セラピスト側から見て)適切ではなく、過剰な期待を表明されるようなとき」の二つに、セラピストはそのクライエントのことを「障害受容ができていない」と表現するという。
その背後には、リハビリの初期には正常な身体を目指す「回復アプローチ」がなされ、やがて回復に行き詰まりが見られるようになると、身体の正常化はあきらめて自立的な生活が目指される「代償アプローチ」へと路線変更される現場の都合があるという。どの路線変更に適応してもらうために、障害受容という課題がクライエントに与えられることになる。言わば、セラピスト中心の手続きにクライエントを過剰適応させ、御しやすくするための方便として「障害受容」という言葉が使われるのである。」

くろまる神奈川県社会福祉協議会福祉情報資料室(200911)
http://www.knsyk.jp/tosyo/newbooks_200911.html

★作業療法士である著者が、「どうすれば障害を受容できるのか」「一度受容できればそれは一生続くのか」「障害を受容することは本当に必要なのか」といった考えから「障害受容」の意味を突き詰め、また既存のリハビリテーションのあり方についての異議を唱えるとともに、今後教育の現場で「障害受容」をどのように教えればよいのかという内容にも触れられた内容となっています。

くろまる藤田雅章 20091110 「BOOK新刊紹介・書評 障害受容再考−「障害受容」から「障害との自由」へ−」『日本リハビリテーション病院・施設協会』p31

いまだ議論の多い「障害受容」の問題に正面から取り組んだ画期的で先進的な著書である。
本書は雑誌「地域リハビリテーション」(三輪書店)に「障害受容再考−障害受容をめぐる問い」というタイトルで掲載されたものを基本に、修正加筆されたものである。
著者は作業療法士であり、臨床の現場を体験し、その中で「障害受容」という言葉に疑問を持った経緯の説明から始まっている。
本書は8つの項目(章)に整理されており、第1章でなぜ再考するのかから始まり、第2章では日本における「障害受容」の研究が、多くの論文を引用して紹介されている。第3章では受容の永続性について、第4章では南雲直二氏の「社会受容」への考察、第5章、第6章では臨床現場の調査、第7章では臨床現場での指導のあり方、そして第8章では「障害との自由」について、著者の言葉を借りれば「直感を言語化するような作業」また「再生のためのエネルギーの在り処を探し求めるような査作業」として整理されている。
「障害との自由」は「障害」の未知性(他性)に出会うための自由な旅路でもあるということで、著者の独自の表現である。
また「障害受容」の中には、再生のためのエネルギーの根源が見出せない、すなわち再生のためのエネルギーは、「障害受容」が見捨ててきたその中にこそあると指摘されている。それは内在的な障害観(感)、そして、内在−外在の交通可能性の中にこそあるというのが著者の主張である。
特に若いリハ、看護・介護スタッフや学生にぜひ一読をお勧めしたい一冊である。

くろまる立岩真也 20100201 「二〇〇九年読書アンケート」
『みすず』52-1(2010-1・2 no.):- http://www.msz.co.jp

くろまる四方秀人 201002 「書評 障害受容再考−「障害受容」から「障害との自由」へ−」『作業療法』29-1:113

「障害受容」・・・机上で習った意味のまま、この言葉を臨床で使用するには何か違和感があった。「障害受容」とは、一度受容できれば一生続くものなのか、障害を受容することは本当に必要なのか・・・セラピストなら誰でも一度は疑問に思うことに一光を与えてくれる一冊です。
『実際の臨床場面で使用する「障害受容」という言葉は躊躇されることが多いにもかかわらず、支援の目標に置かれるといった矛盾があるのではないだろうか。「障害受容できていない」とは、「治療が遂行できていない」、「クライエントの能力的な観点のみで判断してしまう」ようにセラピスト側のみの視点で用いられやすい』と著者は読み手に語りかける。
その著者の語りに、ハッとする。本来、リハビリテーションとは、利用者の今までの人生と、これからの在り方を再構築するものである。しかし、利用者主体ではなく、利用者の心身揺れ動く過程よりも先行してセラピストとして「障害を受け入れさせようとしていること」の気づかされる。
「障害受容という言葉を躊躇していること」と「利用者に早く良くなってもらいたくて、障害を受け入れさせようとしていること」の矛盾に気づく。利用者と自分と一緒に同じ目標で歩もうとしていたはずなのに、実は目標に向かうベクトルが異なっていたのだ。それゆえ「障害受容」という言葉に違和感があったのかもしれない。
人対人の関わりの中で、利用者と共に歩き、迷い、お互いが心身について考え、気づき、模索していく過程を著者は「障害の未知性に出会う自由な旅路」と表現している。その自由への旅路(日々、利用者との関わってきたことや支援の過程)を自分の担当利用者に置き換え、悩みや喜びを共有する旅に出てみませんか?

くろまる土屋葉 2010 「書評 田島明子著『障害受容再考−「障害受容」から「障害との自由」へ』」『福祉社会学研究』7:205-209

「残された紙幅で本書のもつ意義について述べておきたい。第一に、この本はおそらく著者の想定読者を超えて、「障害」について関心をもつ幅広い人の関心に応えるだろう。本書は、リハビリテーション業界における「障害受容」言説という、一見狭いフィールドに焦点化しているようにみえるが、実際には個人/社会にとっての「障害」そのものについて考察を行うものだからである。「障害とは何か」を解くべき課題の1つとする障害学にとっても大きな貢献となるだろう。また、障害をジェンダーの視点から考えることの重要性も示唆されている。近年、障害学とジェンダー学の接点を探る試みがなされているが、未だ十分とはいえない。本書では、後天的に障害をもった女性の、「母/妻として」の規範意識と役割を遂行できないことの間で葛藤する様が描かれていたが、「障害」のもつ意味がジェンダーで異なることを示している。
第二に、本書がリハビリテーション学と障害学/社会学の架橋となるという点にも注目したい。著者はリハビリテーションにかんする理論を学び訓練を受けてきた立場で、その内在的な問題に焦点を当てている。「臨床現場に居ながらにして、そこから距離を置きつつ、批判的に検討するために、社会学という視座は必要なものだった」というが、「能力主義的な障害観(感)」を批判し、「できないこと」の否定性の多くは、社会の規則や負担と感じる周囲などの外在的なところから生じてくる」と述べるなど、障害学の知見も用いていることは明らかである。
実はリハビリテーション学と障害学との間には、「対立」が存在してきた。杉野昭博によれば、世界の障害学とリハビリテーション学との間では一大論争があったという。リハビリテーション学からの批判としては、障害学は環境や社会の要因を重視するあまり、障害における固有の(生物学・医学的)問題を省みず、それにより実際の問題の解決を遅らせる、というのである。日本においては、とりわけ援助実践現場において否定的反応が示されている(杉野2007:47-52)。障害学は、個人モデル実践を全否定しているわけではなく、リハビリテーション学とは協働していける場面も多々あるはずである。この意味で、本書は日本における両者の奇妙な溝を埋める可能性を有している。
とはいえ、本書への疑問がないわけではない。本書の白眉である第5章・第6章で使用されるインタビュー調査のデータは、対象者の偏りについて十分に考察されているのか、セラピスト集団における代表性についてはどうかといった、質的調査に向けられるよくある批判も浮かぶ。また本書では一貫した調査方法がとられておらず、位置づけも曖昧である。まとめ方によってはデータのもつインパクトがより強いものになったであろうことは残念だ。
さらに重要な点としては、著者が最後に到達した「障害との自由」の像が明確ではないことがある。現在の「障害受容」に代わる、「内在的な障害観(感)」、「内から湧いてくる何か」のイメージをもちにくいのは私だけではないだろう。また、「能力主義的障害観(感)」から行なわれてきたことから否定され、能力の回復・改善の軸をはずした、内在的な障害観(感)に基づくリハビリテーションの可能性が追及されているが、ここでもどのような位置どりが可能なのかは不明である。著者はむしろ、これらに対して「正解」を求めることを回避しているようにも思われる。この本の刊行を契機とし、さらに議論が深まることを期待したい。」207-209

くろまるブログ「STの本棚」
http://bookshelf.ti-da.net/
20100412
http://bookshelf.ti-da.net/e3019868.html

くろまる大阪府立大学学術情報センター 20100426
テーマ展示「新入生に薦める114の本 2010」リスト
http://www.center.osakafu-u.ac.jp/library/2010/04/114.html

くろまる箕輪良行 2010 「Book shelf 障害受容再考−「障害受容」から「障害との自由」へ 医療モデルにも共通する 新たなパラダイムの予感」『ERmagazine』7-1:30

「「一般就労は困難と思われる障害を持ったクライアントが、どうしても一般就労したいと言ったりすると"障害受容"ができなくて困ったケースになる」(p2)というセラピスト間の会話で嫌な気持がした著者が、自分の思いを原点として文献考察と質的研究から、仮説生成に至った。リハビリテーションの外野にいる私たち医者には、癌や難病、終末期、脳死といったさまざまな患者の種々の診療場面における自分たちの会話を振り返ると、アナロジーに驚く。
感染症と外科手術を極とする医療モデルの限界が明らかとなり、治らない慢性の疾病と機能の喪失を前提とした病人を前にして、福祉やリハビリテーション分野で構築されている障害へのアプローチモデルは対極のものとして期待されてきた。一方、著者はリハビリテーションの提供サイドにありながら、受け手の「障害との自由」が本来のゴールではないかと仮説を提出している。広く流布している障害の「回復」を求める方向から、「代償」をめざす姿勢へ変容していくリハビリテーションのアプローチは、「障害受容」を要件とした誤りがあるのではないか、という抗議である。
幼児期に左麻痺となった障害者とセラピストとの真摯な会話の果てに、障害者自身の気づきが紹介されている。「歩く時に左足のつける感じや動き方が左と右で違う感じで、足の付け根の部分と足の裏があって、そこだけ動いていると感じ、膝のあたりの存在感が無く、足の裏も一箇所だけが床に付いているように思う変な感じです」(p200)と、豊かな言葉で自分の身体感覚を表現している。障害を持つ人がはばかられて話されなかった未知の感覚、感情が自由に表現されていて、著者乃ベクトルを示唆している。
まだまだ荒削りで言葉足らずであるが、誠実で障害に寄り添う立場の明確なところが読後のさわやかさを生んでいる。次の作品を読んでみたくなる秀作である。」

くろまる河本(里見)のぞみ 20100818

リハビリテーションは 障害に対するアプローチであり OTはそこに関与する職種ですが、障害ということ、当事者の内部感覚ということへの心寄せに関しては ずっととても荒っぽかった、荒っぽいまま来ていたと思います。それから、障害といったとき、例えば CP、頸損、片麻痺、知的障害、視覚障害、聴覚障害、ALSなど進行性、精神障害などで 随分と感じが違いますし、生まれたときから障害がある人と人生後半になってからのCVAなどとまたぜんぜん違う。そんなに違う障害というものを 一くくりにするときの共通項は、正常といわれているものからの逸脱だと思いますが、そこには抜きさしがたく負のイメージが張り付いています。でもそれは、自分が負のイメージを持っているというわけではない。逆に自分はOTであり、負のイメージなんか持っていないよ、という思いがありますが、ああ、でも生きにくいだろうなあ、社会が負のイメージをもってるし、と社会に責任をおっかぶせているところがあります。
多分 このあたり、あくまで障害者が対象ではあっても、家族や友人ではないというスタンスがあり、自分を正しいポジションにおく医療職のいやらしさに思います。この正しい反応は、実に脆い。精神障害の友人や親戚などから電話がかかってきて話すと すぐにいらつく自分があり、仕事だったらこんな反応はしないのにという反応を しますもの。

身体表現者の私は、障害がある人の動きに目を奪われるところがあります。惹きつけられます。街であったりするとずっと見ていたいという誘惑に打ち勝つのに いささか努力を要します。(世田谷の路上演劇祭ではCPでケーキ屋(ゆうじ屋)をやっている ゆうじさんと介護職の相方とでやる漫才 ゆーじーず という常連がいるのですが、浜松にもゲストで呼んでしまいました。)この魅力は 無防備さ、命の近さをむき出しにしているところにあるように感じます。(昔このあたりのこと OTジャーナルかなんかに書いたことがあります)

この本は ひとつひとつの言動や言説を検証しながら、障害ということを(受容に限らず)再考をうながすのにうってつけですね。まずは 上のようなことを感じました。

障害受容に関する論文を上田敏さんが書かれたときの事は 良く覚えています。障害があっても、それによって人間の価値が低められるものではないという 価値観の転換は、とてもヒューマニティにあふれ素敵に聞こえました。多分その直後、上田先生と大江健三郎さんの対談が雑誌に載り(OTジャーナルか)大江さんが 障害の受容は1度でなされるものではなくて 受容したかに思うがまたひっくり返ったりの繰り返しだというようなことを 述べていたのがとても印象的でした。せっかくそう大江さんが述べているのに 上田先生の反応には覚えがないのは、そこが焦点となることなく 話題として展開しなかったのでしょう。
大江さんの家族としての当事者の発言のほうが説得力があり、それ以来は障害受容のことになると、私にとっては上田先生のモデルのようには行かないという大江健三郎の話と抱き合わせになりました。
障害当事者の感じ方は 家族の感じ方、障害を得る前の健常だったときの感じ方に 大きく影響を受けますね。野中さんの話は 考えさせられます。家事をすることに価値を見出していた女の人達。転倒しながらも 洗濯や炊事を続けるパーキンソンやSCDの女性を 在宅でしばしば出会います。
リハビリだからという理由で 手伝わない夫たち。あるいは 日常というものは それぞれの家の中で、結構不思議なことが当たり前に行われています。
野中さんは 逆でした。夫から再発の危険から 止められているのですね。いずれにせよ、自分を安定させるためには、ある出来合いの規範(規範というものは出来合いにきまっているか)が必要ということになります。、、、、、、一筋縄ではいかないことですね。でも、何年か後の野中さんは 結構たくましく家族の中に位置してるかもしれません。

ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、パーキンソンやALSの人が 洗濯を干しているところに付き合ってやはり その手の動きに目を奪われることがあります。本人は大変な思いでやっていることでしょうから、それを 動きの魅力だなどと言ってはいけないと思いますが、(今まで人に言ったことはないのです)
その動きには なんともいえない充実があります。

動きの魅力などと、大変さを共有していない部外者が言うことは 本人にとって別にうれしくもなんともないでしょうね。ただ そこに見える動きの充実は、何らかの充実感を本人にもたらしているのかちょっと気になるところです。

この本は 出来ることに価値を置くリハの文脈が、実はかなりやばい線ということが、通奏低音としてありますね。このことは リハ従事者は肝に銘じて置く必要が あると思います。一番やってはいけないことは 出来る人との比較ですね。どんな場合でも 人との比較は実は意味がないです。そんなことを 思います。

内在的な障害感(観)と外在的な障害感(観)の交通可能性に再生のエネルギーが潜んでいるかもしれないという指摘、能力の回復・改善の軸をはずしたリハビリテーションの存在可能性を探り ある と思うことこれは すごく秀逸な視点だと思います。これは底支えですね。
「出来るほうがいいにきまってるじゃんね」という声に 簡単にかき消されそうですが、上の底支えをリハの基本とすることを 提案したいと思いました。

他者について。ちょうど 内田樹の「他者と死者」を読んでたところでして、難解ですが、ここに出てくる他者のことに なにか関係するような気がしました。こちらは 格闘中。

障害がある自身をどう感じるのか。べてるも、「わたしのからだをさがして」も、私も読みましたが、ほんとうに身体の感じを 自分の言葉で探して言い当てていくこと、大事なのに今までなおざりにされてた分野ですね。
最近では「リハビリの夜」が、ヒットだと思います。

障害受容再考 は セラピストにとって考えるべきことが沢山詰まった大事な本だと思います。ただ、こういう論考を読むということは 一つのトレーニングがいることですね。だから 大事なことなのに、多くの人が読むわけではないというか、読めるわけではないだろうことがちょっと、残念。
勿論 決して難しくはないのだけど、同僚のセラピストたちの本を読まなさを見てると、やはり距離があるのだなあ と思います。臨床にいる人達にこそ 読んで考えてもらいたい内容です。これは、パラドックスでもあります。

立岩真也さんは 生の技法 を昔読んで、気になってた人でした。ALSも読みましたが、そのほかはなんとなく 読んでいません。「障害とは何か」星加良司著 は是非 読もうと思います。

くろまる河口尚子 2010 「Lesson6:障害学 障害学とリハビリテーション(最終回)」『OTジャーナル』44-6:495

「リハ専門職の具体的な実践について、日本の障害学からも重要な示唆がなされている。田島は、能力の回復・改善の軸をはずしたリハの存在可能性を提示している。田島は「できる・できない」という能力的観点からのみ障害をとらえようとする視点を「能力主義的障害観」とし、その障害に対する否定観(感)を問題化した。田島は「その人が感受する障害(身体)世界である『内在的な障害観(感)』を肯定し、社会や周囲が障害に付与する価値観・障害感である『外在的な障害観(感)』がそれに合わせた変容可能性を持っているとしたら、その交通可能性のなかに、再生のためのエネルギーが動きだす何かがある」と述べている。
内在的な障害観と外在的な障害観とが交通可能なリハの具体的なありようを、医師で脳性麻痺者でもある熊谷が鮮やかに描いている。トレイナーと私(熊谷)との関係が従来のリハのような「規範的な体の動かし方」を目指した「まなざし/まなざされる関係」にあるとき、焦りの中で私の体はこわばって、その監視自体によって逆に運動目標から離れてしまう。一方、「ほどきつつ拾い合う関係」にあるとき、私の腕の動きと例ナーの体からどのような景色が見えるかということについて想像的に取り込み、同時にトレイナーも私の身体の中に入り込み、私の運動と私から見える景色をなぞっている。互いが相手の身体に入り込み合い、まなざしを二人が共有することになる。「私の身体の動き」が他者の動きと連動でつくり上げられるのだと述べている。
これまでも当事者の主体性・エンパワーメントの重要性や、プラス面を評価するということを認識されてきたが、「規範的な体の動かし方」といった健常規範そのものは問われてこなかった。「できる・できない」の二分法を越えた視点からのリハを開拓していく可能性がまだまだあるように思う。」495

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自分自身がぼんやりと感じた違和感に徹底してこだわりなさい、と社会学ではしばしば教えられます。というのも、そうした違和感は、日々の生活の中では流されてそのままにされがちですが、実は非常に重要なテーマにつながることが少なくないのです。
この本の著者の田島さんは、作業療法士としてのキャリアを、障害者の生活支援のための施設からスタートさせました。そこで彼女は次のような経験をします。どう評価しても一般就労は難しいと思われている人が「一般就労がしたい」と言うと、症例報告会や職員間の会話で「あの人は『障害受容』ができていない」と言われるのです。これを聞いて田島さんは、「もし私がクライエントの立場なら、そのようにこの言葉を用いられたら、とても嫌だな」と思ったといいます(『障害受容再考』?Cおよび2〜3ページ)。そしてこのぼんやりとした違和感は、その後の研究を通じて育まれ、この本を貫く問題意識へと発展しています。
本の構成としては、前半の第4章までで、リハビリテーションの専門誌における「障害受容」の語られ方や、障害のある人へのインタヴュー、そして南雲直二氏の「社会受容」論の検討を通して、上に述べた問題意識が暖められ、続く第5章からは、リハビリテーション臨床で働く7名の作業療法士へのインタヴューを起点として、「障害受容」に関する考察が行われます。それによれば、「障害受容」という言葉には、自分の身体を思い通りに制御し生産活動を行う「能力」を標準とし、リハビリテーションによってそこに近づくべきだとする「能力主義的障害観」が染みついています。このような障害観が押し付けられることは、クライエントが別様の障害観を探す道を閉ざすことにつながります。そこから抜け出すためには、能力の回復・改善を軸にしないハビリテーションの在り方が模索されなければなりません。それについて田島さんは、能力の回復・改善を第一義的な目標とはせず、身体を介した対話を通してクライエントの身体の世界に意味を与えていくような営みに、可能性を見い出しているようです(『障害受容再考』「補遺」より)。

「受容」をめぐる繊細な側面については、私も常々感じるところがあったので、それに正面から向き合う田島さんの問題関心には大いに共感します。私がこれまでセルフヘルプ・グループ等で会ってきた人たちは、自分の変化を表わすために「受け入れる」という言葉を使うことがありました。しかし、他の人に「あなたは病いを受容していますね」などと言われると、「う〜ん、そうなのかな」と当人は首をかしげる、そんな場面に少なからず遭遇してきました。他方、治療や援助の専門家が病いをもつ人の状態を指して「あの人は受容できていない」と表現する場面はしばしばありました。どうやら、この「受容」という言葉は、専門家が、病いをもつ人が不在の状況で使う言葉である、という傾向が見受けられます。

さて、ここからさらに次のように考えを進めてみます。たとえば、リハビリテーションの過程において、セラピストの方がクライエントの能力の回復・改善に向けて頑張っているのに、肝心のクライエントがそれに付いていっていないという状況がありえます(このような状況を便宜的に<状況A>と呼びます)。この状況では、確かに、セラピストの目標に含まれる固定観念(「能力主義的障害観」)がクライエントに押し付けられるかっこうになっており、したがってそこから自由になること(この本では「障害からの自由」と呼ばれています)が重要と考えられます。しかし、たとえば、セラピストが、損傷等を負った身体部分の機能の回復を諦めて、他の身体部分や補助器具などを使って生活することを目標にしましょうと言うのに、クライエントの方がなかなかそれに「うん」と言わないケース(この本の30ページで言及されているものです)、あるいは、既に挙げた、どう評価しても一般就労は難しいと思われている人が「一般就労がしたい」と言うようなケースについては、どうなのでしょうか。これらの状況(便宜的に<状況B>と呼びます)においては、セラピストよりもむしろクライエントの方が「正常な身体」にこだわっており、「能力主義的障害観」も色濃く表れています。

このように<状況A>と<状況B>とは異なっているにもかかわらず、「障害受容」という言葉は、両方について便利に用いられる言葉になっています。つまり、「能力主義的障害観」がセラピストとクライエントのどちら側にどのような濃淡で表れており、それがいかなる意味でクライエントの苦しみにつながっているのかという点について、この「障害受容」という言葉は何ら分析性能を発揮せず、クライエント個人の心の問題としてひとくくりに扱っています。その一方で、「あの人は受容できていない」とさえ言ってしまえば、専門家の方は、状況がもたらす閉塞感やストレスからとりあえず身を引きはがし、自己を防衛することが可能になります。このように、クライエントの経験に対してはおおざっぱでありながら、専門家にとっては自己防衛の機能をしっかり果たす都合のよさがこの言葉にはあり、それが田島さんはじめ少なからぬ人に違和感を抱かせているのではないか、と思えるのです。

<状況A>では「能力主義的障害観を押し付ける専門家」対「押し付けられるクライエント」という図式が一見して成り立っていますし、そこから「自由」になるべきだ、という言い方もわかりやすい。しかし<状況B>となると、先の図式は必ずしもあてはまりませんし、そこから「自由」になるという理想像も、一筋縄では語れなくなるように思います。これは、リハビリテーションにおけるセラピストとクライエントの関係だけに収まらない非常に大きな射程を持つテーマだと思います。

自分自身のぼんやりとした違和感にこだわり続けることで、やがて大きなテーマにつながることを、この本は端的に示しています。何か完成したものを「与えてくれる」というタイプの本ではなく、むしろ未整理で未完成な部分を残しながら、読者にいろいろなことを考えさせるタイプの本です。部分的には一読の限りでは難解なところもあるかもしれません。それでも、願わくばセラピストの卵たちのすべてがこの本を読んで<考え悩む>セラピストになって欲しいと思います。病いの社会学からみて重要な一冊に挙げられる本です。

くろまる「もめるautism」 20110409付
http://takiruka.blog9.fc2.com/blog-entry-44.html

図書館で借りたが、買う価値のある一冊だと思った。
「障害」のある人は、一読をお勧めする。
著者の文章は、「鋭すぎて」、クラクラする。
クラクラしながら読み、読んだあとは、ぐったりした。
リハビリテーションの本を初めて読んだけど、いきなりすごい本に出会った。

「障害」の意味は広い。
単に、「できないこと」「不便」「さまたげ」というだけではない。

この本を読んで、「障害受容せよ」とは「オマエデキナインダカラアキラメロヨ」という
意味にも取れると思った。確かに閉塞的な言葉だ。


くろまるOTtomeruの在宅介護日記 20110213付
http://ottomeru.seesaa.net/article/185687740.html

くろまるKingstone page(新)
http://kingstone3.seesaa.net/article/210091612.html

くろまるtwetter
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http://twitter.com/tksh21/status/28508083914
http://favotter.net/status.php?id=79484436411990016
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http://sakichokomemo.blogspot.com/2011/07/2011-07-19.html
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くろまる「鶴岡協立リハビリテーション病院 リハビリテーション技士部」ブログ(2012年5月8日付)
http://riharihasitu.seesaa.net/article/269105483.html

くろまる鶴岡協立リハビリテーション病院 リハビリテーション技士部 抄読会年間ベスト5(2012年12月29日)
http://riharihasitu.seesaa.net/article/310492708.html

くろまる夢を叶えて成長する! 作業と障がい受容(2013年2月5日)
http://blog.livedoor.jp/nanachiki/archives/51946231.html

くろまる「理学療法士の。ブログ」さま(2013年9月11日付)
http://icoach.livedoor.biz/archives/51686684.html

理学療法士にお勧めの本3

こちらのページでミドリガメさんのリクエストにお答えして、理学療法士にお勧めの本を書きます。
以前のおすすめとかぶってたらごめんなさい...

【送料無料】障害受容再考 [ 田島明子 ]

送料無料らしいです^^

アイは、正直この本は持っていません。ですが、田島さんがある雑誌にこの本の元になる連載をされていた時に、読んでました。連載の題名も同じだったかな。障害受容っていう言葉にちょっと違和感を持ってたアイには、ビビビッと(古)きました。

本になっても、いろんなところで褒められていますので、読まれているかもしれませんね。
[略]

くろまる立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon]/[kinokuniya] (注記)

しかく引用・参考文献

◇鈴木 博子 201101 「障がい受容再考からリハビリテーション再考へ」
大阪府立大学大学院 人間社会学研究科修士論文
[PDF] http://www.arsvi.com/2010/1101sh.pdf
[英文要旨] http://www.arsvi.com/2010/1101she.htm
[英文要旨PDF] http://www.arsvi.com/2010/1101she.pdf

◇田中順子 201012 「作業療法と芸術表現」 神戸大学大学院人間発達環境学研究科博士論文

◇青木安史 201002002 「在宅リハビリテーションにおける倫理的・法的・政策的問題」静岡大学大学院臨床人間科学専攻 対人援助の倫理と法
http://www.hss.shizuoka.ac.jp/rinsho/pdf/ethics_and_law14.pdf

◇河合翔 2011年01月12日 「アテトーゼ型脳性麻痺における"不随意運動"の身体論的考察―過剰適応と癒着化からの自由」大阪大学大学院人間科学研究科平成22年度修士論文
http://www.arsvi.com/2010/1101ks.pdf

◇吉井理 2011 「障害受容とは?自死されたF先生」『総合リハビリテーション』39-5:504-505

「田島明子先生は、「障害受容再考」のなかで、段階理論が実際に適合しないことが多い、価値転換理論では個人の変容のみに捕われており、方法論の不明さ・困難さを指摘している」505

◇野中猛 2011 「図説 医療保健福祉のキーワード リカバリー」中央法規

「作業療法士の田島明子は、「できる、できない」という能力主義的な障害観が、障害者に恥や閉そく感を与えていたと論じる。その対立概念として、「楽にいられる」、「何も変わらないでいい安心感」、「その人が感受する障害観」を掲げ、自由と自尊心をもちながら相手との関係を結ぶことができる「障害歓待」こそが当事者の視点であると結んだ」29

◇熊谷晋一郎 2012 「コラム19<戦後のリハビリ史>」中邑賢龍・福島智編「バリアフリー・コンフリクト」東京大学出版会pp230-231

「作業療法士の田島(2009)によれば、クライエントが「機能回復に対する固執」を見せた場合と、「(復職支援などの際に)自分の能力や適性に対する認識が(セラピスト側から見て)適切ではなく、過剰な期待を表明されるような時」のふたつに、セラピストはそのクライエントのことを「障害受容ができていない」と表現する傾向にあるという報告がなされている。その背後には医療費の節減のために入院期間の短縮が望まれるなか、リハビリの初期には正常な身体を目指す「回復アプローチ」がなされ、やがて回復に行き詰りが見られるようになると、身体の正常化はあきらめて自立的な生活が目指される「代償アプローチ」へと路線変更させたい現場の都合があるという。
当事者運動の言説は、等身大の障害者身体を受け入れるよう、社会の価値観やリハビリテーションの在り方を変えてきた。しかし一方で、リハビリテーションの現場には回復を望む当事者がいることも事実である。彼らに対して、平均から外れた身体を受け容れるべきだという言説が抑圧的に働いてしまうという事実には、「回復か、代賞か」というリハビリテーションの目標設定を巡る問題のむずかしさが垣間見られる」230-231

◇大嶋伸雄編著 2013 「患者力を引き出す作業療法」三輪書店

「(南雲と同様に)田島は"障害受容"に対しての問題提起の中で、個人にのみ変化を求めることへの閉塞感を挙げている。さらに、内在的な障害観(感)と外在的な障害観(感)の交通の中に、再生可能なエネルギーがあることを述べている。クライエントの場合にも、自分の変化と同調して、家族や友人も、障害やクライエントへの考えが変化したのではないかと仮説づけられる。」p172

◇田中順子 2013 「患者と治療者の間で "意味のある作業"の喪失を体験して」三輪書店

「作業療法士の田島は、障害受容に関して実に示唆に富んだ論を展開しています。その中で私の心を釘付けにしたのは、「『障害受容』はリハビリテーションの全過程において破棄されてよい、すべき概念である」と断言している点でした。この一文を読んだとき、患者としての私は一挙に100人の味方を得たような気持ちになり、諸手をあげて大歓迎したものです。というのも、そのような私たちを追い詰める概念そのものを、できるものなら消し去りたかったからです。
さらに田島は、障害の囚われから自由になり楽な気持ちんいなれることを「障害との自由」と表現し、「障害受容」に代わる目指すべきものとして提案しています。ただし、私には少々感覚的につかみきれない言葉でしたので、障害受容に代わる概念を探すことにしました。[略]」p151


*ファイル作成&更新:青木 慎太朗
UP: 20090625 REV:20090629, 30, 0702, 04, 08, 09, 10, 11, 0901, 28, 1013, 28, 1122, 30, 1210, 23, 30, 20100204, 26, 0418, 0511, 0617, 0707, 0822, 0930, 1005, 11, 1130, 20110313, 0413, 14, 16, 0509, 0804, 1022, 20120919, 20130109, 0327, 1217, 20140825
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