『翻訳の思想――「自然」とNATURE』
柳父 章 19951005 筑摩書房,265p.
last update: 20180228
■しかく柳父 章 19951005 『翻訳の思想――「自然」とNATURE』,筑摩書房,ちくま学芸文庫,265p. ISBN-10:4480082328 ISBN-13:978-4480082329 欠品
[amazon]/
[kinokuniya]
←19770705 『翻訳の思想――「自然」とNATURE』,平凡社,238p.ASIN: B000J8V7V4 欠品
■しかく内容
「BOOK」データベースより
幕末から明治にかけて、西欧文化を受容するために数多くの翻訳語が生みだされた。当時、焦眉の急であった異言語の翻訳をめぐる問題は、とりもなおさず重大な思想上の問題をはらんでいた。たとえば、natureの翻訳語として定着した「自然」は、本当に原語と等しい意味を担いえたのだろうか。その間の意味のずれこそ、日本人の西欧文化に対する「理解」と「誤解」を具体的に指し示しているのではないか。異文化との接触の場所である「翻訳」をめぐる原理的な思考を提示する。
■しかく目次
第一章 二つの「自然」をめぐる論争
1 「自然」のままに「自然」を写す、ということ
2 鴎外の反論
3 日本語の意味より正しい翻訳語
4 「自然」は一つか
5 西欧人エマソンの「自然」観
6 「自然」の意味の矛盾
第二章 辞書、辞典に見る「自然」とnature
1 辞書における「自然」とnatureの共通性
2 辞書における「自然」とnatureの違い
3 「自然」とnatureとの混在の危険
4 「自然」とnatureの区別の記述
5 supernaturalなものとも対立するnature
6 動物的な生命という意味をもつnature
7 「自然」とnatureの違い再考
第三章 翻訳語「自然」が生み出した誤解
1 近代以前のnatureの翻訳語「自然」
2 形容詞、副詞に近かった「自然」
3 natureの意味をもたない西周の「自然」
4 まず日本語としての意味をもつ翻訳語
5 法律用語「自然」への迷い
6 翻訳語「自然」と「性」との使い分け
7 「自然科学」用語の「自然」の始まり
8 「自然淘汰」の「自然」は「おのずから」
9 加藤弘之における「自然淘汰」の錯覚
10 翻訳語が造り出す論理
第四章 「自然主義」の「自然」とは何か
1 「自然」を「自然」のまま書く
2 鴎外・厳本論争の繰り返し
3 中村光夫の花袋批判
5 花袋の「自然」とゾラの「自然」
6 独歩における「自然」
7 日本「自然主義」者の「自然」の意味構造
第五章 自然科学者における「自然」
1 作家の「自然」と科学者の「自然」
2 観念が大事な科学者
3 科学の理論と決して一致しないnature
4 natureを捉える「観念」
第六章 丸山眞男「自然から作為へ」の「自然」
1 丸山眞男「自然から作為へ」の要旨
2 日本語「自然」と翻訳語「自然」の混同
3 デカルトのnatureと神
4 神の「作為」から人間の「作為」へ
5 中国、日本における「自然」
6 安藤昌益における「自然」
7 本来の論理と現実の論理
8 神の「自然」から人間の「自然」へ
第七章 「天」とnature
1 「天」の思想の意味
2 福沢諭吉の「天」
3 Godの翻訳語「天」
4 「天」の三重の意味
5 加藤弘之の「天」
6 西周の「天」
7 天賦人権論の「天」
8 「天」と「天皇」の思想
あとがき
文庫版あとがき
解説(長谷川三千子)
■しかく引用
「「自然淘汰」の「自然」とnatural selectionのnaturalとは、その一つの場合である。明治一〇年代頃の日本語の「自然」は、natural scienceの対象であるnatureという意味を持っていなかった。名詞natureとの係わりを持っていなかった。ところが、natural selectionのnaturalは、natureの形容詞である。natural selectionとは、natureによる「淘汰」である。artificial selection「人為淘汰」が、art「人為」による「淘汰」であるのに対して言われるのである。
これに対して、当時の「自然淘汰」とは、「自然」による「淘汰」の意味ではなかった。名詞「自然」は、このことばを使う識者にも、読者にも、念頭にはなかった。それは、いわば「自然な」「淘汰」というような意味として理解されていたのである。(p. 94)」
「だが、ことばの使用者もその読者も、意味不十分と意識しつつ使う、ということはあり得ない。ことばの意味は十分でなければならない。十分なはずである。それは、ことばが、文全体として、かつその言語体系全体として、一つの閉じた構造をもっていることの当然の結果である。文中の一つのことばの意味が、もし不十分にしかとらえられないならば、それはたまたま自分に知られていないのであって、その不十分を補うに足る意味の部分が、(p. 99)そのことばの背後に隠れているはずである。(p. 100)」
「丸山眞男の言う「自然から作為へ」の「自然」とは、羅山、徂徠、素行らの用いた「自然」ということばであり、同時にまた、natural lawを「自然法」と翻訳したときの「自然」、ホッブスやデカルトの用いたnatureということばを「自然」と翻訳したときの「自然」である、ということが分る。伝来の日本語「自然」とnatureの翻訳語「自然」とが、一つのことばであることによって、やはり混同されている。当然、その意味も混同されているのである。(p. 161)」
「丸山眞男の言う「神の超越化傾向はデカルトに於てその最後の論理的帰結まで押し進められた」とは、中世的「自然」の秩序から神の「作為」へ、と見ることはできない、と私は考える。「論理的帰結」を「押し進め」るならば、神の「作為」としてのnatureから、神を離れて自立して行くnatureへ、と言うべきであろう。神の「作為」を離れたnatureは、natureを扱う人間の「作為」の対象となる。natureは、つねに「作為」と対立しつつ両立しているのである。(p. 169)」
「「自然」という中国語は、やがて仏教用語として取り入れられ、『大無量寿経』などの経文での重要な用語として使われる。老子の思想も、仏教も、上代に私たちの国へ到来した。「自然」ということばの、私たちの国における歴史も長いのである。やがて、親鸞は「自然」ということばに、信仰上、思想上の重要な意味を託した。(p. 173)」
「丸山眞男の『日本政治思想史研究』は、伝来の日本語「自然」とnatureの翻訳語としての「自然」とを同一視している、と私は考える。このことが、同書の論理展開と結論の導き方にどういう影響をもたらしているだろうか。
論者は、nature対「作為」の関係においてこそ成り立つことがらを規準として、「自然」対「作為」で捉えられる現象を裁断しようとするのである。しかし、当然裁断し切れない。(p. 179)」
「「自然法」の「自然」がnatureの意味として働く限り、「実定的秩序」という「作為」に対して、「変革的原理」となり得るのは当然である。そしてもう一つの変革された「実定的秩序」を造り出すこともあろう。しかし、「朱子学的な自然法思想」という場合の「自然」が、伝来の日本語の意味として働く以上、「作為」による「変革」とは当然相容れない。
丸山眞男は、これに対してこう説明する。「しかし朱子学の理論構成に深く浸透してゐる自然主義はかうした理の、したがつて自然法の純粋な超越的理念性を甚だしく稀薄にする」と。「自然法の純粋な超越的理念性」は、もともとなかったのである。しかし、論者は、「朱子学的自然法」にも「自然法」である以上、「純粋な超越的理念性」はあるはずだと考えている。しかるにそれがない、と。それが、この文を流れている論理である。
ここで述べられている「自然」には、二つの意味がある。一つはnatureの意味、もう一つは伝来の日本語「自然」のそれである。この二つの意味が、一つの「自然」ということばの中で、一つは模範的な概念として、他方はその模範に照らして裁断される概念として位置づけられている。しかも、両者は、ただ混在しているのでなく、いわば上下の関係に位置づけられているのである。(p. 181)」
「西欧におけるnature対「作為」の思考構造から導かれる社会契約説などの「近代的な『人作説』」を模範として、徂徠以後の政治、社会、および思想の動向が批判され、裁断されている。これは演繹論理的な分析であるとともに、「欠いだため」、「頽廃的な結果を利用」というように、マイナスの価値イメージをもつことばで語られている。翻訳語の意味から導かれる模範があり、その模範に合(p. 186)致しないこちら側の事実の方が、悪と評価されているのである。価値判断を伴った分析である、と考える。(p. 187)」
「それは、人間の「作為」とはおよそ対立する「天」という思想の系譜である。「天」は、幕末から明治初期にかけての激動の時代に重大な役割を果たした、と私は考える。丸山眞男がここで言う「驚くべき飛躍」を思想上で成し遂げた原動力の第一は、西欧近代思想の翻訳である。そしてその次に、その翻訳を可能にした日本語における翻訳語であり、なか(p. 193)でも重要な一つは、この「天」であった。「天」は、明治一〇年代、自由民権運動にもう一度登場する。植木枝盛が「天の人間を造るのは、天下万人皆同じ」という場合の「天」もその一例である。ところで、人間の主体的「作為」は、「天」によって否定されるものではない。「作為」は、「天」と対立しつつ、両立している。この意味で、「天」が思想上果たした役割は、西欧政治思想史におけるnatureの果たした役割と似ている。「自然」よりも、「天」が、実質上natureに近かった、と考えるのである。
「天」は、natureの翻訳語としても使われた。が、「天」はまたGodの翻訳語でもあった。そして同時に、「天」は、natureやGodの翻訳語でない意味も、もち続けていた。(p. 194)」
「「自然」も「自由」も「哲学」も、翻訳文の文脈や翻訳的文章のなかでは、これに対応する西欧語と全く等しい意味をもつ、と考えられている。考えられている、と言うよりも、当然のこと、と前提されているのである。
しかし、実はそうではない。原語の意味は、その翻訳語にそっくり乗り移ってくるものではない。そのことを私はnatureと「自然」について述べてきたのである。
幕末・明治初期の頃の日本知識人たちは、翻訳語についてこういう先入観をもっていなかった。
中村敬宇は、慶応二(一八六六)年、幕府派遣の留学生としてイギリスに学んだ。明治元(一八六八)年、日本に帰国、帰国直後に「敬天愛人説」という小文を書いている。「敬天愛人説」は漢文で書かれ、中国の歴史で、「天」を敬し、人を愛することが尊重されていた、という次第がまず説かれる。(p. 203)」
「以上見てきたように、「天」は、日本語の意味を生かしつつ、まずGodの翻訳語として使われた。他方、natureの翻訳語としても「天」は「天性」、「天地」という形で、あるいは「天」としても使われている。すなわち、この時代に一つの「天」ということばが、Godの翻訳語であり、natureの翻訳語でもあったわけである。
しかし、西欧思想史上、Godとnatureとは、相互に厳しく対立する意味をもったことばである。
デカルトは、すでに述べたように、一七世紀前半、もしGodがいないとしてもnatureはその初めに定められた法則によって自立して動いて行くであろう、と述べた。この場合のnatureとは、今日言う「自然科学」の「自然」の意味であった。ほぼ同じころ、「『自然法』の父」と言われるグロチウスは、『戦争と平和の法』で、もしGodがいないとしても、natureの法はその効果を失わないであろう、と述べた。それから約一世紀後、一八世紀のルソーは、『人間不平等起源論』で、もしGodが、人間をnatureの状態のま(p. 206)まに打ち捨てておいたとしたらどうなるか、と設問し、そこからnatureの権利の根拠を探ったのであった。こうして、西欧思想史上の中心のことばが、Godからnatureへと移っていったのである。しかし、以前としてGodは、西欧の信仰の中心であり、文化のあらゆる分野で重要な位置を占めていた。natureにとって、Godはsupernaturalな存在であり、厳しく区別されなければならなかった。
幕末・明治初期の知識人が、「天」を、一方でGodの翻訳語として使い、また他方でnatureの直接、間接の翻訳語としても用いた、ということは、矛盾である。西欧思想を深く学ぶに従って、この矛盾は明らかになってくるはずである。
「天」は、natureの翻訳語として使われるときでも、Godの翻訳語として使われる場合でも、まず日本語としてあった。したがって、問題は、「天」に負わされた、Godの翻訳語とnatureの翻訳語としての意味と、そして伝来の日本語「天」がもつ意味という三重の意味がからんでくる。当時の知識人は、この意味のずれ、ないし矛盾を、どのように気づき、またどのように処置していったのか。(p. 207)」
「「天性」は「天ノ尤モ愛シ玉フ者」に、「天意」によって与えられるものである。「天性」とは、加藤[弘之]によると、「情」と「本分」の二つに分けられる。「情」とは、「不羈自立ヲ欲スル情」であり、後の説明から、今日の翻訳語で言う「自由」、libertyやfreedomのことであると分る。もう一つの「本文」は、「所謂仁義礼譲孝悌忠信抔云フ類ヒ」であって、伝統的な道徳を指している。
「天性」の「本分」が「仁義礼譲孝悌忠信」である、と言うのは、「天」や「性」ということばの伝統的文脈にかなった説明であり、当時の読者たちにはよく理解できる説明である。この文脈のなかに、加藤は「不羈自立」を「情」として挿入し、位置づける。読者たちにとって、抵抗はあるが、理解できないことはない。何よりも、その根拠は「天ノ尤モ愛シ玉フ者」に与えた「天意」なのである。(p. 210)」
「「天」は、儒教もとより、およそ中国の古典の思想において、もっとも基本的な観念である。『易』は「天の道を立てて陰と陽と曰ふ」と説き始め、孔子は「天命を知る」、「我をs知る者はそれ天か」などと「天」を語る。朱子は、その最も重要な用語「理」について、「天は即ち理也」と言う。儒家とは反対の立場をとる荘子も、「天」をその中心思想である「自然」と同じような意味で語っている。
「天」は、西欧文明におけるGodに対応する意味がある。ヨーロッパが、中世以来Godの観念を通じて一つの世界をもっていたように、中国もまた、さまざまな異民族が併立、乱立しながら、「天」という基本的、共通普遍の理念をもって一つの世界を形成していた、といえよう。(p. 226)」
「「天」ということばは、明治一〇年代にもう一度復活する。「天賦人権」論の登場とともに、「天」がふたたび語れるようになるのである。加藤弘之は、明治一五(一八八二)年、(p. 227)『人権新説』を発表し、人権論者たちを批判した。人権は「天賦」ではなくて、歴史的に獲得されてきたものだと言い、歴史的な人権獲得の過程を、すでに述べたように「自然淘汰」説で説明するわけである。『人権新説』初版の口絵には、「天賦人権」という文字が、彼方の上空の蜃気楼のなかにうっすらと浮かび出ていて、やがて雲散霧消していく様子が描かれている。(p. 228)」
「彼らは、自由や民権を納得するのに、「天」ということばを必要としていた。他方、「天」が、「天祖」、「天孫」、「天子」の「天」とも共通である、と当然前提していた。(p. 244)」
「「天賦」の「天」と、「天祖」、「天孫」、「天子」の「天」とが共通である、という思考をつきつめた結論である。(p. 245)」
■しかく書評・紹介
■しかく言及
◇丸山 眞男 19830620(新装版)
『日本政治思想史研究』,東京大学出版会
*作成:
岡田 清鷹