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会津泉氏インタビュー・1
2022年10月21日 +
最首 悟
・
川本 隆史
聞き手:
丹波 博紀
・
立岩真也
Zoom
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◇
会津 泉
i2022a
インタビュー・1
2022年10月21日 +
最首 悟
・
川本 隆史
聞き手:
丹波 博紀
・
立岩真也
Zoom
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会津 泉
i2022b
インタビュー・2
2022年10月21日 +
最首 悟
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川本 隆史
聞き手:
丹波 博紀
・
立岩真也
Zoom
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会津 泉
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インタビュー・3
2022年10月21日 +
最首 悟
・
川本 隆史
聞き手:
丹波 博紀
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立岩真也
Zoom
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会津 泉
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インタビュー・4
2022年10月21日 +
最首 悟
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川本 隆史
聞き手:
丹波 博紀
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立岩真也
Zoom
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ばつ
社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121
https://www.kokopelli121.com/
【rmk19】会津泉_最首悟_川本隆史インタビュー(20221021)_156分
丹波:定刻になりましたので始めたいと思います。まず会津さん、今日は貴重なお時間ありがとうございます。
会津:どういたしまして。
丹波:準備がぜんぜんできなかったんですけど、最初にいちおうこんな感じかなっていうふうに文章を今Wordファイルをチャットで送りました☆。最首先生はさっきメールで送ったのでもう大丈夫ですよね。今取り急ぎ、折原さんの『東大闘争と原発事故』の。昨日川本さんから「折原さん書いてるんじゃないかな」とおっしゃってたんで、見たらやっぱり書いてて、それを参考資料として今送った次第です。あとは会津さんがデータ化してくださった連続シンポパンフレットの詳細な高解像度のPDFデータを今送りました。三点送ったはずです。
それでちょっとだけ趣旨というか、会津さんには何かとつぜんのようにこんなことをお願いしてるので、いちおう趣旨というか意図は伝えるべきだろうと思ってWordファイルを書いてみました。
今日、会津さんにご足労をお願いしましたのは、連続シンポ〔
解放連続シンポジウム『闘争と学問』
〕についてお話をうかがいたいっていうのが発端でした。そんなに長丁場をお願いしたいということではないんですが、まず最初に発言できるかた、簡単に「私何者です」の一言でけっこうですので、自己紹介から始めとこうかと思うんですが。
じゃあ最首先生からどうぞ。会津さんは最後に。
☆ ★
最首:86歳になりまして、いろいろと記憶に問題があります。会津の顔はまだ忘れてないけどな(笑)。でも会津もだいぶ太ったね。はい、以上。挨拶終わり。
丹波:じゃあ次、川本先生お願いします。
川本:私は70歳になりました。だから、ちょうど70歳になるおじいさんは1970年が大学1年なんですね。会津さんは71年、大学に入るところを拒否して。202(にーまるに〔駒場キャンパスの教室名〕)に通ってらした若き会津少年を、202〔教室〕で私は、なんというか...眺めてっていうのはあれかな、どう挨拶していいのか。でもあとになって、その時わかってたかな? 私と同じイエズス会の学校の兄弟校、私は広島なんですけれども、会津さんは栄光学園なんで。それで会津さんのお友だちのサークルにいちおう残ったのが一人か、来てくれて。最後まで一緒にやりました。あと栄光の先生になって今北海道で教員やってるイイノくんとかですね。会津さんの期は19期になるんですね。サワシタさんもそうですよね。栄光のね。ぼくは栄光出て18期になるんですけれども。ローカルな話ですが。なんか親近感と、それからイエズス会教育に対する複雑な思いを持ちながら、こんど70になりました。
お兄さんのシモダマモルさんとも最近ものすごいディープな付き合いをしておりまして。お兄さんを介して会津さんのメルアド教えてもらって。202の時はぼくは遠くから仰ぎ見てて挨拶も何もできなかったんですけど。メール差し上げてちょっとコンタクトとったことはありますけど。今日こうやって、Zoomとはいえ、かつての会津少年にお会いできてすごく胸がときめいております。
私ももう大学生になったあとの202で、自主講座でしたけれども、いろんな思いで。熱心じゃないんですが、何回か参加したものとして、今日のお話を楽しみにしております。すいません、長くなった。[00:05:03]
丹波:ありがとうございます。じゃあ立岩さん、お願いします。
立岩:立岩真也と申します。立命館大学に勤めております。ぼくは挨拶いつも短いんですけど、ちょっとだけ長く。
科学研究費っていうのも使いながら、大学に生存学研究所っていうのもありまして。そこで「現代史を記録する」っていうことを今までもやってきたし、これからもやっていきたいっていうことがあります。まずいところはあとでいくらでも省いてもらってもかまいませんので、基本的にはこちらで文字起こしいたしますので、それを公開するというつもりで、希望でおります。
年取っていいことってのはですね、昔だったら「そのまま記録されちゃ困る」みたいなことも、だんだんまあどうでもいいやっていうか、言ってもよくなるみたいなことがあったりして。それは歳取ることの得なことかなと思っています。
ぼくは1979年の入学で文学部出たんですけれども、東大闘争っていうとやっぱり68、9年話があって。そのあと大学闘争全般が浅間山荘だの内ゲバだのっていう話で始まり、終わると。だけど、ぼくも70年の末のほうの運動であるとか、80年代入っての運動っていうのにいくらかは関わって、「何にもなかったわけじゃないよね」「そんなにかっこいいものじゃなかったけどそれなりにやってきたとこもあるよね」っていうのは前から思っていて。ただ、ゲバルトについての詳細な回顧録みたいな本はいっぱい出てるけれども、それとは違う部分っていうのは文字にされてないなってことはずっと前から思っていて。それでようやく、いろんな人に話を聞いて回るっていうことをやろうと思っていたところです。
そしたら丹波さんがいろいろ手配してくれたりしていただいて、こないだは10月の12日に
久保田好生
さんにお話をうかがい☆、翌日に
最首〔悟〕
さんにお話をうかがうってことができました☆。そんなこんなでこれからいろんな人に聞いてきたいですし、それをいい具合に公開していきたいと思ってますし、もっとうまくいけばっていうか、私的には「じゃあこの50年なりをどう見るのか」「われわれは何をしてきたのか」っていうところで、『現代思想』と今ちょっとやりとりをしてるんですけれども、何か連載のようなものをさせていただけるかもしれない。そんなところにおりますので、今日はどうぞよろしくお願いいたします。
☆久保田 好生 i2022a
インタビュー・1
,2022年10月12日 聞き手:立岩真也,於:東京・高円寺・久保田氏宅
久保田 好生 i2022b
インタビュー・2
,2022年10月12日 聞き手:立岩真也,於:東京・高円寺・久保田氏宅
☆
最首 悟
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インタビュー・1
2022年10月13日 聞き手:
立岩真也
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丹波博紀
於:横浜・最首氏宅
最首 悟
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インタビュー・2
2022年10月13日 聞き手:
立岩真也
・
丹波博紀
於:横浜・最首氏宅
最首 悟
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インタビュー・3
2022年10月13日 聞き手:
立岩真也
・
丹波博紀
於:横浜・最首氏宅
丹波:ありがとうございます。
会津さんに今の文字起こしの件は以前お伝えしてなかったところですので。
会津:ぜんぜん問題ないっすよ。
丹波:問題ない。許可が得られましたので。
立岩:ありがとうございます。
会津:許可が必要だということのほうがおかしいと思ってるので。
丹波:そうですか。わかりました。じゃあラフな感じで。
ではまた立岩さんからまたご連絡かなんか。公開してか。
立岩:テープ起こしっていうか文字起こしができたらそれみなさんに見ていただきますので、加筆なり削除なり何とでもいくらでもよろしくということです。
丹波:あとお二人のかたがいらっしゃっておりまして、お二人とも立命館大学の大学院で立岩さんのところのかただと思うんですが、たぶんマイク・画面オフなので何かしら事情があるかと思いますので。そういったかたがあと二人いらっしゃる。発言なさりたければどうぞですが、大丈夫でしょうか?
立岩:ぼくのほうから簡単に言いますね。三人いますね。
有松 〔玲〕
っていうのが自分も脳性麻痺の障害持ってますけど、「2010年ぐらいの制度改革の失敗」というか、について研究している。
竹村〔文子〕
さんは自分の子どもがダウン症ってこともあって「ダウン症の子どもの高校進学」に自分が関わったってこともあってそれを研究しようとしている。
小井戸〔恵子〕
さんも名前は忘れましたけども何かの障害があるんですが、今は脳性麻痺の人に対する脳手術、手術の歴史について研究している。という、いずれもわれわれの研究科の大学院生。年齢はばらばらっつうか、そんなに若くない。そんなこと言わなくてもいいんでしょうけれど、そういう3人ですので時間が可能な限り聞かせてあげてくださいっていう、そういうお願いです。[00:10:07]
丹波:今、出席者がこれで今3、4、5、8名いらっしゃるんでしょうか。自己紹介が終わって、いちおう今日ぼくのほうで会津さんにお声がけしたので、1分ぐらいお時間いただいて、ここまでの経緯をお伝えしておきたいと思います。
会津さんとは実は数年前に中野の映画の時に、
土本〔典昭〕
さんの映画祭の時に、最首先生のアテンドでぼくも一緒に行って。そこで会津さんと初めてお会いしたんですが、ぼく自身は19歳の時からこの最首塾というところに出入りしてまして、今朝、川本さんと話したのは、2006年にぼくは世話人になっているんですが、そのなかで「闘争と学問」シンポについてずっと関心を持ってきました。
あと、懐かしい思い出を言えば、やっぱり晩年の
西村〔秀夫〕
先生ともお会いしてて、最首先生の話に何か違和感があったのか、終わったあとこそこそ話をぼくにしてきたっていうのがすごく今でも印象的で。言わなくていいんでしょうけど、そういった思い出もあります。ぼくにとっても懐かしい先生です。19歳ぐらいでわけのわかんない浪人あがりのぼくを、ずいぶん目にかけてくれたという意識があります。ということもあって「闘争と学問」には関心があります。
あと、この間経緯でいうと、このシンポジウム「学問にとって未来とは何か」というのを地震の直後に、6か月の沈黙のあとに、これ17日なんですけれども、やりました☆★。これ実を言うと裏ではですね、これは川本さんの提案だったと思うんですが、「廃墟の中での自己形成」っていうのを裏テーマにしていて。まさに「3.11は廃墟だ」っていうところで。そのあとどう学問っていうものをたてるかっていうことをけっこう真摯に悩んでやったんですね。その時の登壇者としても、若いのは当時30代のこの二人なんですけど、あとはみなさん、今日川本さんはいらっしゃいます、最首さんもいらっしゃいますけど、こういった面子でやってて。この時も「闘争と学問」っていうことを裏テーマにしていたっていう経緯があって、気になってるっていうこともあります。
あとは先週、先ほど立岩さんからお話がありましたけど、最首さんへのインタビュー同席しまして。やっぱり聞いていてまだわかんないことが多かったので、聞いてみたいということもあります。
うかがいたいことっていっても大して事前にあるわけじゃないですし、質問事項があるわけじゃないんですが、さっき川本さんがちょろっとおっしゃってましたが、やはり会津さんが「闘争と学問」にいらっしゃるまでの経緯のようなことをうかがいたいなと。一つ目はあります。
あとはやはり、「連続シンポの顛末、運営」についてです。これは立岩さんたちのやってらっしゃる生存学研究所のホームページからコピペしただけなんですが、やっぱり西村さんの全面的配慮が大きかったということを折原さんが書かれてます。このへん実際どうだったのか。あと顛末の、壊れた理由っていうか行き詰った理由っていうものも折原さんは書いてるんですが。これちょっと事前にお渡ししてないので何とも言えないとこあるかもしれませんが、会津さんから見て顛末はどうであったのか、あと運営面がどうであったのかですね。
先週最首さんのお話聞いても、やはり最首さんは教員側としての出席でしたので、必ずしも運営面にお詳しいわけじゃないのかなと。とうぜんな話ですが。逆に会津さんから見た当時はどうであったのかということをお話いただければ。これが二点目です。
三点目として、出会った人、行き交った人です。
八木下浩一
さんのことをちょっとここではあげてます。ここではですね、
増田〔洋介〕
さんというかたの論文、学会発表報告なんですが、「西村先生から声かけられた」とあります☆。事実として何かあるんでしょうけど、実際会津さんから見てどういう人間模様になっていたのかということですね。
☆ ★
そういったことの三点ですね。会津さんについて、運営・顛末について、また、出会った、行き交った人の三点セットをメインにして、せっかく「闘争と学問」出席者がほかに二人いますので、その二人の話も記憶も交えてシナジー効果でいろいろとおもしろい話が聞けたらと思っております。
じゃあ会津さん、ここまでいかがですか? 何か確認しておきたいこととかございましたら。[01:15:07]
会津:とくにはありません。自己紹介というとどっちかっちゅうと、近況を申し上げたほうがいいかと、おまえ何してるんだっていうことで。
いちおう肩書は多摩大学情報社会学研究所という大学付属の専任三人で、所長が公文俊平87歳。
川本:え! まだ生きて?
会津:生きてる。どころか元気で、最近とくに生き返ってきて。肝臓がんが重粒子療法で消えたり。コロナになってから外に出なくよくなって、Zoomで議論できるようになって、前半はそうでもなくていろいろあったんですけど、ここんとこはほぼ毎週Zoomの会議に2時間ぶっとおしで出たり。こないだはちょっと疲れて途中で横になってながら聞いてましたけど。ところが、発表したりですね、極端にいうと超現役です。ふつうに給料もらって稼いで。ぼくが二人目で70歳で、三人目が山内という、これ元東大ですけど65。この三人、つまり高齢者しかいない研究所。アンド、客員の中に脊椎損傷やって歩けない身体障害者。ただし彼は、中途で事故に遭ってるんで、腕を持ってる。自分で電動スクーターを作っちゃった。私がずいぶんけしかけたんだけど倉本さんという重度の障害者。と、もう一人はこないだまで目が見えてたプログラマーなんだけど、網膜剥離その他で緑内障で見えなくなって。二級かな、白杖ついてる視覚障害者。で、三人目がまだ30ちょっとで若いんだけど、ぼくの助手をやってるのは発達障害・コミュ障、教授とうまくいかなくなってアカハラで途中でくびになって、で、ぼくが拾ってですね。今非常に楽しくやってます(笑)。
ということで、高齢者と障害者しかいない研究所と言ってもいいぐらいで。逆に言うと、世の中こんだけ高齢者と障害者がいるのに、「じゃあどうするの?」ってことを言ってる人たちはみんなそうじゃない人。つまり当事者性が排除されてると。霞が関もそうですし、シンクタンクもそうだし、立命館もそうだと思うんですけど。ダイバーシティーとか言ってるのはぜんぜんダイバーシティーではない人たちで。そういうことが一つあります、問題意識として。
で、ずっとここ2、30年ぐらい、めし食ってるののほとんどはNTT(エヌティーティー)です。それは彼らに、インターネットやんなきゃだめだっていう、公文が若干ぼくより先にタッチの差で気がついて。一緒に当時の92、3、4年、経って、今実はそこオーラルヒストリーをやろうとしてるんですけど、なぜNTTが、電話会社のあの図体の重いところにもかかわらず世界の電話会社の中で真っ先にインターネットやろうとしたのかと。当時手引きしたのは澤田純って、今の会長です。こないだ接待会社問題でえらい目にあった。社長の時に。ぼくは彼とカウンターパートで、二人は若いんだけど、当時彼が社長秘書にいた時に「やんなきゃだめだ」って。最初は抵抗してたんですど、「会津さん、ぜひうちの社長のとこに公文先生と一緒に来てくれ」と。当時は国際大学GLOCOM(グローコム)ってとこにいたんですけど、途中でぼくが先に出て、公文も半分追われて、実は。何ていうかクーデターに遭って。それで出て、多摩大ってとこに拾われて。ただし、ぜんぶ自分たちで稼いでるイコールNTTからの稼ぎがほとんどです。だからいまだに公文先生も給料もらって保険払ってます。たぶん大学の中で現役で所長やってるっていう人は85歳以上はめったにいないと思います。だけど、去年も実はその澤田さん...澤田さんとしかもおととしから直に仕事をするようになって、一つは今申し上げた「情報社会ってどうやってできてきたのか」という。
これ連続シンポとか何とかいうと5、60前の話なんですけど、30年前ぐらいからインターネットの議論始めたわけね。その前にパソコン通信ってのがあって。だからその前に、たとえば新左翼とかいろいろ社会改革運動っていうのはパソコン通信が一部つながります。ぼくらかなりそういうつもりでやって。インターネットもそうなんですけど。で、結果的にはだいたい思ってるものと違うことになるんですけど。[00:19:56]
いずれにしても、情報社会っていうのがどうやってできてきたのかっていうのがわりとぼくの大きな問題意識だったんですけど。自分もかなり当事者なんで。たとえばNTTの社長にプレゼンしたり、児島さんに、常務会行って「こうしろ」と言ったりというようなことはかなり直接やってて、いちおうその記録も作りかけています。世界的にも日本の中でも非常にいろんな人たちが関わってきて、そのプロセスもずーっと今日にいたるまであるし。これ文字起こしどうするかちょっとあとで相談だけど、最近は澤田社長が、接待会食問題で内部告発もたぶん、内部告発っていうか派閥争いかよくわからないんだけど。完全にだって、レストランの領収書とかが外出たわけですから、文春とこまで。接待されてた側もぼくの仲良し何人もいます。あれふつうにどこの会社でもやってたことです、通信業界では。ほぼあたりまえのように。だからちくられたんですけど、その後ネットでさんざんやられたわけですね。
だからもう2年近く前にやられてて、その最中に、いったいインターネットってのは世の中を良くするのか? と。「民主主義に役に立つ」の逆じゃないかと。トランプを見てもそうだし、Twitter(ツイッター)もそうだし、世界の分断は激化して。というふうに彼は思って。しかもさんざん攻撃されたんです。だいたい名誉棄損とか、自分がやられてみて初めてわかるんですね。しかも一生懸命次世代っていうか、次のインターネットみたいなものを作ろうとして彼は懸命になってて、でもうちの技術者は社会的なことまったくわかってなくて、技術だけ作って世の中出しても結果的にその民主主義を破壊して独裁者に役に立つような技術をわれわれやっててほんとにいいんだろうかと。「そういう意味で、情報社会ってどこへ行くのか。公文先生、教えてください」って言いだしたんです。「情報分断」というキーワードで。
ぼくらもコロナの時のインフォデミックとかで、べつにNTTとは関係なく世界的にやっぱインターネットっていうのはどうも必ずしも人を幸せにはしないと。じゃあどうすりゃいいんだっていう。じゃあファクトチェックすればいいのか、フェイクニュース潰せばいいのか、人間のリテラシーを上げるべきなのか、フィルタリング技術とかAIを使うのがいいのか、もうさまざまな議論があるわけですけども、そしたら公文がとつぜんですね、宿題を出されたのね。かなり直接。「情報均衡」って言いだしたんですよ。Equilibrium(エクイリビリウム)っていうやつで、経済学で需要と供給って均衡するでしょと。つまり、神の見えざる手があることになって資本主義って成り立ってると。で、それは不思議なことに成り立ってると。ただしよく見ると、不況があったりすると、そのあとでIMFができたりとか、たとえばマーケットメカニズムにはガバナンスの仕組みができて「ルールを守らないと排除される」っていうふうに、実は人間の制度・知恵とルール等々によって資本主義って成り立って、需要と供給の均衡が成り立ってるらしい。ということが、経済学の基本、あるいは資本主義社会の原理とされてる。
じゃあ軍事の世界でも、国際政治、軍事の世界でも、世界大戦三回目がまだ起きてないうちに、国際連盟とか国際連合とか核拡散防止条約とかさまざまな道具をつくって、社会制度をつくって、なんとか暴発を防いできたと。で、軍事の均衡、やっぱり軍事力の均衡、こっちはバランシングっていうほうが強いんですけど、とすると情報社会にも情報均衡ってことがあるんじゃないかって言いだしたわけです。去年。
やっぱそれすごいねって。軍事はぼくと山内が足したんですけど、まだちゃんとした論文にも本にもなってなくて。仲間の一人がちょっと使ってますけど。しかし彼はこれを書こうとして途中で引っ込めようとしたんですよ。エビデンスないし、仮説っていうかなんていうか「根拠ないのはあんまり言うのもどうかな」とか言うから、「いや、先生。アダム・スミスだってエビデンスなんてなかったよ」と。そんなのあとから探してくることで、逆にそういう大きな命題を立ててここ掘れわんわんって研究してくのが今の社会科学に足りないんじゃないの? ということで。実はアカデミア、ぼくは基本的にアカデミアじゃないんですけど、アカデミアからいうとたぶんあんまり相手にされません。かなり実証的に積み上げていかなきゃいけないので。ただ、少なくとも問題意識としてはその情報均衡というのをどうやって達成するかっていうので、それをレポートにしてNTTの社長から会長になっちゃったんですけど、そこにNTTはフェイクニュースを見分けるような技術を開発しろという提言がいくつかあるんですけど、出してて。それをまじめに宿題としてやりますという本を去年、ちゃんと澤田は書いてます。
というようなことがあって、現状の問題意識のその一は、この情報社会という怪物をどうやって。軍事ももちろんプーチンみたいな怪物がいるわけですけれども、とうぜんFacebookであったりGoogleであったり楽天であったり、これどうしようかっていうのは今われわれの研究...実際はあんまりしてないんですけど。65過ぎるといろんなとこから声かかりませんから。国の研究会とかね。ぼくももういやなんで。ああいうとこ行ってもほんと。前はよく行ってたんですけど。そういう状況は一つあります。[00:25:18]
だから個人的には、最首さんにも言ったけど、石巻の大川小学校に2012年に遺族につかまってだんだん引き込まれてまして。こないだドキュメンタリー映画ができたの少し協力して、来年たぶん2月から上映。今それと、映画にいろいろ遺族も含めて文句を言う人がいると。「これはわからない」とかとにかく伝わらないところがあるんで。あの日から何万時間、何十人っていう人の何十万っていう時間を2時間に縮めて「あれがない」「これがない」ってあたりまえだろってぼくは言い返してまして。じゃあ本作ろうと言って、今本のプロデュースをしてて。私はあんまり書かないんですけど、遺族であったり、同じ遺族でも裁判した人、しない人、それから裁判の向こう側の弁護士とかいろいろ声掛けて。けっこう、今までだと集まらなそうな人たちも集めて。今まで沈黙してた遺族会の会長とか「しょうがないから書こうかな」みたいなことは言ってて。
その裏にずっとあるのが水俣です。やっぱり水俣の闘争というか、ぼくは斜めに見てたんですけど、「地域の中の分断、それをどうやって乗り越えてくか」みたいなところっていうのと、水俣で少なくとも闘ってきた人たちの知恵みたいなのが、福島とか三陸、石巻に活かされてるかっていうと、ゼロとは言いませんけど1パーミルぐらいかなと。やっぱりなぜそこがうまく伝わらないのかというのは、同時代のなかでも横にうまく伝わらないのと、それからやっぱりその通時的にというか、歴史的にうまく継承されてないっていうような問題があるんじゃないかって。このへんはたぶんみなさんのお考えになってることにもかなり関わることかなあと思って。わりと【しょのひの】(00:27:22)人たちに水俣の話直接してもあんまりなんだけど、でもそういうあれがある。
で、今度書くかどうか、みなさんたぶん知らないと思うけど、石原明子☆★という熊大の研究者、聞いたことありますか? 紛争解決学やってる。彼女のだんなが、こないだ死んじゃった長純一。石巻にずっと震災後行ってて。ぼくはだんなに会ったことがないんです。石原さんのほうはわりとよく知ってて、今その本で今日催促「早く書けよ」というのを出したばっかりで。
彼女は紛争解決学、いかにして対立してる人たちをうまく、「もやい直し」とか水俣あったと思いますけど、いうのができないかということで。ぼくも石巻ではそうとう激しくぶつかってきた人たちの両方が共通のものが持てるためにはどうしたらいいかとかっていうのがメインテーマで。「よそ者帰れ」とかいろいろ言われてんです。だいたい月に1回平均は行ってます。たぶん、ここ数年でよそ者でいちばん行ってると思います、ぼくが。ただね、あんまりろくなことしてません。支援とかって、だって向うのほうが力あんのにこっちが支援するなんておこがましいからできるわけないじゃんっていうんで、おいしいもの食べて楽しいお話して。最首さんが学術調査と称して飲んでたのと似たような。患者さんとこ行って飲んでたわけでしょ? ぼくも遺族やその周りの人集めてけっこう飲みまくったりというようなことをしてます。
丹波:石原明子さんは駿台の最首先生の教え子のはずですね。
会津:かもしれない。
丹波:たしか本人が「だから私は」って言ってた記憶がありますね。そんだけです。
会津:そうそうそう、あったあった。
川本:かつ、明子さんは国際基督教大学卒業して科学哲学ちょっとやって、京都大の大学院行くんだけど、ぼくはその京大の倫理学の集中講義のとき明子さんが院生で聞いてたんだよね。
丹波:けっこうここ、どろどろにくっついてる人です。
会津:じゃあそうすると、川本さんは林衛☆★なんて知ってる? 【富山】(00:29:33)大。【新潟水俣】(00:29:33)とかやってるけど。
丹波:ぼくは知ってます。林先生、告発関係でたまに会います。
会津:一緒に研究会始めたんだけど、途中でわけのわかんないこと言いだして。ぼくに「謝罪しろ」とか言ってきたり、いろいろあったんですけど。謝罪もしたけど、基本的に彼と仕事はしません。
川本:知らないな、幸いにも。
会津:うちの兄貴とはよく顔を合わせてる。[00:30:07]
もう一つは、「スナックあいこ」って聞いたことあります? 毎週Zoomでオンライン会議をやってるんです。こないだで118回。バンコクにいる秋山愛子☆★っていう人が音頭とってんですけど、この118回に長瀬さんと崔さんが入ってた。立岩さんはわかる? 障害者の国際権利条約の話です。長瀬さんはたしか立岩さんの研究のメンバーでしょ。
立岩:そうです。秋山さん存じ上げています。
会津:秋山さんはぼくはバンコクで会ったんですけど、ESCAP(エスキャップ)の社会政策、障害者条約とかやってるんです。毎週水曜日に「スナックあいこ」と称して、さまざまなテーマで、たとえばこの権利条約であったり、難病の問題であったり、ぼくもしゃべった大川小とかってのを2時間ぐらいわいわいがやがややってまして。そこでけっこういろいろ、障害者がらみのことっていうのは話してます。今回青い芝の話とか出てたので、そういうところも含めてありますと。
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