1. 室原知幸と古書店
私の本棚に室原知幸著『下筌ダム―蜂之巣城騒動日記』(学風社、昭和31年)がある。この新書版の本を手に取ると、熊本市内の古書店のマークが貼ってある。もうかなり以前のことだが、佐賀市内のある古書店を訪れたことがあった。そのとき「何をお探しですか」と尋ねられた。「河川やダムの本ですが」と答えた。店主は「ダムの本はあったのですがね、下筌ダム闘争のころ、室原知幸さんから、何でもいいからダムや河川の本をすぐ送れと連絡があり、数箱段ボールで送ったことがありました」と話された。
昭和28年6月、梅雨前線による豪雨は筑後川流域に大水害をもたらした。建設省は水害を防ぐため筑後川上流域に下筌ダム、松原ダムの建設を始めたが、熊本県小国町の山林地主であった室原知幸はその建設の是非について、国家と対峙するために、これらの古書から河川理論を学んだのであろう。
室原知幸が収集した書は、今では関西大学図書館室原文庫に収蔵されている。
2. 下筌ダム、松原ダム建設の反対
水害を防ぐために筑後川上流にダムをつくる計画は、大山川水系では久世畑、松原、梁瀬、下筌、二俣の5地点が候補にあがった。梁瀬と二俣地点は地質的に阿蘇溶岩であったことから失格となり、最終的には大山村の久世畑地点も選ばれなかった。下筌、松原ダムの2つのダムの組み合わせによって二段式のダムが決定された。久世畑地点には、今でもダム地質調査による横坑試験調査の跡が残っている。
当初、久世畑地点が候補地に上がったとき、大山村は役場、小中学校、農協、駐在所、商店街などの中心地が水没することから、昭和28年10月26日に村民大会において、村の存続が不可能になるとして、久世畑のダム建設絶対反対を決議し、ムシロ旗を掲げて反対行動を行った。
昭和32年、ダム建設は下筌、松原地点に決定された。大山村は、昭和33年4月29日の村民大会において、松原ダム建設について条件闘争へ展開することを決議した。この久世畑地点から下筌、松原地点へのダム建設の変更に関し、後に室原知事は建設省に対し、久世畑地点の地質調査の結果を明らかにするように問うている。
昭和32年8月17日、初めて九州地方建設局日田工事事務所主催のダム建設の説明会が、熊本県小国町志屋小学校において行われた。この説明会は、筑後川の水害を防ぐための下筌ダム、松原ダム建設の必要性だけを説き、水没者の最も切実な生活再建に係わる話は一言もなかったとして、水没者から激しい反発を受けた。同年、室原知幸らは「建設省職員とその関係者面会お断り」の木札を戸口にかけ、事実上、小国町志屋地区民のダム建設の反対行動が始まった。
3. 下筌ダム、松原ダム建設の経過
昭和32年、建設省は、大水害を防ぐために筑後川水系治水基本計画を策定した。この基本計画は、洪水調節計画と河川改修計画からなる。基準地点長谷(大分県日田市)における基本高水流量を8,500m3/sとし、上流ダムで2,500m3/sを調節して、河道配分流量を6,000m3/sにするものである。上流ダムとして筑後川左支川津江川に下筌ダム、同大山川に松原ダムの建設を着工し、昭和44年3月に下筌ダム、45年12月には松原ダムが完成した。
昭和32年から45年までの13年間、下筌ダム地点に蜂の巣城の砦を築き、このダム建設に対し、公共事業の是非を問い続け、公権と私権に係わる法的論争を挑み、国家に拮抗した室原知幸の闘いはあまりにも有名である。
この蜂の巣城紛争について、下筌・松原ダム問題研究会編『公共事業と基本的人権』(帝国地方行政学会、昭和47年)の資料編を参考として、主なる事件を追ってみた。
昭和33年4月 松原ダム調査事務所開設(野島虎治初代所長)
8月 小国町志屋地区志屋小学校で絶対反対決議
4月 立木伐採開始
5月 蜂の巣城構築始まる
35年1月 室原知幸、事業認定の意見書15項目提出
2月 河川予定地制限令の適用区域告示
4月 事業認定告示
5月 室原知幸、事業認定無効確認の行政訴訟を提訴
6月 熊本県知事、試掘許可
九地建代執行 水中乱闘事件
7月 室原知幸公務執行妨害で逮捕
38年9月 事業認定無効の確認訴訟をしりぞける
東京高裁に控訴
その後北里達之助ら室原知幸と袂を分かつ
39年1月 小国町議会、ダム条件賛成を決議
6月 九地建代執行 蜂の巣城落城
12月 事業認定無効確認請求訴訟休止満了
室原知幸、敗訴確定
40年1月 蓬来地区集団移転地造成工事竣工
2月 松原下筌ダム工事事務所(第2代所長副島健赴任)
5月 下筌ダム本体工事着工
6月 第二次蜂の巣城代執行
41年3月 松原ダム本体工事着工
44年8月 下筌ダム本体工事完工
45年6月 室原知幸死去
9月 九地建、遺族へ和解申し入れ
10月 円満和解解決
3月 下筌ダム試験湛水完了
4. 用地担当者の苦闘と信念
このようにみてくると、下筌ダム、松原ダムの補償交渉は、当時、全国から注目されており、用地担当者の苦闘は絶えなかった。九用会編・発行『脈うつ九用群像』(平成19年)の中から、その交渉状況を追ってみたい。
○しろまるほろ苦い思い出―石原 肇
なんと言っても昭和35年6月に起こった下筌ダム反対派との水中乱闘事件です。その頃建設省の土地収用法の適用に対して、反対派は「法には法、暴には暴」のスローガンを掲げ、ダムサイトに蜂の巣城と呼ばれる砦を築いておりました。起業者にとってはその地点が、ダム建設のウィークポイントであったため、津江川を渡って蜂の巣城の撤去に踏みきった訳ですが、反対派の物理的抵抗は熾烈を極め、ついに水中乱闘事件へと発展していったものであります。私も前線部隊の一兵卒として機動隊が見守る中、撤去作業に参加しましたが、反対派の老若男女からバケツの水を浴びせられるやら、竹竿や糞尿が飛び交う等それはもう大変でした。
○しろまる至難のこと―冨多幾万
昭和33年任官、初の配転は「収用の勉強をして来い」と松原・下筌ダムへ。着任のとき、末吉課長(元北九州市長)の迎えを日田駅にて受けたことをよく覚えている。「梅栗つくってハワイへ行こう!」あの一村一品運動の発祥の地、大山村に事務所はあった。寮もここにある。ダムサイト周辺では、立ち入りに備える蜂の巣城の構築が進み、周辺には厳しい空気が張りつめていた。昭和35年、蜂の巣城への立ち入り調査では黄金水をかぶる。慌ただしい一年有余の勤務であった。此処での様々な出合と室原知幸という人を間近に視たことが後の用地人生に大きな影響を受けた。反骨の精神、住む人々の生活防衛、一時のお金が何をもたらすか。人にはお金には替えられない、その地での生活や歴史や文化があり、簡単には変えられない律儀さと不器用さがある。地域の人々が代々に亘って築き上げ、生活を営んできたその場所から立ち退きを求め、土地を譲ってもらう、至難のこと。結局は日夜足を運び、当方の心を買ってもらう誠しかない。
○しろまる行政代執行―遠入 修
私が参加したのは、当時の河川部長の板梨さん、事務副所長の岩井さんを先頭に蜂の巣城の裏側より進入しました。反対派の人達は前面よりの進入に注目していたため、私共の裏面よりの進入は割と抵抗なく、バリケード付近で私共の行動を察知して慌てて進入を阻止した程度で進入の目的を完了し、蜂の巣城の上部より各建物の解体作業に着手することができました。又私は当班の伝令を担当しておりましたので、本部と情報交信を行い、何とか目的を達成することができました。
3人の用地担当者は行政代執行のときの体験を語っている。業務とは言え、黄金の水をかぶせられたのは下筌ダムの担当者が初めてであっただろう。
5. 補償の精神
下筌ダム(堤高98m、総貯水容量5,930万m3)、松原ダム(堤高83m、総貯水容量5,460万m3)の建設を語るときは、どうしても肥後もっこすの室原知幸の人間性がクローズアップされるが、室原と対峙せざるを得なかった用地担当者は苦難の日々であった。しかしながら、これらの苦難の道を支えた補償の精神を考えると、そこには筑後川の水害を防ぎ、筑後川流域の人々の生命と財産を守るという強い信念があった。用地担当者が、国土建設の一端を担うという精神が強く働いていたからであろう。
一方、ダム技術者は、阿蘇火山系の難しい地質条件であったが、近代的なダム造りには新しい技術をもって設計、施工に当たり、大変な苦心と創意工夫がなされた。さらに、湛水に当たっても同様に技術力が要求され、地すべり対策等に係わる技術も以後のダム造りに大いに貢献した。
6. おわりに
下筌ダム、松原ダムの昭和48年完成以来、今日(平成20年)で35年を迎えた。昭和48年〜平成15年までの洪水調節をみてみると、下筌ダム93回、松原ダムは47回に及び、両ダムの完成後は大きな水害は起こっていない。特に平成3年、5年の台風では、下流域への風倒木の被害を防いだ。
一方、この間、松原ダム選択取水設備、松原ダム新規放流設備(水道用水のため)、松原ダム小水力発電設備におけるダム再開発事業が行われた。現在、ダム樹林帯整備事業が進捗している。