2012年05月04日
こんなもん、ただ拗ねてるだけじゃんって言う話。でも俺的には悔しくて寂しい話。
自分たちがやってきたことが評価されていなかった、さらに気にも留められていなかったということは世の中にではよくあることなのかもしれません。
「いいもの」を作る為に、多ジャンルの専門家が集まって「一つのもの」を作る。
そしてそれを見る人がいる。
理想かもしれないけど、その見る人に対して最高のパフォーマンスを発揮することが正しい姿勢だと僕は思っている。
でも、それをする為には利権や権威的なものがあって、それがあって「一つのもの」を作るということの発進点になることは仕方のないことなのかもしれない。
そうじゃないと予算というどうしようもないものを工面できないのかもしれないし、それがなければその下に集まる専門家は「仕事」にならない。
「仕事」というものが単なる消化義務ではないと自負する人は専門家たる由縁(コンテクスト)を少なからずもっている(はず)だし、与えられた役割に従事する限りはその力でできることを最大限やろうと務めるのが理想だ。
しかし、その意図は「見てる人」には関係ない。
だって、出来上がったものが全ての結果であって、「一つのもの」だからだ。
その背景にこんな人たちがいて、こんなことをやっているのかーとか考えるのはよっぽど変った人なのだろう(でも僕はあなたのこと大好きです)。
だから、そんなこと言わずともして、「一つのもの」をすごく良いものにできて、それがこの人たちのクオリティであり、ステータスなのだという風に発信するのはほんとにかっこいいことだ。
それぞれが「仕事」に真摯に取り組み出来上がったものこそ、最高の「一つのもの」に成り得るのであって、それができるように取り組み続けることが専門家のプライドを育むものなのだと僕は思っていた。
しかし、現実は違うようだ。
これまで取り組んでいたことは、良いものを作る為に一端を担っていたのではなかった。
そう思ってしていたことは周囲の専門家にすら関係のないものだったということもある。
一つのものを作ろうとする専門家達はお互いに尊敬と敬意を以て然るべきものなはずなのだが、大流を担う専門家には末端の取り組む姿勢が届かないことだってあるのだ。
いつも顔を合わせてコミュニケーションをとっている人達でさえ実はそうかもしれない。
その結果、変なところで線を引かれてしまうということは末端のものにとってショックである。
相応の理由があってのことなら仕方ないなとも思えるだろうが、上記のような「いいものを作る」為のスタンスを蔑にしたようなものであった場合、末端は落胆する他ない。
このクオリティで良いものと言えるのか?自分たちの評価はこんなものだったのか?
今までしてきたことは意味が無かったのか?
こんな逡巡に苛まれることになる。
僕は作家として、これまでいろいろな人と共作展示をしてきた。
2人で、あるいはもっと多数の作家さんと共作をするにあたって、どうしたら良いものになるかを話し合い、賛同と争論を交わすことによって「ひとつのもの」を作るプロセスとしてきたと思っている。
その全てが「見る人」からして見れば、果たして成功と見たかどうかは趣味趣向によるものもあるので千差万別だと思う。
しかし、それでも多くの見る人を唸らせるものは総じてクオリティの高いもの(アートの場合は違う要素も含まれるみたい)であるはずで、それを目指して各々の作品を制作する取り組みへと繋がるのである。
そういった作家であればこそ、自らの作品に対しての傾倒は強くなるし、共作をする場合はより作品を良く見せる為の雰囲気を作り上げることに激論を交わすことになるのは必然とも思える。(そもそも共作展示をするということはお互いの作品に好奇心を持っている為、ある意味での妥協をしても一緒にやろうとするベクトルは結構変わらなかったりする)
それが多数になればなるほど、相談をする量は増えるし、それぞれが求めていた水準からは妥協や我慢をせざるを得ない状況はまま起こることでもある。
僕はそれをapARTmentをする毎に強く感じていたが、それでもみんなから、次回はこうしよう、こうしたらどうか等の意見を聞くと嬉しくなる。
それは前より良いものを作ろうとする為の姿勢として大事なもので、それを汲み取って、一端を任せるということが作家固有のプライドを育むものであると思っている。
だが、これは作品売買を主とするアーティストに限定する話とは思わない。
ギャラリーで入場料は取らないし、作品を制作することは仕事になるとは限らない。
あくまで作品制作を続けて自らのプライドを磨き続けた結果が、販売に繋がったりギャラリーのお抱えになったり、オークションで高値がついたり(高値ついても作家には入らないけど)、最終的には美術館に展示されて入場料を取るようなことになるのだ(それも作家に還元されるとは限らないけれど)。
世界の流通の根源、「お金」を対価とするものを作る為にはそれ相応のクオリティが求められて当然なはずだ。
そして、その為には閃きと技術的なクオリティと相まって、上記のような作り上げる為の集団を対象とした想像力と人間性も問われるはずだ。
それを考えていなかったら良いものというのは作れないのではないだろうか。
こういうことを考えてしまうのは、僕がまだ若いということなのだろうか。
じゃあ「言ったって仕方ないじゃん、そういうもんだから」と言い切れる人は大人なのか?
僕は今、すごく不毛な日々が続いている。
自分がしてきたことについて逡巡をしながらも、明日の為に爪を整え、残された期間のやるべきことに全力で取り組むつもりだ。
たとえそれが、誰の目にも映らないとしても、それが僕の仕事へのプライドだからだ。
「いいもの」を作る為に、多ジャンルの専門家が集まって「一つのもの」を作る。
そしてそれを見る人がいる。
理想かもしれないけど、その見る人に対して最高のパフォーマンスを発揮することが正しい姿勢だと僕は思っている。
でも、それをする為には利権や権威的なものがあって、それがあって「一つのもの」を作るということの発進点になることは仕方のないことなのかもしれない。
そうじゃないと予算というどうしようもないものを工面できないのかもしれないし、それがなければその下に集まる専門家は「仕事」にならない。
「仕事」というものが単なる消化義務ではないと自負する人は専門家たる由縁(コンテクスト)を少なからずもっている(はず)だし、与えられた役割に従事する限りはその力でできることを最大限やろうと務めるのが理想だ。
しかし、その意図は「見てる人」には関係ない。
だって、出来上がったものが全ての結果であって、「一つのもの」だからだ。
その背景にこんな人たちがいて、こんなことをやっているのかーとか考えるのはよっぽど変った人なのだろう(でも僕はあなたのこと大好きです)。
だから、そんなこと言わずともして、「一つのもの」をすごく良いものにできて、それがこの人たちのクオリティであり、ステータスなのだという風に発信するのはほんとにかっこいいことだ。
それぞれが「仕事」に真摯に取り組み出来上がったものこそ、最高の「一つのもの」に成り得るのであって、それができるように取り組み続けることが専門家のプライドを育むものなのだと僕は思っていた。
しかし、現実は違うようだ。
これまで取り組んでいたことは、良いものを作る為に一端を担っていたのではなかった。
そう思ってしていたことは周囲の専門家にすら関係のないものだったということもある。
一つのものを作ろうとする専門家達はお互いに尊敬と敬意を以て然るべきものなはずなのだが、大流を担う専門家には末端の取り組む姿勢が届かないことだってあるのだ。
いつも顔を合わせてコミュニケーションをとっている人達でさえ実はそうかもしれない。
その結果、変なところで線を引かれてしまうということは末端のものにとってショックである。
相応の理由があってのことなら仕方ないなとも思えるだろうが、上記のような「いいものを作る」為のスタンスを蔑にしたようなものであった場合、末端は落胆する他ない。
このクオリティで良いものと言えるのか?自分たちの評価はこんなものだったのか?
今までしてきたことは意味が無かったのか?
こんな逡巡に苛まれることになる。
僕は作家として、これまでいろいろな人と共作展示をしてきた。
2人で、あるいはもっと多数の作家さんと共作をするにあたって、どうしたら良いものになるかを話し合い、賛同と争論を交わすことによって「ひとつのもの」を作るプロセスとしてきたと思っている。
その全てが「見る人」からして見れば、果たして成功と見たかどうかは趣味趣向によるものもあるので千差万別だと思う。
しかし、それでも多くの見る人を唸らせるものは総じてクオリティの高いもの(アートの場合は違う要素も含まれるみたい)であるはずで、それを目指して各々の作品を制作する取り組みへと繋がるのである。
そういった作家であればこそ、自らの作品に対しての傾倒は強くなるし、共作をする場合はより作品を良く見せる為の雰囲気を作り上げることに激論を交わすことになるのは必然とも思える。(そもそも共作展示をするということはお互いの作品に好奇心を持っている為、ある意味での妥協をしても一緒にやろうとするベクトルは結構変わらなかったりする)
それが多数になればなるほど、相談をする量は増えるし、それぞれが求めていた水準からは妥協や我慢をせざるを得ない状況はまま起こることでもある。
僕はそれをapARTmentをする毎に強く感じていたが、それでもみんなから、次回はこうしよう、こうしたらどうか等の意見を聞くと嬉しくなる。
それは前より良いものを作ろうとする為の姿勢として大事なもので、それを汲み取って、一端を任せるということが作家固有のプライドを育むものであると思っている。
だが、これは作品売買を主とするアーティストに限定する話とは思わない。
ギャラリーで入場料は取らないし、作品を制作することは仕事になるとは限らない。
あくまで作品制作を続けて自らのプライドを磨き続けた結果が、販売に繋がったりギャラリーのお抱えになったり、オークションで高値がついたり(高値ついても作家には入らないけど)、最終的には美術館に展示されて入場料を取るようなことになるのだ(それも作家に還元されるとは限らないけれど)。
世界の流通の根源、「お金」を対価とするものを作る為にはそれ相応のクオリティが求められて当然なはずだ。
そして、その為には閃きと技術的なクオリティと相まって、上記のような作り上げる為の集団を対象とした想像力と人間性も問われるはずだ。
それを考えていなかったら良いものというのは作れないのではないだろうか。
こういうことを考えてしまうのは、僕がまだ若いということなのだろうか。
じゃあ「言ったって仕方ないじゃん、そういうもんだから」と言い切れる人は大人なのか?
僕は今、すごく不毛な日々が続いている。
自分がしてきたことについて逡巡をしながらも、明日の為に爪を整え、残された期間のやるべきことに全力で取り組むつもりだ。
たとえそれが、誰の目にも映らないとしても、それが僕の仕事へのプライドだからだ。
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