「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告及び東電報告」批判 山田耕作・渡辺悦司

2020年05月



「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告及び東電報告」批判

山田耕作、渡辺悦司
2020年5月20日



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「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告及び東電報告」批判 山田耕作・渡辺悦司(pdf,27ページ,6573KB)


第1章 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告書
2020 年2 月10 日
多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会(以下小委員会と略す)

以下、枠内は小委員会報告書からの引用である。

はじめに
注.ALPS はトリチウム以外の62 種類の放射性物質を告示濃度未満まで浄化する能力を有しているが、処理を開始した当初は、敷地境界における追加の被ばく線量を下げることを重視したことなどにより、タンクに保管されているALPS 処理水の約7 割には、トリチウム以外の放射性物質が環境中へ放出する際の基準(告示濃度限度比総和 1未満)を超えて含まれている。ALPS 小委員会では、こうした十分に処理されていない水について、環境中に放出される場合には、希釈を行う前にトリチウム以外の放射性物質が告示濃度比総和1 未満になるまで確実に浄化処理(2 次処理)を行うことを前提にALPS 処理水の取扱いについて検討を行った(詳細はP13 参照)。p3
ALPS処理水の約7割にはトリチウム以外の放射性物質が環境に放出する際の基準を超えて含まれている。ALPS処理水を少なくとも放出基準以下に処理してから汚染水の処理・保管の議論を行うのが本来のあり方である。ストロンチウム90が基準値の約2万倍の約60万Bq/L含まれているなど、危険な放射性物質が多量に含まれている。処理できるものをきちんと処理してから、トリチウムのみを含む汚染水を保管すべきである。

1.検討の経緯
説明・公聴会は、2018 年8 月30 日に福島県富岡町、同31 日に福島県郡山市、東京都千代田区で行われ、44 名の方から会場で意見をお伺いした。また、書面での意見募集も併せて実施し、135 名の方から意見をお伺いした。意見としては、主に、タンクに保管されているALPS処理水の安全性についての不安、風評被害が懸念されるため海洋放出に反対など、ALPS処理水の処分に関して、様々な懸念点をいただいた。
その後のALPS 小委員会では、この説明・公聴会でいただいた論点(以下「説明・公聴会でいただいた論点と議論の経緯」参照)について、科学的な観点における事実関係の確認を行いつつ、順次、議論を行った。p8
説明・公聴会において、44名の会場での意見のうち、条件付き賛成も含め2名が海洋投棄に賛成し、圧倒的多数が反対した。小委員会はALPS処理水の海洋放出が安全であることを説明できなかった。とくにICRPの内部被曝評価が現実の局所的被曝を臓器全体や全身で平均して被曝量を評価している誤りが指摘された。小委員会は西尾正道氏等の上記批判に対しICRPの評価の正当性を証明できなかった。

2.ALPS 処理水に係る現状の整理
ALPS 処理水、また、ALPS での浄化処理を待っているストロンチウム処理水の量は、2019 年10 月31 日時点で、合計約117 万m3となっており、トリチウムの量、濃度はそれぞれ、約856 兆ベクレル(Bq)、平均約73 万Bq/Lとなっている。p11
これまで原発から排出されたトリチウムの放出量に比べても大量である(事故前の日本の全原発による年間総放出量0.38PBqの約2.3年分)。これまでの原発からのトリチウム放出量で玄海原発、泊原発で白血病、がんが増加している。それ故、今回のトリチウム汚染水の海洋投棄でこれらの原発と同様の被曝被害の可能性が否定できない。
しかも、この2019年10月31日時点での東電による貯留トリチウムの総量の推計(0.86PBq)には、大きな疑問が残る。今までおよそ1PBqとされていた放出予定トリチウム総量は、今回0.86PBqに減らされた。だが、2014年3月25日時点での東電推計(表1-1)では、事故原発内全残存量の推計は3.4PBqであった。注記(とくに注6)を文字通りに読めば、これは全て事故原発内に現実に貯留しているトリチウム量である。すなわち、2019年の該当日付でトリチウムの半減期を考慮して計算するとおよそ2.5PBqである。つまり、現在公表されている0.86PBqに加えて、さらに最大1.64PBqが、今後の廃炉作業などにより海洋放出されるトリチウム量に加わる可能性があるということなのである。東電は、放出される可能性のある具体的な数字を発表する必要がある。

表1-1

出典:経済産業省「トリチウムの物性について」
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/tritium_tusk/pdf/160603_02.pdf

具体的には、大容量の地上タンクについて、現在設置している標準タンクと比較して面積当たりの容量効率は大差なく、保管容量が大きく増えないにもかかわらず、設置や漏えい検査等に要する期間が長期化するとともに、万が一、破損した場合の漏えい量が膨大になるという課題がある。次に、大容量の地中タンクも、標準タンクと比較して保管容量は大きく増えないにもかかわらず、漏えい量などでも大容量の地上タンクと同様の課題があることに加えて、地下に埋設するため、漏えいの迅速な検知が難しいという課題がある。さらに、洋上タンクは、石油備蓄基地で採用されている大きさでは、福島第一原発港湾内の水深が浅いため設置が困難なことに加えて、津波が発生した場合に漂流物となって沿岸に漂着し被害を及ぼす可能性があり、また、タンク外へ漏えいした場合、漏えい水の回収が困難となるという課題がある。これらのことから、標準タンクと比較して保管容量が大きく増えないため、上記の大型タンク等の福島第一原発への設置を行うメリットはないと考えられる。p11
石油備蓄船は88万立方メートルの汚染水を一隻で貯蔵できる。敷地の問題は解決できるのであるから、十分検討すべきだと思われる。ところが、水深が浅いとか、津波が心配とか、漏洩水の回収が困難などと言って、実現のために努力する姿勢が全くなく、他に手段がないとして海洋投棄に導く議論のようにさえ見える。なぜなら、津波で流出が心配と言いながら、「無害だから」と海洋に投棄する案を妥当とするのは矛盾している。水深を深くするとか、深いところに備蓄船を停留させるとか方法はあるはずである。

また、廃炉・汚染水対策は、継続的なリスク低減活動であり、リスク源となりうる放射性物質を敷地外に持ち出すことは、リスクを広げることになるため、既存の敷地内で廃炉を進めることは基本である。加えて、上記のとおり、タンク保管を継続するための敷地外への放射性廃棄物の持ち出しや敷地の拡大は、保管施設を建設する地元自治体等の理解や放射性廃棄物保管施設としての認可取得が必要であり、実施までに相当な調整と時間を要する。p13
海洋投棄は敷地外へ放射性物質を持ち出すことではないのか。敷地外に持ち出すことができないという前提で議論しながら海洋投棄するのは矛盾している。最も安全な方法を様々な立場から検討しているとき、調整と時間がかかることを理由とするなど小委員会の熱意と誠実さと公平さが疑われる。このようにトリチウムによる被曝の危険性を考慮せず、ひたすら事務的手続きを優先する議論は、国民の生命・健康を守るという責任を放棄するものである。

また、ALPS はトリチウム以外の62 種類の放射性物質について、告示濃度未満まで浄化する能力を有しているが、タンクに保管されているALPS 処理水の約7 割には、2019 年12 月31 日時点でトリチウム以外の放射性物質が環境中へ放出する際の基準(告示濃度限度比総和1 未満)を超えて含まれている。このように現在タンクに貯蔵されているALPS 処理水の約7割は、十分な処理がなされているとは言えず、浄化処理を終えたALPS 処理水とは言えない。 p14
まず、計画どおりにALPSで62種類の放射性物質が取り除かれなかった原因と責任を明らかにすべきである。そしてまず汚染水からトリチウム以外の除去できる放射性物質を取り除くべきである。ALPSの性能に問題はないのか。このままではトリチウム以外の放射性物質も海洋投棄される恐れがある。漏洩などの危険を避け、安全性を確認して保管するためにもまずストロンチウムなどの放射性物質をALPSで徹底的に除去すべきである。

自然界では宇宙線等により地球上で年間約7京(70,000 兆)Bq 程度生成される。水分子を構成する水素として存在するものが多く、大気中の水蒸気、雨水、海水、水道水にも含まれており、日本における降水中のトリチウム量を試算すると、年間約223 兆Bq となる。トリチウムを含む水分子は、通常の水分子と同じ性質を持つため、トリチウムが特定の生物や臓器に濃縮されることはない。p15
次の図にみられるように自然界に存在するトリチウムより、核実験や原発・各施設によるトリチウムの放出が圧倒的に多い。それに対応してトリチウムによる人的被害も増加してきた(図1-1)。

図1-1
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出典:JAEA・原子力百科事典ATOMICA「トリチウムの環境中での挙動」より作成
https://atomica.jaea.go.jp/data/pict/09/09010308/02.gif


出典:経済産業省「トリチウムの物性について」
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/tritium_tusk/pdf/160603_02.pdf

東電が海洋に投棄しようとしているのは856兆ベクレルである。日本近傍で生成されているであろう自然発生のトリチウム量より圧倒的に多い。
「トリチウムを含む水分子は、通常の水分子と同じ性質を持つため、トリチウムが特定の生物や臓器に濃縮されることはない」という上記記述は誤りである。小委員会報告自体が16頁でトリチウム水の5から6%が有機結合型トリチウムに移行することを認めている。
最近の科学的事実ではトリチウムが環境中あるいは生体中で濃縮されることが明確になった。トリチウムは通常の水素の3倍の重さを持ち、結合力、移動速度が通常の水素とは異なる。2000年代以降のイギリス等の海洋の放射性物質の研究によると河口などの砂や泥、有機物質を介して自然界で濃縮されることがわかった。
ティム・ディアジョーンズ論文「計画されている福島事故原発からのトリチウム水放出」(海流に乗るトリチウム汚染水 ティム・ディア=ジョーンズ 渡辺悦司訳 http://blog.torikaesu.net/?eid=78 )によると、2002年の研究では、英国の全海域をカバーした環境モニタリングの結果、以下の二点が実証されたことが報告された。①トリチウムに高度に汚染された海域に生息する魚介類のトリチウム濃度は、英国の他の(つまり海水トリチウム濃度の高くない)海域におけるよりも有意に高い。②海底生物と底生魚におけるトリチウムの生物濃縮は、まず最初に、堆積物中に生息する微生物および海底に生息する小型動物が有機トリチウムを摂取し続けて生物内にトリチウムが移行することを介して生じている。
これに関連して観測されたのは、草食の生物種や外洋性の魚類のトリチウム濃度が、肉食動物と底生魚(海底あるいは海底近くに住む魚)より低かったことであった。この事実によりトリチウムが(有機トリチウムとして)実際に海と沿岸の食物連鎖を通して生物濃縮されていることが立証された。2009年の研究は査読を経て専門誌に掲載され、原子力産業の主張とは真逆のことを実験的に証明した。すなわち、トリチウムは環境中の有機物質に対して親和性があり、海洋環境での有機トリチウムの存在はこの親和性の作用を受けている。放出されたトリチウムは、海洋に放出された「後に」、海洋環境中にすでに存在する有機タンパク物質に対するトリチウムの親和性の結果として、有機物と結合するようになるのである。この研究結果は、海岸線沿いおよび沿岸海域で、海に流れ込む有機物質のレベルを高めるような条件がある場合とりわけ重要となる。つまり、海岸線が侵食されていたり、核物質以外でも廃棄物放出パイプラインがあったり、河口部からの河川の流れ込みがある場合、それらの近傍で海の有機物質濃度が高まるからである。福島の海岸と海流の下流領域(すなわち福島よりも南の太平洋に面した沿岸)には、沿岸海域にこのような有機物の流入源が数多く存在する。
トリチウムの濃縮を研究したターナー論文はその要約でつぎのように述べている。「トリチウムは、環境中にある重要な放射性核種であり、水系中のリガンド[有機物や錯体への結合部位(訳者) ]や固形物との反応性は限定的であると考えられてきた。われわれは、(トリチウム水として添加した)トリチウムが河川水中および海水中でどのように分別され吸着されるかを研究した。その結果、トリチウムの分配が、有機物に対するトリチウ ムの親和性によって影響されていることを発見した。トリチウムは、逆相 C18 カラム[溶 液や懸濁液に含まれる分析対象物とそれ以外とを分離する方法の1つ(訳者) ]に保持さ れた溶存有機物リガンドとの間で急速に平衡に達する。河口の堆積物中の微粒子を水に懸濁させた場合でも、微粒子との間で同じように急速に平衡に達する。重要なことは、吸着トリチウムのかなりの部分がタンパク質様物質と結合しており、堆積物を食用としている生物にとって食用とされる可能性があることであった。トリチウムのこれらの特質は、これまで報告されておらず、水素とトリチウムとの同位体交換によってだけでは説明することができない。トリチウムが主としてトリチウム水として放出されている河口水域および海岸水域におけるトリチウムについては、すでに利用可能な観測データが複数あるが、上記の特質はそれらの測定結果と本質的に合致する。河口部におけるトリチウムの生物地球化学的挙動についてのいっそうの研究が必要であり、この放射線核種(トリチウム)に対して現在想定されている放射線学的な分配係数および濃縮係数は、見直しが必要であろう。」との結論である。


(Distribution of tritium in estuarine waters: the role of organic matter
Andrew Turner*, Geoffrey E. Millward, Martin Stemp
Journal of Environmental Radioactivity 100 (2009) 890-895)
河口水域におけるトリチウムの分配――有機物質の役割(pdf,14ページ,373KB)
http://www.torikaesu.net/data/20181122_watanabe.pdf


さらに同論文によると「タンパク質や炭水化物などトリチウムと水素の分別が生じるのは、重い同位体[トリチウム]が、水の分子間にある強力な水素架橋結合部よりも、生体高分子の特徴である弱い水素架橋結合部に、選択的に入り込むからである。自然環境中の錯体構造の有機分子の中に弱い水素架橋結合が存在する可能性が高いことを考慮すれば、トリチウムが水に溶けたおよび堆積物中にある有機物に蓄積し[自然環境中の有機トリチウムの形成]、トリチウムが有機物の吸収と摂取を介して生物濃縮されることは十分予想される。生体高分子にトリチウムが選択的に取り込まれることは、十分に立証されている」とのことである。
ターナー論文は言う。「トリチウム水として河川水と海水に付加されたトリチウムの分配を検証することとした。具体的には、われわれは、固相(固形物)抽出によって、トリチウムと有機リガンドとの親和性を調べ、懸濁した堆積物微粒子へのトリチウムの取り込みの特質と程度を調べた。」
「われわれのサンプルにおける同位体濃縮は、およそ102から104超(100〜1万)の範囲にあると認められる」「堆積物に吸着したトリチウムは酵素によって利用される可能性があり、(トリチウムに)汚染された微粒子を食物として摂取することは、トリチウムが食物連鎖に侵入するもう一つの経路となる。このようなメカニズムは、環境モニタリングプログラムの結果が、トリチウム水として放出されたトリチウムに汚染された数多くの場所において、堆積物を食する生物における生物濃縮を示していることからも立証されている。
IAEAによって現在推奨されているが、明確な定義に基づいて行われた測定結果によっては立証されていない単位数量(下位単位数量)あたりの分配係数と濃縮係数の採用は、再検討が必要であろう。」

自然界やヒトの体内には、トリチウムだけでなく、カリウム40 やポロニウム210 などの放射性物質が存在しており、こうした自然由来の放射性物質による外部被ばく、内部被ばくの影響は、日本人の場合、年間約2.1mSvである。水分子に含まれるトリチウムはこうした他の放射性物質と比較して健康への影響は低く、カリウム40 と比較して1Bq 当たりの影響は300 分の1 以下である。このように、放射性物質あるいは有害物質とされるものであっても、自然界やヒトの体内には一定量が存在しており、人体への影響の大小は、その濃度によることに留意すべきである。p15
これは根本的に誤った記述である。確かに、人体には通常のカリウムに混じって、その1万分の1の放射性カリウム40が4000から6000ベクレル存在する。しかし、このカリウム40と比較してセシウム137やトリチウムのベクレル数を比較して安全を議論することはよく使われる誤魔化しである。幾億年も前から存在するカリウム40に対しては、通常のカリウムの生体活動における必要性から細胞膜はカリウムチャンネルを持ち、それを通じてカリウムイオンは自由に生体内を移動できる。それ故、カリウム40は常に体内にほぼ一様に分布している。ところが人工の放射性元素であるセシウム137やトリチウムは人体の特定の部位や分子に取り込まれ、局所・集中的な被曝を与える。とりわけ不溶性の微粒子としても取り込まれ、局所的に集中的・継続的な被曝を与える。これが、ユーリ・バンダジェフスキー博士達が発見した「長寿命放射性核種取り込み症候群」の原因である。単純に濃度やベクレル数のみで評価することは根本的な誤りである。
トリチウムの場合には、さらに、とりわけ水素の比率の大きい、脂肪組織、脳、生殖細胞などに特異的に取り込まれる傾向があることが実験結果として示されている(『「トリチウムβ線のRBEとその線量率依存性」平成元年度文部省科学研究費助成金研究成果報告書』)。ここから、フィラデルフィア染色体異常による白血病や先天性欠損症による死産および新生児死亡、新生児の中枢神経異常、ダウン症、新生児の脳腫瘍や中枢神経異常などとの関連が示唆されている(詳しくは渡辺・遠藤・山田『放射炎被曝の争点』緑風出版第2章を参照のこと)。
「水分子に含まれるトリチウムはこうした他の放射性物質と比較して健康への影響は低」いという記述はトリチウム水の有機物への取り込みや濃縮、活性酸素を介しての放射線の間接効果を無視する非科学的な議論である。それ故、上の記述は住民をだますことになる。

(トリチウムの生体影響)
くろまるトリチウムは弱いベータ線だけを出すので、影響が出る被ばく形態は内部被ばく。
くろまる国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告による預託実効線量(大人50 年間、子ども70 歳までの被ばく)
トリチウム水(HTO): 1Bq 当たり0.000000018mSv(×ばつ10-8mSv)(注記)1
有機結合型トリチウム(OBT):1Bq 当たり0.000000042mSv(×ばつ10-8mSv)*2,3
(注記)1 体内に取り込まれたトリチウム水のうち約5〜6%がOBT に移行するため、その影響も考慮した数値。
(注記)2 OBT の生体内の半減期は、40 日若しくは1年程度の2 タイプがある。それも考慮した上でトリチウム水と比較して2〜5 倍程度の影響。
(注記)3 トリチウム化合物からの内部被ばく量は、類似した体内分布を示す水溶性の放射性セシウム(セシウム137)と比較して300 分の1 以下となる。
p16
このトリチウムの生体影響が著しい過少評価である。もしトリチウムの排出基準に相当する6万ベクレル/kgのトリチウム水を投棄してそのまま生体内に入り、小委員会案のように5〜6%が有機結合型トリチウムOBTとなったとすると3000〜3600ベクレル/kgとなる。莫大な量のトリチウムが有機物として取り込まれ臓器に蓄積することになる。ただし、有機分子の水素原子の割合を水分子と同じとした。このトリチウムの濃度は恐ろしく高濃度である。たとえば、チェルノブイリ事故の被曝者の被害を医学的に研究したユーリ・バンダジェフスキー博士によると被曝により、多臓器不全で死亡した大人や子どもの臓器に蓄積したセシウム137の1kg当たりのベクレル数は200〜500ベクレルであった(図1-2)。上記のトリチウムのベクレル数はこのセシウム137のベクレルより1桁多い。セシウム137もトリチウムもベータ線を放出するから同様の被害が生じる危険性がある。セシウム137ではもっと少ない体重1kgあたり20ベクレルの蓄積でも子ども達の心臓に異常が起き、心電図に異常がでた。

図1-2 セシウム137の多くの組織への取り込みによる症候群(体内臓器に蓄積の実証)


図1−2のように内部被曝によって心臓などの多くの臓器が損傷され死に至るのは、放射線によって発生した活性酸素やラディカルによる細胞膜の破壊現象であるペトカウ効果のためである。ペトカウ効果というのは、「細胞の膜は高線量の外部照射ではなかなか破壊されないが、内部被曝の形で放射線を持続的に受けると低線量でも簡単に破壊される」という現象である。この現象をアブラム・ペトカウ博士というカナダ原子力公社主任研究員が偶然発見したのである。ペトカウ博士の実験では脂肪の二重層でできた細胞膜のモデルに、外部被曝の形で、高線量の放射線を外部から断続的に照射すると、細胞膜は35,000ミリシーベルトでやっと壊れた。一方細胞膜を放射性の食塩水の中に入れておいたところ、低線量内部被曝の形になって、わずか7ミリシーベルトで破壊された。外部被曝の5000分の1というわずかの放射線量で破壊されたのである。そしてペトカウ博士は細胞膜を破壊するのは放射線の直接作用でなく、放射線によって生じた活性酸素による間接作用であることを明らかにした。(図1−3参照)

図1-3


これまでの動物実験や疫学研究から、「トリチウムが他の放射線や核種と比べて特別に生体影響が大きい」という事実は認められていない。
・マウス発がん実験では、線量率が3.6mGy/日(飲み水のHTO 濃度:約1 億4 千万Bq/L 程度)以下で頻度、質ともに自然発生と同程度となっている。
・原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)によると、原子力関連施設の作業従事者のガン致死に関する、100mSv 当たりの過剰相対リスクは、原爆被爆者からの評価値と同程度であり、「トリチウムは他の放射線や核種に比べて健康影響が大きい」という事実は認められない。
・トリチウムを排出している原子力施設周辺で共通にみられるトリチウムが原因と考えられる影響の例は見つかっていない。p17
これは真実を見ない虚偽の記述である。以下のようにトリチウムの被曝被害と考えられる被害が広く見られる。

(1)玄海原発周辺の白血病の増加

森永徹氏によると、2002年から2012年の間で今回投棄されるのとほぼ同量のトリチウムが放出された玄海原発周辺では白血病が増加している。(森永徹氏の京都での講演資料より、図1-4)

図1-4 玄海原発稼働の前後の白血病死亡率


玄海原発では原発稼働後白血病死が増加した。単年度で見ると、玄海町と唐津市では1983年から増加傾向がみられ、1985年から高止まりしている。(図1-5、表1-2、データ佐賀県人口動態統計)

図1-5



表1-2 1998年〜2007年までの10年間の人口10万人あたりの白血病による死者数

出典:厚生労働省人口動態統計より

参照:広島市民の生存権を守るために伊方原発再稼動に反対する1万人委員会「なぜ広島から伊方原発運転差止めを提訴するのか 報告2 大量のトリチウムの放出とその危険」。

加圧水型原発である北海道の泊原発でもがんの増加が顕著で、泊村は泊原発稼働後、全がんと内臓5がんの死亡比において北海道では1位となってしまった。(斉藤武一著「がんの村」と「泊原発」2020年、自費出版)

(2)トリチウムによる影響と考えられる健康被害のその他の実例

今まで原因物質が不明であったが、最近はとみにトリチウム真犯人説が強まっている。簡単に紹介する。
(1)上澤千尋氏によればカナダのピッカリング原発やブルース原発といったCANDU炉が集中立地する地域の周辺で、子供たちに遺伝障害、新生児死亡、小児白血病の増加が認められている。冷却に用いた重水に中性子が当たるとトリチウムが発生するためである。(上澤千尋氏;「福島第一原発のトリチウム汚染水」『科学』2013年5月号,岩波書店、p504)
(2)ロザリー・バーテル博士は1978年から1988年の間のピッカリング原発からのトリチウム放出量と周辺地域におけるそれ以降の先天欠損症、死産数、新生児死亡数との間に相関があることを指摘している。さらにダウン症、カナダの原子力労働者の高いがん発症、小児白血病の増加とトリチウムとの関連を明らかにしている。Rosalie Bertell, "Health Effects of Tritium" 2005
(3)アメリカでは原子炉閉鎖地域の半径80km以内に住む1歳以下の乳児死亡率を調べた。「原子炉閉鎖前に比べて閉鎖後2年の乳児死亡率は激減した」。9か所の原発の乳児死亡の平均減少率は17.3% だがミシガン州ビッグロック・ポイント原発周辺では42.9%も減少した。Joseph J.Mangano, "Radiation and Public Health Project"
(4)ジェイ・M・グールド博士やアーネスト・J・スターングラス博士らによる乳がん死亡リスクの調査で、「1950年以来の公式資料を使って、100マイル(160km)以内に核施設がある郡と無い郡で、年齢調整乳がん死亡率を比較し、核施設がある郡で有意に乳がん死亡率が高い」という調査結果が出たのである。「乳がん死亡率の高いところの分布」は、「米国の核施設の分布」にほぼ一致する。Jay M. Gould著、肥田 舜太郎、齋藤 紀訳『低線量内部被曝の脅威』緑風出版(2011年)第7章、第8章、図1は217ページ。
(5)アメリカ・イリノイ州シカゴ近くの原発周辺で、子どもたちのガンや白血病が増えていたという内容が伝えられた。小児科医のジョセフ・ソウヤー氏の報告によれば、シカゴ近くのブレイドウッド原発とドレスデン原発の周辺では1997年から2006年の10年間に、白血病や脳腫瘍が、それ以前の10年間に比して1.3倍に増加し、小児ガンは2倍に増えていたという。そしてその後、これらの原発が、2006年までに10年以上にわたり、数百万ガロン(1ガロン=3.785リットル)のトリチウムを漏洩してきたという文書が当局により公開されたのである。Joseph R. Sauer, "Health Concerns and Data Around the Illinois Nuclear Power Plants"
(6)2007年12月にドイツの環境省と連邦放射線防護庁が、「原発16基周辺の41市町の5歳以下の小児がん発症率の調査研究(KiKK研究)結果」を公表した*。その結果は「通常運転されている原子力発電所周辺5km圏内で小児白血病が高率に発症している」というものだった(表1-3)。

表1-3 「KiKK研究」における5km圏のオッズ比


*ドイツ・連邦放射線防護庁の疫学調査報告「原子力発電所周辺の幼児がんについての疫学的研究」。
原題は、Epidemiologische Studie zu Kinderkrebs in der Umgebung von Kernkraftwerken
原子力資料情報室 澤井正子「原子力発電所周辺で小児白血病が高率に発症
−ドイツ・連邦放射線防護庁の疫学調査報告」


(7)フランスでは、「フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)の科学者研究チーム」が、2002年から2007年までの期間における小児血液疾患の国家記録をもとに、フランス国内の19ヵ所の原子力発電所の5km圏内に住む子どもたちの白血病発生率を調べた。結果は「原発から5km圏内に住む15歳以下の子どもたちは、白血病の発症率が1.9倍高く、5歳未満では2.2倍高い」というものだった。しかし、「原因は不明」とされている。
ルモンド紙 2012年1月12日 (要約「フランスねこのニュースウオッチ」)
(8)2002年3月26日、「イギリス・セラフィールド再処理工場の男性労働者の被曝とその子どもたちに白血病および悪性リンパ腫の発症率が高いことの間に強い関連性がある」という論文が『インターナショナル・ジャーナル・オブ・キャンサー』誌に掲載された*。この研究の結論は、「セラフィールド再処理工場のあるカンブリア地方の白血病および悪性リンパ腫の発症率に比べて、再処理労働者のうちシースケール村外に居住する労働者の子どもたちの発症リスクは2倍であり、さらに工場に近いシースケール村で1950〜1991年の間に産まれた7歳以下の子どもたちのリスクは15倍にも及ぶ」というものである。


*H. O. Dickinson, L. Parker, "Leukaemia and non-Hodgkin's lymphoma in children of male Sellafield radiation workers", International Journal of Cancer, vol.99,2002: pp437-444
原子力資料情報室通信339号 上澤千尋「セラフィールド再処理工場周辺の小児白血病リスクの増加 父親の放射線被曝の影響を再確認」(2002年8月30日)


(9)糖尿病などの非がん性疾患にもトリチウムが関与している可能性の指摘。内科の臨床医児玉順一氏(埼玉県)によって、トリチウムと糖尿病の関連が指摘され、トリチウムが、がんや遺伝性の疾患ばかりでなく、非がん性の疾患にも関与する可能性が示された。児玉氏は六ヶ所村再処理工場からのトリチウムの排出で、青森県の糖尿病死亡率が日本一になってしまったことから、その前に約20年間も日本一を続けていた、徳島県と伊方原発の操業と2012年以降の停止との関係から、トリチウム汚染と糖尿病の増加の関係を論じている(図1-6、『放射能から生命と健康を守るお話』記録集 福島の子どもたちを放射能から守るプロジェクト@あおもり発行)。2016年からの伊方の再稼働後、2017年には徳島県は再び1位に返り咲いてしまった(図1-7)。このように児玉氏の仮説は両方向で証明されようとしている。

図1-6



図1-7



3.処分方法の検討について
4.風評被害対策の方向性について
5.まとめ
海洋放出について、国内外の原子力施設において、トリチウムを含む液体放射性廃棄物が冷却用の海水等により希釈され、海洋等へ放出されている。これまでの通常炉で行われてきているという実績や放出設備の取扱いの容易さ、モニタリングのあり方も含めて、水蒸気放出に比べると、確実に実施できると考えられる。ただし、排水量とトリチウム放出量の量的な関係は、福島第一原発の事故前と同等にはならないことが留意点としてあげられる。なお、海洋放出、水蒸気放出のいずれも放射線による影響は自然被ばくと比較して十分に小さい。加えて、風評への影響も踏まえると、いずれの方法でも、規制基準と比較して、なお十分に希釈した上での放出を行うなどの配慮を行うことが必要となる。p40
このまとめはトリチウムを含む汚染水を希釈して投棄しても生態系を通じて濃縮されるので危険であることを無視しており誤っている。現実に原発や再処理工場周辺で被害が出ていることを考慮していない暴論である。



第2章 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会報告書を受けた当社の検討素案について
2020年3月24日
東京電力ホールディングス株式会社

1.トリチウム以外の残存放射性物質の危険性、とりわけストロンチウム90の特別の危険性

東電の資料は看過できない内容を含んでいる。ここでは、①トリチウム以外の放射性物質とりわけストロンチウム90(Sr90)の汚染水中の含有量とその特別の危険性、②福島で放出されたトリチウム汚染水は広範囲に拡散されず、「バックグラウンドレベル(1Bq/L)を超えるエリアは発電所近傍に限られる」という東電の拡散シミュレーションを検討しよう。

図2-1


汚染水中のトリチウム以外の放射性核種の含有量について東京電力は具体的なデータを公表していない。基本的なデータもなしに、その放出を議論するのは、国民を愚弄するものである。
だが、広島原爆の放出量と比較可能なほどの莫大な量のSr90がALPS処理水に含まれていることは、東京電力「多核種除去設備等処理水の取扱に関する小委員会報告書を受けた当社の検討素案について」の10ページにある図から容易に試算することができる(上記図2-1、数値は以下に表2-1として表示している)。
東電は、図2-1で、ストロンチウム90の基準値(30Bq/L)に対する汚染水で観測された倍率を、「100倍〜」と表記しているだけで、その最大値を明記していない。汚染水タンク中のストロンチウム90について、過去の東電の発表では、これらタンクはSr90について東電の2018年9月28日発表では2万倍(60万Bq/L)、東電の2013年8月のタンク漏出事故についての2014年4月12日発表では、基準の93万倍(2億8000万Bq/L)とされていた。ここではこの2例を使って計算した。
それによれば、ALPS処理水の中にはおよそ広島原爆放出量(58テラベクレル)の20分1から3分の1程度のストロンチウム90が含まれている可能性が高い。

表2-1 東電の公表しているタンクの告示濃度限度比別のタンク貯留量からのSr90貯留量の試算

注*:これらタンクはSr90について東電が発表した最大2万倍(60万Bq/L)として計算した(2018年9月28日発表)。
注**:東電の2013年8月の事故についての2014年4月12日発表の数字、基準の最大93万倍(2億8000万Bq/L)として計算した。

「〜1倍」のタンクに含まれる汚染水を放出するとしているが、それだけで45億Bqという大量の危険な放射性物質Sr90が環境中に放出されることになる。海の生態系で生物濃縮されることも明らかである。
このように莫大な量のトリチウム以外の放射性物質が、なし崩し的に放出されてしまう事態は許されない。とくにSr90は、いったん体内に取り込まれると骨に蓄積して容易には排出されず、白血病や骨腫瘍などを引き起こす危険性が極めて高い(名取春彦『放射線はなぜわかりにくいのか』あっぷる出版2013年、209〜213ページ)。
また、ストロンチウム90は2段階にβ壊変し、まずイットリウム90となるが、イットリウムは膵臓に特異的に蓄積し、そこで2回目の壊変を起こし、糖尿病や膵臓がんを引き起こすリスクが指摘されている(アーネスト・スターングラス氏「放射線と健康」青森講演http://fujiwaratoshikazu.com/2011disaster/、前掲名取春彦氏など)。
さらには、脳とその機能に対する、自閉症などのリスクも指摘されている(黒田洋一郎/木村・黒田純子氏『発達障害の原因と発症メカニズム』河出書房新社2014年、291〜295ページ)。

2.汚染水が事故原発周辺で留まり広範囲には拡散しないという東電のシミュレーション

図2-2


東電はトリチウム汚染水の海洋放出の場合の拡散シュミレーションを公表している(上記図2-2)。その結論は、「バックグラウンドレベル(1Bq/L)を超えるエリアは発電所近傍に限られる」というものである。
シミュレーションが行われた具体的条件は、年間放出量以外は公開されておらず、放出がどのように行われると仮定しているのか不明である。トリチウムの放出が継続的に行われているのか、ある期間だけに限られているのか、また図の分布は放出開始後どの程度の期間が経った時のものなのか、放出されるトリチウムの濃度はどのレベルなのか(別な箇所で1500Bq/Lと示唆されているがシミュレーションには明記はされていない)などが明らかでない。
もう1つの不明点は、深さ方向にどの程度広がっているのかが分からないことである。周知のように、海洋の表面付近には、「混合層」と呼ばれる、鉛直方向に水温や塩分、物質などが良く混ざっている層がある。放射性物質が海洋の表層に放出されると、多くの場合はこの混合層の中で深さ方向には一様になって広がることになる。この深さが1mなのか、50mなのか、100mなのかで、海水1リットルあたりの放射性物質の量も変わってくる。混合層は、季節や天候の状況にも依存して変わるので、どのような時期で、どの程度の混合層の深さがあるのかも、結果を理解するためには重要な情報である。
東電の推計では、濃度区分が「10Bq/L」「1Bq/L」で行われているが、10Bq/Lを超える領域が見たところ無いようであり、事実上「1Bq/L」超か未満かだけの区分とされている。通常よく行われる対数で8分割あるいは0.001Bq/Lまでの細かい区分でのシミュレーション結果(後述図2-6参照)は掲載されていない。これらの情報が記載されていないため、結果を正しく理解して、現下の問題に対する適切な結果であるのかを検討することはできないと思われる。
東電シミュレーションの検討に入る前に、福島県沖での大まかな海流の流れのモデルをおさらいしておこう(図2-3)。福島沖には強力な南向きの海流(親潮と対馬海流分流)が流れており、千葉県沖で黒潮とぶつかって太平洋方向に流れる。

図2-3


2019年の台風19号(10月12日上陸)が通過した後の福島県から千葉県沖の13日の衛星写真(読売新聞2019年10月15日、JAXA「しきさい」による、下図2-4)によれば、福島県沖から茨城県沖では、海に流れ出した土砂や泥土により海水が変色し、大きな渦を巻くように南方向に流れていることが見て取れる。これとは対照的に、千葉県の房総半島沖では、強力な北東方向の海流が存在していることが示されている。一番上の濃い大きな泥土の流入が宮城県の阿武隈川、中央部少し上に小さく小名浜港が見えているが、そのすぐ南が鮫川で、ここまでが福島県、中央部下の2本の大きな流入が茨城県の久慈川と那珂川、下方が利根川であると思われる。福島県沿岸に流れ込んだ泥土が大きく南方方面に流れていることがはっきりと示されている。

図2-4


こうして事故原発の沖合数十キロにおいて強力な南向きの海流が存在していることが確認できる。この衛星画像だけから言っても、トリチウムの「バックグラウンドレベル(1Bq/L)を超える(汚染)エリアは発電所近傍に限られる」という東電のシミュレーションが現実を全く反映していない可能性が高いことがうかがわれる。
したがって、①仮にこの東電シミュレーションを仮定した場合どのような結論が考えられるのか、②この東電シミュレーションに対してどのような先行研究があるのか、③それらを考慮した場合この東電シミュレーションをどう考えるべきなのか、と考察しよう。
①まず、東電の発表に用いられているシミュレーションを行ったと思われる数値モデルに関して、数値モデル自体の設定や結果の精度が、今回のトリチウム汚染水放出の状況をシミュレーションするに十分な能力と分解能を持っており、また適切な条件設定をしていると仮定してみよう。すなわち最初から「シミュレーション結果は到底信頼できない」とまでは言えないと仮定して、どのような結論が出てくるか考えてみよう。
とすると、汚染水放出の影響は、もっぱら事故原発沖とその近傍の福島県沖に限られ、海洋放出からの陸上への影響も福島県に限られるという結論が出てくる。既に検討したように放出されたトリチウムは、有機結合型トリチウムに転化し、プランクトンや魚や水鳥により濃縮され、けっきょくは福島とその周辺の住民の健康影響として帰ってくるであろう。われわれは②③で述べるようにこれらの影響は南方向に、首都圏に近づく方向に拡散し、結果的には太平洋全体に、南・東シナ海からインド洋方面に広がると考えているが、東電シミュレーションでは、汚染水の海洋放出の影響は、集中的に、福島県民と福島の漁業者に、さらには関連する福島の旅館業や観光業者に帰されることになる。
つまり、東電のシミュレーションの通りの事態が起こると仮定すれば、東電は、事故放出放射能によってだけでなく、事故処理のための今回の放出によっても、健康影響や被害の大きな部分をもっぱら福島県民にとくに漁業者や観光業者に集中的に加えようとしているということになる。東電が、福島県民や周辺住民に対してであれば、幾重にも被害を与えても何とも思わないかのような、福島県と周辺住民に対する頭から愚弄した態度を、このシミュレーションは表現していることになるのである。
上で見たように、この東電のシミュレーションは、計算結果を一面的一時的に切り取った作為あるいは悪意の可能性が否定できない。その場合、東電自身が、福島に対する「ウソ」や「風評」を流して福島に対する「風評被害」を自分で拡散しているといわれても仕方がない。実際には、被害は決して「風評被害」だけではなく「実害」なのである。
②升本順夫氏(東京大学教授)は、2011年3月の原発事故後の4月末時点について、以下のシミュレーション結果を得ている(「海洋に直接漏洩したCs137の分散シミュレーション」『原発事故環境汚染』東京大学出版会2014年、図2-5)。升本教授のシミュレーションは、東電と同じくセシウム137の拡散をベースとしたものである。升本氏は、いろいろな条件の組合せで、6つのシミュレーション事例を挙げているが、手堅い手法であると評価できる。

図2-5


東電シミュレーションは、升本氏の「モデル5」のほんの一部だけを切り取っているようにも見える。
もう一つの福島からの流出放射性物質の拡散シミュレーションは、青山和夫氏らによるものである。これも、東電と同じくセシウム137をベースにしている。それは太平洋全体から南シナ海・東シナ海さらにはインド洋を対象としたもので、下図2-6の通りである(10.Pavel P. Povinec, Katsumi Hirose, Michio Aoyama; Fukushima Accident ― Radioactivity Impact on the Environment; Elsevier 2013, P.251-252)。

図2-6 福島からの汚染水(1PBqあたり)の太平洋表層水における拡大と移動


もし福島からトリチウム・ストロンチウムなどの放射能汚染水を太平洋に放出すれば、放射性物質はまずは南に、首都圏に近づく方向に流れ、そこで南西方向から流れる強力な黒潮とぶつかって複雑な渦となりながら東に流れ、アメリカ・カナダ東海岸から東南アジア全体を広範囲に汚染することになる。
青山氏によれば、北太平洋での汚染水の移動速度は「270日間に1800km」とされている(実測値)。とすると、東京・バンクーバー間の距離は約7560kmなので、およそ3年余りで北米大陸沿岸に流れ着く計算になる。青山氏によれば、汚染水はそこからさらに「一部は日本近海に戻るとともに、インド洋から大西洋および太平洋の赤道の東で南に越えて南太平洋に輸送されるであろう」という(青山道夫著「東京電力福島第一原子力発電所事故に由来する汚染水問題を考える」『科学』岩波書店2014年8月号0859-60ページ)。福島の海は文字通り世界の海に通じている。福島で流せば世界の海を汚染するのである。
青山氏らのシミュレーションによれば、北米大陸西海岸に漂着する予想時期は、2015年であった。NHKニュースは、2015年4月7日、北米西海岸で採取された海水から福島原発事故由来の放射性セシウム(Cs134およびCs137)が観測されたと報道した。青山氏らのシミュレーションがきわめて正確な予測であったことが実際に証明されたわけである。
東電のシミュレーションは、これらの先行研究やそれに基づく観測事実を全て無視している。
③トリチウムの「バックグラウンドレベル(東電によれば1Bq/L)を超えるエリアは発電所近傍に限られる」という東電シミュレーション結果は、放出するトリチウムの濃度を希薄とし、周囲の多くの河川の流入が汚染水拡散に及ぼす影響を恐らくは無視し(上記台風後の衛星写真参照)、深さのパラメーターを適当に選択し、放出後の期間を適当に選択する(恐らくは短くとる)などによって、得ることが可能であろう。だが、東電が、このシミュレーション結果によって海洋投棄されたトリチウム等放射能汚染水が「発電所近傍から拡散しない」と結論づけるとすれば、それは暴論であり、意図的に操作されたシミュレーション結果を使った誤った印象操作であると言わざるを得ない。福島で海洋投棄された放射性物質が、広く拡散し、太平洋全体や一部インド洋までを汚染することは、すでにシミュレーションの問題ではなく現実の事態である。

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