論評 「世界」2024年2月号星暁雄論文 山田耕作

2024年2月


論評

「壊れた対話を取り戻す」―原発事故をめぐる対話メソッドと哲学者の思考
星 暁雄(技術ジャーナリスト) 世界2024年2月号 200−208


2024年2月13日
山田耕作



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論評 「世界」2024年2月号星暁雄論文(pdf,2ページ,619KB)

はじめに
IAEA(国際原子力機関)はチェルノブイリ事故後10年の1996年の会議で、核の大事故の際、チェルノブイリ事故の対応を総括し、今後は費用のかかる避難ではなく、住民を汚染地に留まらせるという方針に転換した。それに合わせるように、ICRP(国際放射線防護委員会)は2007年勧告やPublication146で福島事故への対応を勧告している。それに基づき現在、年間20ミリシーベルトまでの汚染地での居住を認め、学校での教育を行っている。20ミリシーベルト以上の強制避難区域を除いて避難の権利を認めていない。本来被ばくはできる限り避けるべきとされてきたのであるから、汚染地に留まるように住民を説得することは至難の業である。そのために工夫されたのが国際原子力ロビーによる「エートス(いつもの場所)」の運動である。
エートスの仕掛けた落とし穴
岩波書店発行の「世界」2024年2月号に掲載された表題の論文(「星論文」と呼ぶ)でなぜ「対話」がこれほど問題にされるのか不思議に思われないだろうか。これを理解するには長い歴史があり、すでにチェルノブイリで経験済みのことなのである。
星論文は202ページでつぎのように言う。「安東量子氏の著書『海を撃つ』に印象的な場面がある。安東氏らが開催した放射線に関する勉強会の場で、ある参加者が思いあまって『それで私たちはここに住めるのですか。住めないんですか』と詰め寄ると、勉強会に参加していた専門家ジャック・ロシャール氏は『それを決めるのはあなたです』と突き放すのである。安東氏も『この人を呼んだのは失敗だった』と青くなった。だが、勉強会の別の参加者はこの言葉を聞いて『ハツとして目が覚めたような気がした』という。『自分で決めていい』という発想がそれまで持てなかったからだ」。
なぜ星氏や安東氏は住民自身が決めることを尊いとし持ち上げるのだろうか。住民はそのとき何を根拠に決めるのだろうか。
次の10年も前の記述を見ていただきたい。「国際原子力ロビ−の犯罪」コリン・小林著 2013年、以文社、100ペ―ジ. ベラルーシでのことである。
「最初のミーティングには、100人ほどの村人が集まった。『ヨーロッパの専門家の皆さん、私たちは、このまま、ここで暮らしていくことができるでしょうか』という村人の質問に対して『私たちはこの質問に答えるために来たのではありません。ただし、ここで暮らしたい人々を援助したい』と回答して、倫理的原則に従うことにした、という。たしかに『ここで暮らしたい人々を援助したい』ということ自体は正しいし、ベルラド研究所もやっていたことだ。しかし、現況では、ここで暮らしたいと明確に決心した人たちよりは、決心つきかねる、どうしていいか分からない、経済的可能性がない、など様々な事情に阻まれて、やむなく居住し続けざるをえない人たちも、多いだろう。そうであるならば、最初の質問、『わたしたちはこのまま、ここで暮らしていくことができるでしょうか』という問いに、少なくとも住民の心情に寄り添いながら、誠実な応答をすべきでないだろうか。」とコリン・小林氏はいう。
「要するに、汚染地で暮らすことによる影響がどんなものかは、言わない(明かさない)そのリスクも警告しないし、予防原則も適用しない。ただ、そこに留まる人の生活改善をする、ということなのであった。すると最終的には、ここに留まることを住民に強制することなく、不可避にさせているのである。この問答はまさに落とし穴である」。
「自分で決めていい」、自分で決定すれば自己責任である。生活の保障、経済的な保障、仕事の保障がなければとどまらざるを得ない。まさに落とし穴である。今回、岩波書店はこの「落とし穴」に協力し読者を欺いたといわれても仕方がない。
本来あるべき姿
チェルノブイリでは年間1ミリシーベルト以上の被ばく地は移住の権利が保障される。年間5ミリシーベルト(外部被ばく3ミリシーベルトに内部被ばく2ミリシーベルトを加算)以上の場所は避難の義務があり、住むことができないので避難の権利が保障される。少なくともこれらの基本的人権に基づく保障を原発を推進してきた国家と東電は加害者として補償すべきである。十分な補償がないから避難すべきであるができず、悩み苦しむのである。このような国家と東電という加害者が完全に避難の補償をしないところに問題があり、それを抜きにして対話しても解決しない。何よりも人権と被ばくの科学に基づいて決定されるべきである。このような原則抜きに、利害や立場の違う人がただ話し合っても解決しない。星氏は科学的な決定を強制と取り違えているようである。科学的な結論は自然の法則が必然性として強制するものである。話し合いで変更できるようなものではない。「賢明な破局論」(p201)などを持ち出しているが原子力は大事故が避けられず、他のエネルギーが安いコストで得られるのであるから完全に廃棄すべきなのである。これが科学が教える結論である。全て科学に基づいて、人権を第一に尊重して決定できるのである。
その他の問題点
いきなり星論文は「巨大で複雑で破局的な問題を前にすると、人々の対話はしばしば壊れてしまう」という。これは非科学的な言葉である。星氏が例に挙げている原発や気候変動について科学的な議論が可能であり、取るべき方法も提案されている。核のエネルギーを制御できる方法はないし、地震国日本では原発の安全な運転は不可能である。問題の大小によらず現在の科学の進歩に応じて議論は可能である。未知の部分を伴うときは予防原則に基づいて危険を回避する方法も存在する。被ばくに関して言えばできるだけ避けるべきであり、避難の権利が保障されなければならない。判断ができないのではなくて、人権に基づく避難の権利が保障されていないことが問題なのである。ハイデガーの「放下」などという難しい言葉を用いるのでなく、あくまで科学的に基本的人権に基づいて議論し、決定できるのである。

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