静観しておりましたが
静観しておりましたが(せいかん-、Though it was contemplative)とは、干渉したくてしたくてもう我慢できない心理状態を表明、吐露する際に使われる慣用句の一つである。第三者からは全く静観していたように見えないという所が、この単語の一番の笑い所といえよう。
類義語に「手薬煉引いて待ち構える」がある。
概要[編集 ]
人間というものは押し並べて干渉、容喙、掣肘、妨害行為をするのが大好きで、何か揉め事があれば自分も首を突っ込んで騒ぎを拡大させずにはいられないという困った性分を持つ。事件現場に群がる野次馬や、よその喧嘩に介入してくる仲裁屋気取りなどはその典型だろう。
世界各地で揉め事が起こっており、人々は干渉したい衝動を滾らせている。誰も気にしないなんてのは、幻想に過ぎないのだ。
干渉するのが大好きな人間だが、一方で自分が干渉されるのは大嫌いである。干渉してくるような輩は押し並べて愉快犯か仕切り屋であり、上から目線で尊大な姿勢の、腹の立つ連中である。干渉されることの不快感を知りながら、自分は平気で干渉する、そういうダブルスタンダードを平気でやらかすのも、人間の罪深さである。
だが、やはり干渉されることの不快感を、干渉が無礼な振る舞いであることを知っているだけに、人間は自分の干渉を正当化しようとする。人の干渉は悪い干渉で、俺の干渉は良い干渉だと決め付ける。そうして自分の干渉が良い干渉である根拠を、大義名分を模索し、やがて「静観していましたが」という必殺の決まり文句を援用するようになる。
静観という表現[編集 ]
静観という言葉は、事の推移を静かに見守るという意義で、どちらかと言えば良い意味で使われることが多い。しかし、身も蓋もない言い方をすれば監視、ヲチも同然である。「監視しておりましたが」「今まで愉しくヲチさせていただきましたが」などと言うとマイナスの印象を与えることになるが、「ヲチ」「監視」を「静観」という言葉に代えるだけで、表現が柔和になり、相手に与える不快感を減少させると同時に、自分の干渉の不当性が緩和されるのである。言葉という武器の恐ろしさ、多様性を思い知らされる。
また、干渉という無礼な行為を行うに当たって、静観しておりましたが、と申し訳程度に付け加えることで、自分があくまでも礼儀を重んじている事を主張しようとする意図も含まれている。
相手に責任を擦り付ける[編集 ]
「静観しておりましたが」の後には、必ずと言っていいほど「看過できなくなったので」「あまりに酷すぎるので」などの、干渉する対象を非難する語句が入る。「静観」という表現を使うことに加えて、これらの相手の無作法を非難する語句を挿入することで、干渉される側に非があること、自分の干渉が「正当な干渉である」ことを宣言するのである。
Wikipediaにおいてはタブー扱い[編集 ]
とどのつまり、静観しておりましたがとは、「今までヲチってたが干渉させてもらう」を正当化の為に糊塗する表現である。こういう濁された表現は、円滑な対話の為ありのまま指摘することが推奨されるウィキペディアにおいては方針によって御法度となっており、「静観しておりましたが」と発言したユーザーは方針違反として投稿ブロックの処分を受ける。そのため、「静観しておりましたが」などというウィキペディアンは一人もいない。