銀閣寺
[フレーム]
銀閣寺(ぎんかくじ)は、日本の寺。正式名称は東山慈照寺(とうざんじしょうじ)であるが、慈照寺の僧とマニアの記憶に残るのみであり、銀閣の名で呼ばれることが通常である。
世界初の自宅警備員である足利義政が、自らが警備する場所として造営させた。
概要[編集 ]
なんだかんだで室町時代も7代まで続いており天下泰平の世になっていたため、時の将軍足利義政は豪華絢爛の仏教を信仰するタイ王国を真似て、またご先祖様の足利義満が立てた金閣をリスペクトして銀の寺を作ろうとした。マジカルバナナにて、「マジカルバナナ☆ バナナと言ったら京都。京都と言ったら金閣。金閣と言ったら銀閣♪」 と、誰でもこのフレーズを口ずさめるようにと時の大工さんに頼んで建築してもらう。
しかし義政の嫁、日野富子が「この種無し野郎。お前の〇子には全然オタマジャクシが無いじゃないか。だから全然子供が出来なかったんだよ。将軍職を弟に譲る、なんて言っちゃって本来将軍になるはずの私の子供、尚クンはどうなんのよ!!」、と得意の言葉攻めを義政に浴びせかけた。 そしてまたたく間にこの内輪もめは応仁の乱へと発展。戦には多大の資金が必要になり、幕府の財政は日に日に厳しさを増していった。そのため義政は財政難に頭を痛める。
「銀閣を作る、って言っちゃったから作る事は作るけど銀じゃない銀閣寺を作ろう!!」 、と発案して書院造りという大義名分の下、銀閣寺が設立。とあるギャルゲーマーによれば結局銀の代わりにオリハルコンで作られたとのことらしい。 近い将来に日本三大がっかりの名所になる予定。
歴史[編集 ]
足利義尚に将軍職を譲って以来、人生いよいよ思うままにならず、悶々とした日々を送っていた足利義政であったが、応仁の乱で浄土寺が焼け落ちたのをいいことに、1482年(文明14年)、浄土寺の跡地に山荘東山殿を造営し始める。
応仁の乱による混乱もなんのその。義政は庶民を動員して工事に着工するやいなや、未だ完成していない東山山荘に移り住み、早々と警備を始める。
義政の警備は一種独特であり、戦後の混乱が収まりきらない非常事態であるにも関わらず、空気を読まないで、書画・茶の湯にうつつを抜かすことにより、人々を寄せ付けない(もって、周辺の治安を確保する)というものであった。
そのあまりの引き蘢りっぷりに感動した人々(庭師善阿弥、絵師狩野正信、能楽者音阿弥など)が山荘に集い始めたため、警備は困難を極めるが、元来気弱な義政は、これらの者を追い返すこともできず、共存共栄の道を探る。
警備業務が順調に進んだことで気を良くした義政は、次々と建物を建築するも、その完成を見る前に死去。死後も自宅警備を続行できるよう、山荘は寺に改められた。以後、慈照寺と称する。
文化財[編集 ]
銀閣寺垣[編集 ]
外界と山荘とを隔て、自らの殻に閉じこもり、盤石の自宅警備を遂行するために設けられた垣根。日野富子をも斥ける鉄壁の守り。
庭園[編集 ]
回遊式庭園。義政は、自宅警備員とはいっても、少しアクティブな面もあり、室内に閉じこもるばかりでなく、この庭園も警備対象としていた。銀沙灘及び向月台は、義政の死後、彼の残したゲーム、DVD、MacBookなどのゴミを細かく砕いて材料とし、築いたものである。
東求堂[編集 ]
義政の時代から残る建築物で、もとは阿弥陀如来(等身大フィギュア)を祀っていた。彼は、寵愛したフィギュアに逢うため、遥か数十メートル彼方の銀閣から東求堂まで、猛ダッシュで駆け抜けたという。
書院には「同仁斎」と名づけられていることから大量の同人誌の保管が疑われているが、その可能性を裏付ける史料や発掘成果等は未だに見られない。
観音殿[編集 ]
通称「銀閣」。自宅警備本丸。東求堂と同じく書院造ないしその原形が見てとれる。床の間は、PCの設置にぴったり。障子紙には穴をあけ、電源やLANケーブルを通すことができるなど非常に合理的。基本的に、生活の全て(睡眠とネット)をここで済ませることができるよう設計されている。
関連項目[編集 ]
この「銀閣寺」は、宗教上の都合により、今はまだ完成をみることがかないません。私達は、宗教上の都合により、あなたに、執筆を委ねることしかできません。是非、宗教上の都合により、私達の夢をかなえるためにも、あなたの力でこの「銀閣寺」を完成させてください。 (Portal:スタブ)