淀君
淀君 / 淀殿(よどぎみ / よどどの、1566年または1569年〜1615年)とは、日本史上まれに見る不幸な運命を背負った女性であり、かつ、その不幸を撒き散らしたという点においても随一の女性である。
正直なところ、日本の歴史において一番自軍にいてほしくない人物である。
生涯[編集 ]
1回目の滅亡[編集 ]
本名は茶々。北近江、小谷城の大名・浅井長政とお市の方の間の長女として生まれたとされる。生まれた直後にいきなり何かのフラグが発動し、父親が織田信長を裏切って信長包囲網に参加する。これが、実は娘の持つ強大な負のエネルギーのせいだったと分かるのは、随分と後になる。正直、よかったのは裏切った直後に信長を討ち取る寸前までいったことぐらい。猿の命がけの働きで逃してしまった後は、強大な織田軍の前に、あっという間に追い詰められていき、1573年に浅井氏は滅亡する。父親・祖父母・兄は全員死亡。
幸いなことに、母親が信長の妹(従妹とも)だったこと、幼少だったこと、男じゃなかったことなどの様々な事情から、なんとか命だけは助けられて母親と2人の姉妹とともに、父親たちを冥土へ強制送致した信長の下で暮らし始める。
2回目の滅亡[編集 ]
その後、信長が1582年に本能寺の変で灰になると、この母娘の運命もめちゃくちゃになり、何がどうしてどうなったかは知らないが、猿が嫌いなお市は柴田勝家のもとに嫁ぐことになる。そして、母と一緒に茶々たち三姉妹も柴田勝家の本拠地である越前は北の庄城に向かう。
そして、再度フラグが発動。
1583年に賤ヶ岳の戦いに破れた柴田勝家は、妻であるお市の方と一緒に冥土へ旅立つ。そして、茶々を含めた3姉妹は父母と養父を殺した猿の下で暮らし始める。
3回目の滅亡[編集 ]
そして、恐るべき負のエネルギーは天下人になった猿に対しても発動する。後継者問題に端を発する豊臣家の混乱は、一時期、猿の甥・秀次を後継者にすることで決着すると思われたが、そんな大事な時期に父と母を殺した猿の子供を身ごもる、KYな女性がいた。
彼女だ。
その結果、すでに後継者に決まっていた秀次は斬首。しかも、正妻から側室、息子・娘、侍女にいたるまで39人全員が連帯責任で同じく斬首という、ろくでもない光景が繰り広げられることになる(中には最上義光の娘・駒姫のように嫁いでから数ヶ月しか経ってない側室もいた。ただ、生後1ヶ月の娘などは流石に除外されたが)。このことは、ある意味、豊臣家が滅ぶ遠因となる。
1598年に猿が死ぬと、その負のエネルギーは全開となり、幼少であるわが子の後ろで、色々と内政にちょっかいを出し始める。もちろん、狸はこの時点で彼女の負のエネルギーを熟知しており、関ヶ原の戦いで勝利した後も、大坂城への入城もそそくさと済ませ、さっさと江戸に帰っている。
もちろん、豊臣家はまだまだ強いけれど、彼女がいてくれれば大丈夫。
その予想は見事に当たり、関が原の戦いから15年かけて、彼女は天下人とまで言われた豊臣家を見事に崩壊させて、ただの大坂の一大名に転落する。それでも意地でも徳川の天下を認めず、頭を下げなかった。表向きの理屈は「徳川は豊臣の家臣じゃ!!頭など下げられぬ!!」というものだったが、本音は、徳川秀忠(その頃、家康は隠居して子の秀忠が相続していた)の妻が淀君の妹のお江与であり、妹に頭を下げることは屈辱だったからであろう。そして、最後っぺとして、大坂冬の陣、夏の陣を起こして徳川に戦いを挑むが、たとえ10万の兵力に日本一の名城と言われた大坂城をもってしても、彼女のフラグの前には「風の前の塵に同じ」。
1615年、徳川家康は前の2人の轍を踏まず、自分の下で暮らし始めることを断固拒否し、日本一の負のエネルギーの源を抹殺することに成功。その後、250年にわたる平和を勝ち取る。
功績[編集 ]
勝気な性格と薄幸な運命から、日本最初のツンデレまたはヤンデレとも言われてもおかしくはないが、存在自体が死亡フラグなため、分かっている人間は絶対に分類しない。また、歴史のIfという話にもたびたび登場し、豊臣家が滅びなかったら、冬の陣の前に家康が死んでいたらなど、様々な仮定に対するキーとなる人物である。もっとも、たいていの場合において、彼女がいたら結局は同じである、という結論は、衆目の一致するところである。
裏話[編集 ]
ここまで派手な生涯を送ると、様々な裏話が存在する。もっとも、信長の野望・全国版からはまっていた自称歴史ヲタクにとって、こんなものは裏話でもなんでもなく、ほとんど常識に近い。
不倫[編集 ]
もっとも有名な裏話として、彼女は側近だった大野治長と不倫していたのではないかというものがある。そして、秀吉の子、豊臣秀頼も、実は大野治長との不義密通の子ではないかと噂されていた。しかし、彼女が秀頼を生んだのは1593年であり、もし、不義密通を犯したとすればその前年になる。文禄の役の真っ最中、しかも、秀吉と淀君は日本における最前線、名護屋城におり、そんな中で不倫。そんなバカなことをやる人間は存在しない。それだったら彼女がほかの側室に対して水面下で堕胎させてたという説がまだ説得力がある。もっとも、歴史if大好き人間と書いてオタクと読む人間に、そんな当時の常識や政情を鑑みた話をしても通用しない。
同時に秀頼が秀吉と淀君との間の子ではなく、実は淀君の侍女と徳川家康が密通して生まれた説もある。
ま、どっちでもいいけどね。
ヒステリー[編集 ]
大変に気難しい性格であったこともよく知られており、そのくせ、豊臣家の内政に深く関わっていたこともよく知られている。歴史上、ヒステリー持ちの女性が関わって国が傾くという好例の一つに、毛沢東の妻、江青が関わった文化大革命という、こんな話をするときに、一発で理解してくれる事例が存在する。つまり、あれと同じだったわけだ。幸いなことに、日本には狸がいたため、自壊することもなく、ほとんどの大名が関ヶ原の戦いの後は豊臣家を見捨てて、徳川家に従うようになった。ところが世間の流れとは裏腹に、豊臣家が天下を失った後も豊臣家に従い続けた武家がいた。それが淀君の母方の実家でもある織田家の面々である(具体的には信長の弟の織田有楽斎父子、信長の次男の織田信雄など)。もともと豊臣家は、主君であった織田家の天下を簒奪して誕生したのが、豊臣家が天下を失って全国の大名にそっぽを向かれた時に、織田家の面々だけが豊臣家に従ってくれているとは、もはや皮肉であった。ただ淀君は母方の実家でもある織田家の面々を深く信頼し、ヒステリー持ちの淀君にとっては織田家の面々とのお茶会が快適な気分転換の塲となっていた。ところが、豊臣家が徳川家と決戦するという存亡の危機に際して、信雄は大坂の陣で戦争が始まる直前に、有楽斎父子は戦争途中で豊臣家を見捨てて脱走。豊臣家滅亡後は、彼らは徳川家から罰を受けるどころか重用されたところをみると、徳川家に情報を流すスパイだったとみられる。織田家の面々が大阪城から姿を消した大坂の陣の末期、真相を悟った淀君は極度の人間不信に陥りヒステリーに拍車をかけたことが、真田幸村が起死回生の最後の一手として求めた秀頼出馬を淀君が一蹴してしまった要因となった。
顔[編集 ]
母親が戦国一の美人として誉れ高いお市の方であり、面食いで有名な猿の側室となったことから、その容姿については、美人だった、という点で一致している。しかし、中国における西施のように、傾国の美女という代名詞がつくわけではない。これは、その性格が大きい反面、実は天然痘によるあばたが存在したという事実も大きい。ちなみに、信長を殺した明智光秀の妻で絶世の美女と言われた細川ガラシャの母の煕子(ひろこ)も、天然痘によって、二目と見れない顔になっている。が、光秀は彼女を妻とした(しかも煕子の父・妻木範煕はその際、あばた面で無かった頃の煕子と瓜二つの美貌の煕子の妹を、身代わりとして光秀に嫁がせようとしたが、光秀はそれを看破した上、煕子を選んだ)。
そんな話もある以上、顔についてとやかく言うのはやめておこう。
その後[編集 ]
淀君に対して葬儀が行われるはずが無かった。それどころか墓の在り処すら定かではないし、死を目撃したという記述も残っていない(燃え盛る城内での死だったので目撃しようもなかったのかもしれないが)。このため、淀君は亡くなったとしても成仏されずに怨霊となっている可能性が実に高い。では、この怨霊はどこへいったのか?
現代を生きる我々であれば大阪に止まりつづけたという説が持ち上げられそうであるが、淀君がいなくなってから、江戸時代から戦後までにかけてこの地は世界初のプライベートアクアリウムや公営先物取引市場も開設され、経済的に繁栄を極めた地域である。一抹でも淀の影があったらこんなことにはなりえなかったであろう。
前の各節に記載した淀の性質を思い出してほしい。どこでもどこまでも彼女と懇意である者はもれなく破滅するのである。叔父でさえも、母でさえも。この事実に思いを巡らせたときに、あなたは猿を極めて忌み嫌っているのにも関わらず何故か猿が現在の基盤を作り上げた都市に多数の者が住み着き、現大統領までもその都市から輩出しているというあの場所、あの地域、あの国を思い出さなかったろうか?
これはあくまで独自研究に過ぎない。しかし彼ら彼女らが毎日恐れ慄く超時空太閤とやらは、案外猿ではなく淀君かもしれない。
さらに、近年の検証としては柳生宗矩をひそかに買収し、宗矩に命じて自分にとって邪魔な徳川秀康と加藤清正と浅野幸長らが梅毒に罹ったことを理由に、重度の梅毒に冒された女性を秀康と清正と幸長の側室として派遣させた。その結果、三人ともその女性を寵愛した挙句に、梅毒によって病死したのである。
狡猾な淀君は、被害妄想に陥ったとされるボンクラ公方の徳川秀忠を犯人として祭り上げて、「反徳川」一派を煽動させたと言われている。まさに外道な淀君である。