尾形佳紀
尾形 佳紀(おがた よしのり、1978年 8月5日 - )は北海道 札幌市生まれで神奈川県 厚木市で育った広島東洋カープに所属する内野手兼外野手であった。通称「赤いスペランカー」、「偽鉄人」。
経歴[編集 ]
小学校の頃、親の仕事の都合で札幌市から厚木市に引っ越した。この引越しこそが、彼の運命に大きな影響を与えることになろうとは誰も知らなかった。その理由については後述する。野球センスに優れ、中学3年では複数の野球名門校からスカウトが来たが、3歳年上の兄がエースをつとめていた日大藤沢高に入学した。高校入学後は1年の夏からショートのレギュラーに定着し、3年間で、甲子園出場1回、神奈川県大会準優勝2回を達成。日大藤沢の野球部監督であった鈴木博識は彼の野球センスにほれ込み、日本大学の硬式野球部監督に推薦された時、尾形を必ず日大に進学させることを条件にしたといわれている。大学進学後もベストナインを獲得し、4年次には主将を務めるなど期待されたが、プロには進めず社会人野球のホンダに入社し、2002年、2003年の都市対抗野球での活躍により、2003年のドラフト4巡目で広島東洋カープに指名された。
赤いスペランカー伝説[編集 ]
- 1994年 7月31日、神奈川県大会決勝戦、横浜スタジアムで宿敵横浜高校に惨敗、悔しさをこらえながら、相手校の校歌斉唱を聴こうとしたところ、横浜高校の背番号8番の選手がマウンド付近で転倒し、校歌が流れている最中も足をおさえたまま倒れこんでるのを見て思わず失笑してしまった。だが倒れてしまった多村仁という選手こそが同郷厚木市の先輩にあたり、その後も彼の思念に左右されることになろうとは思いもよらなかった。
- 1996年 7月31日、前年に続き2年連続の甲子園出場を目指し、県大会の決勝戦に進む。相手は因縁の宿敵横浜高校だった。この試合の5回表先頭打者で出た尾形は横浜のエース松井光介(現・東京ヤクルトスワローズ)から頭にデッドボールを喰らい昏倒、出場はしたものの、試合の流れは横浜に傾き大逆転負けを喫した。
- 1999年の大学3年次、東都大学野球リーグでの青学大戦で右膝前十字靱帯を断裂してしまい、約1年間出場できなくなった。その時なぜか神宮球場にはいない筈の横浜ベイスターズの背番号52番の選手 が手招きしてる姿が見えたらしい。ドラフトにかからなかったのはこのときの右膝の大怪我が原因である。
- 広島入団後の2005年 5月28日の西武ライオンズとの交流戦で右膝の古傷が爆発を起こし、以後出場不能となった。ついでにチームも12年ぶりの最下位に転落した。前年の活躍により開幕から1番ショートのスタメンをつかんだ矢先のことであった。
- 2006年、再起を目指し練習に取り組んでいたところ右膝に違和感を覚え検査してもらったところ、「右膝大腿(だいたい)骨滑車面軟骨損傷」、要するに右足の膝から先が幽体化してしまったのである。仕方ないので左半身が幽体化した多村仁の左半身に取り付き、国際大会で活躍した。
- 2007年、マーティ・レオ・ブラウン監督は膝の負担を軽減するために外野へのコンバートを決断って・・・取りあえず爆発も幽体化もせずには済んだが出場試合数は46にとどまった。
- 2008年からは外野に加えサードの練習もしているが、外野のアレックス、喜田剛、天谷宗一郎、サードのスコット・シーボルが絶好調なため、存在そのものが幽霊化しつつある。
鉄人の劣化コピーとして[編集 ]
顔や体型が広島入団当初の金本知憲に似ているが、これは生まれつきそうなったのであって、憧れから整形手術したものではない。本人も宴会芸で「阪神から移籍してきました金本知憲です」などと言っているが、これが唯一の持ちネタであるので最近は受けなくなってきている。 このまま怪我ばかりしては今後の選手生命に関わるので本家鉄人のような筋力トレーニングを主体とした練習方法に変えようとしているが、コーチからは「それだとお前の持ち味である俊足が生きないじゃないか」と言われ、どっちつかずの状態になっている。
そして、orz・・・[編集 ]
2009年 10月9日をもって、広島東洋カープからの永久離脱が決定。かつて、高校時代の恩師鈴木博識氏は「1995年に甲子園に出た時、福留君が注目されていた。だが、PLに福留君が居るのなら、うちには尾形がいる。尾形はそれだけの選手なんだ」と評していた。後のメジャーリーガーと肩を並べるだけの野球センスを持っていたのに、スペランカーと変な関わり合いを持っただけに不幸な結果になってしまった。今はともかく尾形の第二の人生に幸あれと願うのみである(泣)。
関連項目[編集 ]
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