北条時行
北条 時行(ほうじょう ときゆき、1325年以降 - 1353年)とは、南北朝時代に活躍した天才少年。鎌倉幕府14代執権、北条高時の遺子で、まだ小学生ぐらいの年齢で、鎌倉幕府残党を糾合して捲土重来を期して中先代の乱を引き起こし、一時期関東一円を席巻した。敗北した後は南朝と交渉して、一族の朝敵の汚名を払拭するという、小学生ぐらいの年齢とは思えない政治的したたかさを見せた。足利尊氏と後醍醐天皇、弟足利直義の関係に軋轢を生じさせる原因を作り、尊氏の人生は彼の為に大きく狂わされることとなった。
その最大の功績は、朝敵の汚名は意外にも簡単に払拭できるということを世間に周知させたことである。
挙兵に至るまで[編集 ]
幼名を亀寿丸という。母は二位殿で、素性は不明だが側室とみられる。時行は次男で、長兄は北条邦時と言うが、邦時の母は北条氏の家臣を実家とする側室であった。そのため邦時も時行も庶子であった。時行が生まれた生年月日は不明だが、兄邦時が生まれた4か月後に父高時が重病にかかって出家すると、跡継ぎを誰にするかで高時の同母弟である北条泰家か、生まれたばかりの邦時かで争われた。高時と泰家の母は武家の名門安達氏出身の正室であり、邦時の母とは家柄が雲泥の差で、邦時が産まれた時も安達氏の面々は御産所へ挨拶にもいかない程のプライドの高さを見せていた。
かつて高時・泰家の曾祖父である5代執権北条時頼は4代執権北条経時とともに母は正室(安達氏出身)であったが、兄経時が亡くなると、兄の庶子を差し置いて北条氏を相続した先例を踏まえれば、泰家が跡継ぎになってもおかしくなかった。しかし将軍家の家臣である執権北条氏の家臣という身分ながら、鎌倉幕府の実権を将軍や執権以上に掌握していた長崎円喜としては、安達と協調しつつも、これ以上安達が権力を持つことを嫌ったため、まだ赤ちゃんの邦時が跡継ぎになってしまった。後述するように鎌倉幕府滅亡で兄高時が自刃すると、泰家は自分が北条氏の当主になろうとせずに幼少の時行を救出して再起を目指した所をみると、時行の母・二位殿は側室であっても、邦時の母のように北条氏の家臣の娘などではなく、名門の武家か安達氏の縁者の可能性がある。
1333年、後醍醐天皇の討幕の号令に応じた新田義貞による鎌倉攻めが行われ、父北条高時を始め北条一族は皆自害し、鎌倉幕府は滅亡した。8歳以下であった時行は、父の弟である北条泰家の命令で、家臣の諏訪盛高に救出された。盛高は二位殿の元へ赴き、密かに匿う為には敵を欺く前に味方を欺くというセオリー通りに、「もう北条はおしまいですから、お父上様とともに切腹しましょう」などと述べて、二位殿の制止を無視して時行を強奪して連れ去ったと「太平記」には記載されている。二位殿は必死に外まで走って追いすがったが、馬を走らせて時行を連れ去った盛高に追い付けず、悲観して入水自殺したという。なお兄の北条邦時は、同じく鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣である母の兄の裏切りによって、新田方につきだされて処刑された。
時行は諏訪氏の本領である信濃諏訪に連れてゆかれ、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に庇護され、その元で育てられた。
逆襲[編集 ]
成長した時行は、後醍醐天皇による建武の親政に反対する勢力や北条の残党を糾合し、諏訪氏らの後ろ盾を得て狼煙を上げた。 まだ10歳以下の時行だが、挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった。時行は天皇方の軍勢を次々と蹴散らし破竹の勢いで関東へ進軍、ついには鎌倉府に攻め入って足利直義をも撃破、敗走させ、一時的に鎌倉を奪還するに至った。10歳以下ながら、時行の采配は優れ、兵士達の士気も高く、蜂起した軍勢は頗る付きに精強で、佐竹・小山・岩松・渋川・今川など名だたる武家が時行軍に敗れて戦死した。時行軍は三河を目指して敗走する足利軍を追撃して破り、駿河・遠江まで進出した。
足利軍との連戦[編集 ]
鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、誰を派遣すべきか朝廷内で議論が起こった。足利尊氏としては、事実上足利の縄張りにしていた鎌倉を失陥した上、足利一族の領地が多い三河まで失陥の危機となっては、いてもたってもいられず、尊氏は天皇に時行の征伐を願い出たうえ、自らを征夷大将軍に任命するよう要求した。北条家再興と言っても、北条はもともと将軍には最後までなれずにナンバー2の執権止まりであったので、あえて尊氏が将軍になることで時行よりも優位に立ち、将来的には新たな武家の棟梁として君臨することを構想していたのだが、尊氏の真意を見抜き、武家政権の復旧を恐れる天皇は尊氏の要求を拒否した。
すると尊氏は、在京の武士達に独断で召集をかけ、天皇の許しを得ずに独断で京都を出陣した。建武の新政に不満を抱く武士達が次々と足利軍に加わった。結局、この出陣で尊氏が建武の新政と訣別する結果になったが、その結果に決定打を与えたのは、直義が後醍醐天皇の息子で、尊氏と対立して天皇の命令で鎌倉の土牢に幽閉されていた護良親王を、時行軍の人質に取られては困るからと言う独断で殺害したことであった。当然、尊氏は後から知って驚き、直義と口論になる。これが原因で両者の関係がやや疎遠になり、後に足利兄弟は絶交して観応の擾乱を引き起こす遠因となる。要するに、足利兄弟が決別する原因を作ったのは時行ということになる。後に足利と敵対した朝廷からすれば、敵の仲間割れを惹起してくれた時行は功労者といっても差し支えない。北条氏から朝敵の汚名が払拭された背景には、時行による間接的な足利兄弟の離間工作もあっただろう。
直義と合流した尊氏は西進してくる北条軍と、東海地方各地で干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、北条軍は一転して連敗を重ね、退却を余儀なくされた。ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行を育ててくれた諏訪頼重・時継親子は勝長寿院という寺で自害して果てた。自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったが、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた。時行を逃すために自分達の命を張った偽装作戦で、これこそ忠臣蔵以上に忠臣の美談である。時行が一時的に鎌倉を奪還したこの期間の騒乱は先代(鎌倉時代)と後代(室町時代)の間に起きた騒乱として中先代の乱と呼ぶ。
事後[編集 ]
この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は天皇が危惧した通り、自らを鎌倉殿と称して鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与え、鎌倉幕府を再建するような動きを見せたため、後醍醐天皇との亀裂は深みを増し、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり、南北朝時代の幕開けとなった。
時行復活・朝廷への帰参[編集 ]
時行の挙兵は尊氏にとっては天皇の疑心を招き、新田義貞や弟との関係を悪化させるなど踏んだり蹴ったりの出来事であった。が、さらに追い討ちをかけるかのごとく尊氏を仰天させる出来事が起こる。勝長寿院で死んだと思われていた時行が実は生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を免除され、後醍醐天皇が吉野で立ち上げた南朝の武将になった。
まだ12歳以下の時行が、天皇の許しを得るためにどれほどの尽力をしたのかは良く分かっていない。しかも時行を育てた諏訪頼重が自害した後なので、まだ小学生の年齢である時行が、したたかに大人顔負けの政治工作をしたことになる。彼の工作が奏功し、南朝への帰属を容認されたばかりか、朝敵の烙印を押されたまま滅んだ父北条高時から朝敵の烙印を剥がす詔勅も得た。時行による父高時の朝敵撤回はこの上ない親孝行であると子孫を自称した横井小楠からも礼賛されている。この高時の朝敵撤回の最大の意義は、「一度朝敵認定されたものは未来永劫朝敵として糾弾される」というそれまでの価値観を覆したことにあり、「綸言汗の如し」と言われるほどの重みを持つ帝の言葉や判断が、時と場合に応じて平気で覆せる薄っぺらいものであることを間接的に暴露したことになる。その為、天皇の権威を地に落とした「英雄」として、天皇制廃止論者や左翼活動家から時行は称賛されることが多い。
妄想癖が強く躁鬱病の気がある尊氏は、先の北条時行の挙兵は自分を体よく始末するための布石で、帝、時行、新田義貞らは最初からグルだったという壮大な陰謀論を脳内に描いた。尊氏はしてやられたと憤慨し、弟直義になんでそんな事も見抜けなかったと八つ当たりしたため、兄弟仲は益々悪化し、家臣達は尊氏の想像力に辟易した。
時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を世紀の大魔術師、脱出マジックの天才と称揚した(梅松論)。時行はその後南朝方の武将として各地を転戦する。南朝へ帰順した時行は北畠顕家の軍勢に加わり、美濃青野原などで足利軍を蹴散らす。まだ12歳以下の時行も、一軍の将として大人顔負けの功を上げ、足利氏執事の高一族の軍を破った。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた新田義貞と上手く連携が取れず、足利軍との連戦で疲弊した末に戦死、北畠軍は瓦解してしまう。
顕家が義貞と合流し、連携を取ることができなかったことについて、時行が鎌倉を滅ぼした張本人である新田義貞と肩を並べるのを嫌がりダダをこねたという説が流布している。しかし、時行はその後義貞の子である新田義興に随従して足利軍と戦っており、一族の仇である新田と肩を並べるどころかその傘下に収まっている。つまり新田と共闘するのを嫌がりダダをこねたというのは虚構に過ぎない。おそらくこの説は、顕家の拙い戦略と無様な戦死の責任を他者になすりつけたい連中が提唱したのだろう。
顕家が戦死し、北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れして今度は義貞の子新田義興の軍勢に加わり、足利軍に執拗に粘着した。一時は新田とともに鎌倉を占領できたが、敗北すると再び姿を晦ます。水面下で尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていた。
そんな不撓不屈の精神で蠢動し続けた時行も年貢の納め時が訪れたらしい、鶴岡社務録などの史料によれば、正平8年(1353年)に遂に足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。享年は28歳以下。だが、洞院公賢の日記園太暦や今川了俊の難太平記などによるとここでも時行は脱走し行方を晦ましたとある。おそらく尊氏とその郎党は時行のようなものを斬って浮かれていたのだろう。そして足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実を作りたかったに違いない。
そういうわけで、1353年に一応処刑されたことになっているものの、時行の末路については杳として知れず、不明瞭な所が多い。
人物[編集 ]
- 時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄で、諏訪家は宗教色が強い、つまり洗脳が得意であった。諏訪一族は時行にも洗脳教育を施し、時行の精神に北条氏復興への熱望と、ついでに諏訪大明神に対する信仰心を植えつけた。
- ただ洗脳するのみならず、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた。
- 鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだと、頭の固い学者達は強弁しているが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であった。また足利尊氏が北条氏の娘と結婚して厚遇されながら、討幕に転じた裏切りへの怒りも大きいとみられる。
- 時行は、たとえ自分が非命に倒れても、北条の血が後世に残るようにと、育った諏訪の地で大勢の巫女さんに手を付け、また各地を転戦する中でも地元の豪族の娘などを寝取ったりして多くの胤子を残した。このため時行の落胤、末裔を称する家は多く、例えば賤ヶ岳の七本槍の一人である平野長泰や、幕末の思想家横井小楠もその一人である。
凄まじい執念[編集 ]
「命を惜しむな名を惜しめ」という格言に発露されているように、恥を晒すくらいなら死んだ方がマシという考えの多い日本人の中でも、武士はその傾向が顕著に強い。しかし時行は北条家の再興と足利への報復を成就させるという目的を果たす為なら、恥も外聞もかなぐり捨てて我武者羅に行動した。その結果、朝敵の汚名払拭という前代未聞の業績を成し遂げた。時行と敵対した足利尊氏、直義兄弟だが、時行のこの不屈の意思と執念は見本としたようで、追い詰められた尊氏が諦観して自害しようとした時、直義が「諦めたらそこで試合終了でござる兄上、時行めの執念を見習って、九州へ落ち延び捲土重来を図るべきです」と進言して尊氏の自害を止めさせた話は有名である。
時は令和、まさかの着目[編集 ]
そして2021年、『週刊少年ジャンプ』でまさかの彼を主役とした漫画『逃げ上手の若君』が連載開始。しかも、作者は『魔人探偵脳噛ネウロ』『暗殺教室』の松井優征。多くの読者が「美少年が主人公か、義経ものかな?」「歴史を題材としたオリジナルのギャグ漫画?」とか思われていた矢先にこれである。第1話が掲載された同年1月25日には、Twitterでおそらく史上初となる「北条時行」のトレンド入りを果たし、多くの読者が「誰!?」と驚愕した。
『逃げ上手の若君』第1話では、彼を表す言葉として以下の様な文がしたためられている。
- 北条時行 彼の名は教科書に一度だけ登場するかもしれない いずれにせよテストが終われば皆忘れる
- だが彼は この混沌の時代に嵐を巻き起こした
- それは 少年漫画の主人公のように 鮮烈だった
680年の時を行き、英雄になれなかった「卑怯者」は再び我等の前に姿を現したのである。